第35話33 ゼル 4

 どうして今まで気がつかなかったのか?

 

 ナギは今更ながら、自分の愚かしさを噛みしめる。


 レーゼルーシェ・ビャクラン・ゴールディフロウ。

 レーゼの本当の名前。

 レーゼルーシェ。

 ゼル……。 


 白藍の結晶が薄い破片となって、風に巻き上げられていく。朝の日差しを受けて、それはまるで光の殻を破ったように見えた。

 その中から現れる細い影。

 ふわりと滑り落ちる白藍しらあいの髪は腰に届き、陽に晒されない肌は透き通るように白い。

「レーゼ……」

「ナギ?」

「レーゼ」

「ナギ」

 ナギは目の前の人から目が離せない。

 白い顔、大きな瞳、赤い唇。

 その唇が彼の名を紡ぐ。その鈴の音のような音。

「本当にナギ……ナギなのね?」

「ああ……ナギだ」

「……うん」

 レーゼの瞳が揺れた。

 かつては白く濁っていた瞳は今、目の前の浅い泉のように青く澄んでいた。

 大きな虹彩が揺れて光る。盛り上がった涙があふれて頬を流れ落ちた。幾筋も幾筋も。

 レーゼは泣きながら、でも笑っている。そして真っ直ぐナギを見つめていた。

「やっと会えた……!」

 どちらからともなく体を寄せ合い、二人の距離がゼロになる。

 腕の中の娘は折れそうに細い。けれど、柔らかくて温かかった。記憶にある昔のままに。

「……遅くなってごめん」

「ううん……ナギ。私わかってたよ、ナギが必死に戦ってるの……」

 レーゼも広い背中に腕を回した。

 触れ合う部分の熱が、二人を隔てていた時間をゆっくりと溶かしていく。

 苦しみも、悲しみも、憎しみさえも、全てこの瞬間のため。

「ありがとう……ありがとうナギ、私を見つけてくれて」

 ナギはそっと腕を解いて、レーゼの頬を包み込んだ。

「目……見えてるの?」

「うん」

 かつてレーゼは目が見えず、ナギの顔を姿を知らなかった。今見る彼は、覚えているよりずっと背が伸び、肩幅が広くなって、声も以前よりずっと低い。

 そしてナギもレーゼの素顔をよく知らなかった。彼女が隠すので、無理に見ようとは思わなかったからだ。上半分を布で巻かれた顔。髪はなく、声は潰され、皮膚には紫の痣が散っていた。

 だから、共に顔はわからない。

 しかし二人は、お互いの魂の形と温もりは知っていたのだ。長いこと、記憶の底に封印されていたそれは、今ようやく解放された。

「ナギ、大きいね」

 レーゼの唇が震え、そして微笑みの形を作った。かつてナギが見とれた赤い唇。そこだけは以前と同じ。

「でも、思っていた通りのナギだよ」

「レーゼも、思った通りだ。すごく……綺麗……好き」


 どうして、こんなに素直に言葉が出るのだろう。

 こんなに簡単な言葉を、俺は長い間封じ込めていた。

 

 いつのまにか二人の唇は重なっていた。ナギから重ねたのだ。それはとても自然で当たり前の行為だった。

 朝日が二人の輪郭を照らす。泉が歌うようにさらさらと鳴った。

「レーゼ」

「うん」

「もう離れたくない」

「うん」

 指の間を髪が滑り落ちていく。冷えた絹のようなその手触り。

「体……辛くないか?」

「辛くないよ」

 今度はレーゼからナギ唇に触れた。背丈の差があるので一瞬の触れ合いだったが、その感触と小さな音がナギの心を締め付ける。

 泣かないように踏ん張ったのは、彼が男であるからだ。けれど実は、かなり危なかった。

「痣はもうないの。ほら」

 レーゼは細い腕を伸ばしてみせた。もう体のどこにも包帯はない。腕も足も顔と同じように真っ白だった。

「レーゼ……あっ!」

「ナギ?」

「レーゼ、いけない!」

「……どうしたの?」

 いきなり真っ赤になって、目を逸らしたナギをレーゼは覗き込む。ナギは再び目を逸らさなければいけなくなった。

「レーゼ。だめだって。俺に見られないようにして!」

「……え? やっぱり私が変なの?」

 途端に悲しそうになったレーゼに、ナギは慌てた。こんなに慌てたのはいつ以来だろうか?

