『掟と契り(三)』

 軽功を使って湖面を移動する志龍シリュウを追って、成虎セイコも水面に浮かぶ葉っぱへ足を付けた。

 

「————うおっ⁉︎」

 

 期を誤り危うく足首まで沈み込んでしまったが、瞬時に真氣を調節してなんとか再跳躍してみせた。

 

(へへっ、どうでえ! 志龍の野郎は枝でやってみせたが、この成虎さまはうっい葉っぱだぜ! 軽功は俺の方が上だな!)

 

 得意げに歯を見せた成虎はその後も数回跳躍して、あと一跳びで月餅湖げっぺいこのほとりに着ける所までやって来た。その時————、

 

「————跳躍力や速度はいいけど、体重移動はまだまだだね」

「あ? ————ッ‼︎」

 

 突然、背後から声を掛けられた成虎は集中が乱れ、豪快に水没してしまった。

 

「…………ガボッ、ゴホッ! いってえ誰でえ! おかげで湖の水をたっぷり腹に収めちまったじゃあねえか!」

 

 眉を吊り上げながら成虎が水面に顔を出すと、湖のへりに細く格好のいい足首が二つ見えた。こんなに綺麗な骨格の持ち主なら御面相のほうもさぞや美しいと思われ、先ほどまでの怒りを霧散させた成虎はゆっくりと視線を上へ移す。

 

「それは悪いことをしたねえ。手を貸そうか?」

 

 女はそう言って白魚のような手を伸ばし、つられて手を伸ばした成虎の顔が凍りついた。

 

「おや、どうしたんだい? 掴まないのかい?」

 

 美しい足首の持ち主————朱太鳳シュタイホウは怒っているような、いないような微妙な表情で口を開いた。

 

「あ……ああ、いや、それにゃあ及ばねえよ。濡れネズミの俺が掴んじまったら、姐さんの綺麗な手が汚れっちまう」

「濡れネズミ? アタシには水浴びをしてる虎のように見えるけどねえ……」

「……ハ、ハハ…………」

 

 分かりやすく顔を痙攣ひきつらせた成虎は、太鳳の手を借りず自力で岸に這い上がった。

 

「…………」

「…………」

 

 太鳳は仲間を使ってまで自分を捕らえて報復しようと考えていたと思われるが、同じ地面に降り立っても何とも言えない表情を浮かべたまま押し黙っている。それが成虎には逆に不気味に感じられた。

 

(……高飛車姐ちゃんめ。岸に上がりゃあ問答無用で襲い掛かって来るモンかと思やあ、いってえ何考えてやがる。いや、それより何で月餅湖ここに先回りを……⁉︎)

 

「……風邪を引く前に服を乾かした方が良いんじゃないのかい?」

「あ、ああ。そうだな」

 

 突然沈黙を破ったと思えば口から飛び出したのは予想に反して気遣いの言葉である。しかし、太鳳に優しい言葉を掛けられるほど成虎の警戒心は強まっていく。

 

(ぜってえ何か良からぬ魂胆があるにちげえねえ。残念だが、その手は食わねえぜ)

 

 服を脱いでいる時に襲われたら一溜まりもないので、成虎は丹田に真氣を巡らし濡れそぼった衣服を乾かしに掛かった。ほどなくして成虎の全身が熱気を帯びて湯気が立ち昇り始める。

 

「軽功はともかく、内功は大したものだねえ。流石アタシに勝った男だけのことはある」

「……いやいや、とんだお目汚しで恥ずかしいったらねえでさあ」

 

 成虎は愛想笑いを浮かべながら必死に頭を回転させていた。

 

(こいつぁめえったぜ。やっとこさ『アイツ』に逢えそうだってのに、最後の最後にこんなデケえ関門が待ち構えてやがるたあ。なんとかこの姐ちゃんを出し抜いて追い掛けねえといけねえが、どうしたモンかね……)

 

 そうこうしている内に服が乾いてしまい、成虎はわざとらしく伸びをして見せた。

 

「————さてと、服も乾いたことだし、そろそろ行くとすっかね。それじゃあ、姐さん。縁がありゃあまた会おうぜ」

「待ちな」

 

 さり気なくこの場から立ち去ろうとする成虎を太鳳が呼び止める。

 

「……わりいが、ちょいと人を捜してるモンでね。姐さんの相手は後にしてくんねえかい?」

「捜し人っていうのは凰珠オウジュって娘だね? ガク成虎」

「————なんで俺の名を……⁉︎ いや、それよりなんで凰珠のことを知ってやがる⁉︎」

 

 驚いた表情で振り返った成虎に太鳳は勝ち誇ったような笑みを浴びせる。

 

「何故も何もあのはアタシの義妹いもうとだからねえ。思い出したんだよ、凰珠が数年前に月餅湖で虎のような大男と手を合わせたって話してたのをね」

「……凰珠が俺のことを……!」

 

 凰珠に覚えてもらえていたことを聞いた成虎は相好を崩したが、太鳳は面白くなさそうに鼻を鳴らした。

 

「フン、随分と嬉しそうじゃないか。心配しなくてもあの娘は月餅湖の警備担当だからね。会おうと思えばいくらでも会えるさ」

「ここの警備担当? そうかい、朱雀派すざくはの任務ってえワケかい」

「そういうことだね。それじゃあ、始めようか……」

 

 そう言うと太鳳は腕を開いて成虎に歩み寄る。一歩一歩近づいて来る太鳳を押し止めるように成虎は両腕を突き出した。

 

「————ま、待ってくれ! 凰珠の義姉あねと聞いちゃあ手を出すワケにゃあいかねえ! それにアンタ肋骨アバラが折れてるだろい!」

「どっちも気にしなくて良いよ。朱雀派の掟ならあの娘も承知しているさ」

「朱雀派の掟……⁉︎」

 

 その間にも太鳳はゆっくりと間合いを詰めて来る。成虎は考えがまとまらず焦った。

 

(なんでえ朱雀派の掟ってのは⁉︎ まさか一度負けた相手は何処どこまでも追い掛けて必ず殺すとかじゃあねえだろうな⁉︎)

 

 気付けば懐まで侵入を許し慌てて腕を上げたところ、太鳳の細腕が背中に回された。

 

(————ッ⁉︎ 朱雀派にこんなくっ付いた状態で打てる技があんのか⁉︎)

 

 全身に真氣を巡らせ防御しようとした瞬間、太鳳は身体を密着させたまま成虎の耳元に顔を近づけささやいた。

 

「————アタシにお前の『子』を産ませてくれ」

「…………は?」

 

 このにわかには信じられぬ言葉に成虎は思わず訊き返した。

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