「ありがとう」と「ごめんね」

 退院して自分の家の次に来た場所がマウンテンバイクのレース会場だった。レース当日に父親が連れてきてくれたのだ。


 いぶきは小さなつえをついている。

 凸凹のない道を少しならば、杖もつかずにゆっくりと歩けるようになっていたが、会場は少し大変だ。

 いぶきが出場する時は、いつもチームで行動しているが、両親は時々応援に来てくれる。

 両親ともスポーツは好きなのだけど自転車の事は素人しろうとなので、口出しはしないし、いつも暖かく見守ってくれている感じだ。


 やっぱりレース会場はいいな〜。自分の居場所いばしょって感じがする。

 いぶきはご機嫌きげんだ。2人でまずはチームの所に行き、あいさつを終えるといぶきが言った。


「父さん、私、ちょっと他にも色々あいさつしたい人がいるし、レースも自由に見たいから自由行動でいいでしょ? ケイタイは持ってるけど、もし会えなかったら、最後のレースの後の表彰式には行くから、さがしてね」


 ケイタイ‥‥‥。病院で自らこわしてしまったけれど、両親にきちんと謝って新しいのを買ってもらったのだった。


「おいおい、いぶき。そんな体でひとりじゃ危ないだろ。今日は父さんと一緒に行動しなさい」


 そんな風に言われても、いぶきは聞かない。


「大丈夫だから。絶対にムリはしない。できるだけ座っておとなしく見てるし。もし困ったら連絡するから、お願い!」


 そう言って、バイバイをしながらゆっくりと父親からはなれていった。


 父親はヤレヤレといった感じだ。今日ぐらいはむすめと2人でゆっくりいられると思っていたが、やはりそうはさせてくれないようだ。少しガッカリしたけれど、久々に本来のいぶきらしい元気な姿を見て嬉しそうだ。


 いぶきがまず一番初めにやりたかったのは鈴香に謝る事だった。


 鈴香はそろそろウォーミングアップを始める頃だろう。いつもローラー台という自転車を固定して足を回せる道具を使ってアップする鈴香の居る所はだいたい分かる。


 やっぱり思った所にいた。ローラーに乗っている鈴香を発見。いぶきは杖をつくのをやめて、ゆっくりと近寄っていく。


 鈴香がいぶきに気づいて「あ! いぶき!」と思わず叫んだ。

 固定された自転車からおりると、急いでかけよってきた。


 鈴香が何かを言う前に、いぶきは言いたい事を言った。

「退院したよ」


 鈴香はゆっくりと自分の腕をいぶきの背中に回して言った。

「ありがとう」


「え?」

 いぶきはドキッとした。

「ど、どうして、なの? おめでとうならまだわかるけど?」


「それを言いにきてくれたから、嬉しいの。だから。そして。良かった。元気そうで」


 本当に嬉しそうに鈴香はそう言ってくれた。


「ごめんね。アップ中に。終わってからゆっくりはなそ。ひとつだけ最初に。少しでも早く、鈴香に謝りたかったの。本当にごめんなさい。

 鈴香はちっとも悪くなかった。なのに鈴香があの時なんて言うから、私は鈴香が悪いんだって言い聞かせちゃって、あんなひどい事を言っちゃった。

 なんで『ごめんね』なんて言ったの?」


 鈴香は少しこまった顔をした。


「だって、それしか言葉が見つからなかったから。私が悪かったって思ったわけじゃないけど、なぐさめてあげられるような言葉が見つからなかったから‥‥‥。

 もしも逆の立場だったら、いぶきは私に何て言った?」


 そう言われて、いぶきも困った。

「んー、言われてみれば‥‥‥。

 声のかけ方って難しいね。

 私はあの時、あんなふうに言っちゃったけど、鈴香の気持ちが何か伝わってて。あの時は意識ももうろうとしてたけど、入院中ずっとあの時の事を考えてた。

 鈴香の顔にケガまでさせてしまって。でも良かった。傷のあとが残らなくて。

 私、まだこんなだけど、がんばってリハビリして、必ずもどってくるから、また勝負してくれる? もう私、あんな事は絶対にしないから」


 鈴香はゆるめていた手に力を込めた。2人の体がくっついた。


「うん。もちろん。待ってるよ。

 あせったらダメだよ。大きいケガなんだから、時間はかかるかもだけど、ちゃんとなおすんだよ。

 よかった。やっと心がスッキリした。あのレースの後、私もずっとモヤモヤしてたし、いぶきの事が心配で仕方なくて、ずっと不調だったんだ。

 でももう大丈夫。今日はいいレースができると思うから、しっかり見ててね。ありがとう!」


「うん。良かった! ありがとう!」


 2人は手をふって、いぶきはゆっくりとその場を去った。

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