『侠侶(二)』

 太鳳タイホウの元から逃げ出した成虎セイコは無我夢中で長い間駆け抜けた後、息が切れるギリギリのところでようやく脚を止めた。恐る恐る後ろを振り返ってみたが、追手の姿は見えない。

 

「…………ハァハァ、なんとか撒けたみてえだな……」

 

 全身汗だくで安堵の表情を浮かべた成虎は急に身体の力が抜け、その場にうつ伏せに倒れ込んだ。

 

「……流石に、この成虎さまももう限界だぜ…………」

 

 全力の軽功で太鳳と鬼ごっこをしてからの大量出血を伴う勝負をした上に、さらに再びの全力疾走である。体内の真氣が尽きかけた成虎はそのまま深い眠りに落ちた————。

 

 

 

 ————どのくらい眠っていたのだろうか。ゆっくりと眼を開けると、どこか見覚えのある風景だと成虎は気が付いた。

 

「……ここは、月餅湖げっぺいこじゃあねえのか……?」

 

 視界の先にはあの日見た時と同じように巨大な月餅が湖に浮かんでいる。真氣を消耗して空腹の成虎は湖面に浮かぶ月餅に手を伸ばしてみたが、やはりそれを掴むことは出来なかった。

 

「へへ……、やっぱり無理か……」

 

 自虐的な笑みを漏らした成虎は伸ばした手をパタリと落として再び眼を閉じた。その時、背後から誰かに呼ばれた気がして振り向くと、一人の女が立っているのが見えた。しかし女はこちらに背を向けており、その顔は見えない。

 

「おい……、おめえはまさか————」

 

 成虎が口を開くと同時に女は無言で歩き出した。成虎は残る力を振り絞り立ち上がると、再び女に声を掛ける。

 

「待て! 待ってくれ! おめえはオウ————」

 

 女に追いつきその肩に手を掛けた。ゆっくりと女が振り返った瞬間、成虎の視界は真っ暗になった。

 

 

 

「————立てるか……?」

 

 どこかで聞いたことのある男の声に眼を開けた成虎は、伏せていた顔をゆっくりと上げた。その先にあったのはなんと栗毛色の馬の顔であった。寝ぼけまなこの成虎は眼をこすって再び確認してみたが、眼の前にあるのはやはりつぶらな瞳の馬の顔である。まさか、この馬が人の言葉を話すというのだろうか?

 

「————お前は、ガク……成虎……!」

 

 再び先ほどの男の声が聞こえたが生憎あいにく馬の知り合いなどはおらず、なぜこの馬が自分の名を知っているのか首をひねっていると、

 

「……どこを見ている。こっちだ」

 

 呆れたような声が馬上から聞こえてきた。視線を上げると見覚えのある男の顔が見え、成虎はあっと声を上げた。

 

「————おめえは、黄志龍コウシリュウ! こんなトコで何やってんでえ⁉︎」

「それを聞きたいのは私の方だ」

 

 数年前、交流試合で成虎と死闘を繰り広げた青龍派せいりゅうはの門人・黄志龍は呆れ顔で口を開く。

 

「……俺ぁ、ここでちょいと寝てただけでえ」

「こんな往来の真ん中で……?」

 

 呆れ顔を深めた志龍だったが、成虎の全身傷だらけの様子に気付くと表情が引き締まった。

 

「……その傷は刀剣のたぐいではないな。手練れの手刀によるものだろう。貴殿にそこまでの手傷を負わせられる者がいるとはな」

「…………!」

 

 志龍の眼力に成虎は息を巻いた。

 

(……この野郎、流石に斬り傷に関しちゃあ大したモンだぜ。けど、おめえに斬られた時の方がよっぽど重傷だったがな)

 

 皮肉の一つでも言ってやろうと成虎が口を開けた時、志龍が馬上から小さな箱を放って寄越した。

 

「……何でえ、こりゃあ?」

「それは青龍派に伝わる『天涼快明膏てんりょうかいめいこう』。斬り傷に良く効く」

 

 青龍派の霊薬を惜しげもなく寄越した志龍に成虎は感激して顔を綻ばせた。

 