「ちっ、違う! 違うんだ! レーゼ」

「……?」

「レーゼがあんまり綺麗で、白くて……だから、その……何か着ないと!」

 美しく弾け飛んだ鎧の下にレーゼが来ていたものは、袖なしの薄いシュミーズだけだったのだ。

 体を覆う役目をほとんど果たしていない、ただの下着。肩も膝も丸見えで、靴すら履いていない。

 ナギは皮の鎧を脱いで、その下に着込んでいる同じ革製の上着を脱いだ。

「こ、こんなものしかないけど」

 ナギはレーゼの体を見ないようにして、自分の上着を着せかけた。

「さ、寒いだろう?」

「……寒くないけど……ありがとう」

 レーゼは汗臭いはずの上着に鼻まで埋めた。

「ナギの匂いがする」

「……え」

 昨夜から戦い続けている上着は、防具も兼ねているから重いし臭いし、何よりレーゼには言えない色々なものでひどく汚れている。

 なのにレーゼは、姫君がレースのショールを羽織った時のように嬉しそうに、胸の前で上着を抱き締めているのだ。

 正直、まるで似合ってない。

 ただナギの目に、それはひどく可愛らしく映った。青年は自分の頬が染まっていることに気がつかないでいる。

「あったかいね。嬉しい」

「声、治ったんだな」

 かつてしゃがれていた声は、今は鈴が鳴るようだ。逆にナギの声はだいぶ低くなっている。

「うん。半年くらい前かな? 突然呪いが解けたの。私すぐ、ナギがゾルーディアを滅ぼしてくれたってわかった。でも、同時に」

 白藍の瞳がかげり、声が少しくぐもった。

「ずっと感じていたナギの気配が途切れた……だから、私はナギが死んじゃったと思って、長い間泣いてた……辛かった。体が治ったって意味がないって」

「……」

 ゾルーディアとの戦い。イトスギの森でナギは、エニグマが仕込んだ蔓の攻撃を額に受けた。その時、レーゼにもらった守り石がえぐり取られてしまったのだ。

 あの青い宝石は双晶だったから、お互い呼び合っていたのだろう。

 片方が失われて、レーゼが誤解してしまったのも無理はない。

「すまない。探しても探しても見つからなかった……レーゼの大切な物だったのに」

「石はどうでもいいの。ただ私たちをつなぐものはあれしかなかったから」

 二人は顔も姿も知らないお互いを、ずっと求めあっていたのだ。

「俺も、崩れた塔に仕込まれた映像を見て、レーゼがエニグマに囚われたと思ってしまった」

「……そうだったの。エニグマはをナギに見せたのね」

 レーゼの眉がひそめられた。

「エニグマ……悪い人。最初は彼女を憎んだわ」

 レーゼはナギの仇を取るために、鎧の能力を使ってさすらう中で、クチバたちと行動を共にするようになったのだ。

「レーゼ。今は少し休んだ方がいい」

 ナギは震えるレーゼの肩を抱いた。夜通し戦っていた二人は今、互いの温もりを分かち合うだけで十分だったのだ。

「皆のところに戻ろう」

「……うん。ビャクラン、行こう」

 レーゼの視線の先には美しい青い石があった。それはナギが失った石とと同じ結晶。王家の守り石。

「ビャクラン……これが?」

「そうなの、今は石だけど。私のご先祖様なの」

「え? もしかして、これ、あの鎧か!?」

 ナギは目を見張った。

 無数の光になって散った鎧は、今また一つに結晶し青い光を放っている。

 かつてのゴールディフロウ王族には、高い能力を持つものがいるとは知っていたが、これもその一つだったのだ。

「そうなの」

「これから話さないといけないことが、いっぱいあるな、レーゼ」

「うん」

 レーゼはナギの腰に抱きついた。ナギがその肩をしっかりと抱き締める。

「俺はあなたに傍にいてほしい。もう離れないで」

「うん、いるよ。離れないから、置いていかないでね」

 レーゼは最後の涙をこぼしてから、花のように笑った。

「ああ。離さない。ずっと一緒にいる」

 ナギの目に力がこもった。

 長い間、偽りの名で過ごしてきたが、もうそれは要らない。

「俺はナギだ。レーゼのナギだ」


   ***


この章終わりです。二人の再会、いかがでしたか?

かなり力を入れて書いた部分です。よかったらご意見お聞かせください。

Twitterに鎧の下の下着(?)のイメージを上げます。

こんなのの上に、鎧着てたのよ。

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