「おめえさん、あん時ゃ俺を斬りまくったクセに実は良いヤツだったんだな!」

「あれはあくまでも交流試合でのこと。私は白虎派びゃっこはや貴殿に対して思うところがある訳ではない」

「————!」

 

 『思うところ』という言葉を聞いた成虎は、交流試合で命を落とした姉弟子あねでし永蓮エイレンのことを思い出した。突然、暗い表情になった成虎を見て何かを察した志龍は馬上から降り立ち、包拳礼をった。

 

「————岳どの、交流試合では貴派のご門人が気の毒なことに…………」

「…………よしてくれ。おめえさんがやったワケじゃあねえし、姉さんも覚悟の上だったんだ……」

『…………』

 

 返す言葉もなく二人が黙り込んだ時、盛大に成虎の腹の虫が鳴った。

 

「……腹が減っているのか?」

「お聞きの通りだ」

 

 成虎はゴロンと仰向けになって自らの腹を軽く叩いて見せた。そのだらしない様を見た志龍は溜め息を漏らす。

 

「虎が容易たやすく腹を見せることなどあるのだな」

「知らねえのかい? 虎も腹ペコだとこうなっちまうんだぜ?」

「…………」

 

 志龍は無言で懐から竹皮に包まれた物を取り出し、成虎に手渡した。

 

「————おお! わりいねえ!」

 

 竹皮を開くと香ばしい匂いが広がり、成虎は豪快に頬張る。

 

美味うめえ! こんな美味えちまきを食ったのは初めてだぜ!」

「そこらの露店で買ったものだ。大したものではない」

 

 志龍は再び懐に手を入れると竹筒を取り出し、これも成虎に渡した。

 

「いやあ、至れり尽くせりたあ正にこのことだねえ!」

 

 志龍にもらった水を飲み干した成虎は口元を拭って続ける。

 

「中身が酒なら最高だったがなあ」

「生憎、私は下戸げこだ」

「何い? そいつぁ勿体ねえ。おめえさん、人生の楽しみを一つ損してるぜ?」

「…………」

 

 粽と清水を恵んでもらった分際にあるまじき物言いに志龍は黙り込んだ。しかし成虎は気にする風でもなくたたずまいを正すと、志龍に包拳して見せた。

 

「————黄どの、貴殿のお陰で生き返った心地だ。御礼申し上げる」

 

 礼儀を弁えた成虎の言動に志龍はうなずいてみせる。

 

「気にされるな、岳どの————」

「————おっと、かしこまった喋り方はここまでにしようや! 俺のことは成虎でいいぜ、志龍!」

 

 急にまた先ほどまでの馴れ馴れしさに戻った成虎に志龍は眉根を寄せた。

 

「……その馴れ馴れしさはどうにかならないのか……?」

「細けえこたあ気にすんなって! 俺たちゃあ強敵ともじゃねえか!」

「……なんだ、それは……?」

「知らねえのかい? 昨今の大衆小説じゃあ死闘を繰り広げた相手を強敵と書いて『友』と読ませるんだぜ!」

「申し訳ないが、私が読むのは詩経や兵法書だ」

「へーえ? 変わったヤツだなあ、おめえ」

「…………それで、『岳どの』。こんな所で一体何を……?」

 

 志龍は『岳どの』と強調して言った。どうやら成虎とは一定の距離を取りたいようである。

 

「成虎でいいっての。ところで、ここは何処どこなんでえ?」

「何故、おのれのいる場所が分からないのだ……?」

「自分で言うのも何だが、俺ぁ筋金入りの方向音痴なんでえ!」

 

 何故か誇らしげに胸を叩いて言う成虎に、志龍は再び溜め息を漏らした。

 

「……ここは紅州こうしゅうの南方の街道だ。白虎派の門人の貴殿が何故こんな所にいる?」

「何故ってそりゃあ…………」

 

 まさか女から無我夢中で逃げ出して行き倒れになったとは、格好が悪すぎて口が裂けても言えない。

 

「お、おめえさんだって青龍派じゃあねえか。なんだって紅州にいやがるんでえ?」

「わ、私は…………」

 

 珍しく慌てた様子の志龍に成虎は興味を覚えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る