モンスター事典という

 モンスター事典というものがある。それには大陸に棲む危険な動物相が網羅され、生態や対処法などが詳しく記されている。古くから何回も改訂をつづけてきた書物で、モンスターと接する機会の多い全冒険者が必携ともいわれている。

 モンスター事典いわく、ハイランドで最も警戒すべき生き物──もちろん人間を除く──は、イシュラーバード・デス・ワームである。このおそるべき節足動物はハイランドの山岳に生息し、成体ならば体長が約一・三メートルにもおよぶ。六〇〇本を越える脚と鈎状の口吻を持ち、分厚いキチン質の外骨格は鉄のように硬い。ふだんは岩陰や土中に潜んでいて、採餌する際には地表へと這い出てくる。イシュラーバード・デス・ワームは雑食性で口に入るものならなんでも食す。主に屍肉を好むが、ときには自分よりも大きな山羊や人間などを襲って餌とする場合もある。

 いまランガー総督の部屋に放たれた一匹のモンスターは、八つの目で侵入者を見おろしていた。ずっと天井近くの梁の上に身を潜ませていたのだ。暗い室内を物色するクロエが梁の真下を通りすぎたとき、そいつが動いた。長い身体の半分ほどが梁から垂れさがる。床へ降りようとしている。しばらくぶらぶらと振り子みたいに揺れてから、大人の腕ほどもある太さのモンスターが絨毯の上にどさりと落ちた。クロエから、ほんの数メートルしか離れていないところへ。

 だが戸棚の前にいるクロエの耳には、なんの物音も届かなかった。部屋には無音の術が施されているせいだった。

 クロエはランガー総督の幻術を見破る方策を探すのに必死だ。横流しされた濃化エーテルに関するカネの流れを記した帳簿と、顧客の名簿。それらがどうしても必要だった。最低でもそのふたつがなければ、ランガーの背任を証明して失脚させることは難しい。とはいえ幻術を破るには、術自体を無効とする解呪か鋭い感覚を用いるしかない。前者は純粋な魔術師ではないクロエには不可能だ。ならば、どこかに術の綻びを見つけるしかなかった。

 しばらくのあいだ、クロエは室内の隅々に目を凝らせて糸口を求めた。しかし、無駄骨だ。ランガーほどの高位な魔術師となれば術の完成度は申し分なく、付けいる隙はない。

 イシュラーバードで起こった騒動が収まれば、ランガーはすぐにもここへ帰ってくるだろう。あせりを募らせるクロエ。その背後へ、生理的嫌悪をもよおす外見の怪物が這い寄る。

 もうイシュラーバード・デス・ワームはクロエのすぐうしろまできていた。そしてそれが、まるで蛇のようにゆっくりと鎌首をもたげた。上を向く丸みを帯びた頭部は屹立した男性器を連想させる。

 巨大な毒虫が、板ばねがたわむようにのけぞった。イシュラーバード・デス・ワームの狩りは獲物に飛びかかり突き刺した毒鈎から強力な神経毒を注入する。なんの前触れもなく、およそ想像できない俊敏さでその身が宙を舞った。しかし、クロエの背中へ狙いを定めた攻撃は失敗に終わる。毒牙にかかる寸前、クロエが横っ飛びに身をかわしたのだ。

 あぶなかった。戸棚の硝子にイシュラーバード・デス・ワームの姿が反射して映らなければ、やられていたろう。その際、咄嗟のことでクロエは持っていた角灯を手放してしまった。床に転がった角灯は壊れなかったが、油が漏れて絨毯に火が移った。

 羊毛の絨毯を燃やしながら火の手が広がる。揺れる炎がイシュラーバード・デス・ワームの姿を闇のなかで浮かびあがらせた。あらためて自分に襲いかかってきた相手を認めて、さしものクロエも目を丸くせざるをえない。

 まるで悪夢から抜け出てきたかに思えるモンスターを前に、表情を歪ませるクロエ。その顔面めがけて、ふたたび攻撃態勢をとったイシュラーバード・デス・ワームが毒液を吐き出した。乳白色の猛毒がクロエを襲う。が、彼女はそれをなんなくやりすごすと、ケープの衣嚢に忍ばせてあった星型の投剣を目にもとまらない速さで放った。

 イシュラーバード・デス・ワームの背板は非常に硬質だが、裏側の腹部に限ってはそうでない。回転しつつ飛来した投剣が柔らかい腹に突き刺さった途端、危険このうえないモンスターは全身で床をもがき転げはじめた。黄色い体液があたりへ飛び散る。やがて、くるりと身を丸めてとぐろを巻いた。それきり動かなくなる。だがまだ死んではいないだろう。

 クロエは異臭に気づいてすぐに口元を手で押さえた。イシュラーバード・デス・ワームは自らの身に危険がおよんだとき、体節の隙間から硫化水素のガスを放出するのだ。物が腐ったような、ひどい臭気である。多くを吸えば命に関わる。クロエはガスから逃れるために室の壁際へ後退った。と、いきなり彼女は首に衝撃を感じた。息が苦しい。頸部になにかが巻きついて、締めあげられている。

 クロエは自分の首に手をやった。なにも巻きついていなかったし、近くには人の姿すら見えない。


「やるな。さすがは黯の騎士といったところか──」


 声がした。ランガーだ。クロエは自分がしくじったのを悟った。


「よくも、あの化け物を退けたものだ」


 いつのまにか無音の術が解けている。絨毯を燃やしていた火が忽然と消えて、部屋に明かりが灯った。魔術的に生み出された光が室内を照らす。ランガーは執務卓の前で窓を背に立っていた。おそらく〝空間転移〟で、たったいまイシュラーバードの街から跳んできたのだろう。彼は片手をのばして、見えないなにかをぎゅっと握りしめるように指を曲げている。念動力を用いた〝理力掌〟により、クロエのほっそりした首を離れた場所から締めつけているのだった。

 ランガーが腕を少し上にあげると、クロエの身体も同じように持ちあがった。喉を絞って呻きを漏らしながら、彼女はつま先立ちとなる。視界が霞んできた。じきに首の骨が折れる。クロエはそうなる間際、腰のベルトへ手をのばした。朦朧とする意識で摑んだのは、暗殺用のごく小さな石弓。ケープの裾がぱっとひるがえった。クロエが構えた石弓からフィドルの弦を弾いたときに似た音が鳴り、短矢が放たれる。

 ランガーはあわてなかった。自分へ一直線に飛んでくる矢をかわすこともなく、持っていた魔術仗を無造作に振ってそれをはたき落とした。釘ほどの大きさしかない短矢はランガーの足元に落ちて、跳ねてからどこかへ消えた。

 どうにか〝理力掌〟の戒めから逃れたクロエは床に片膝をつくと息を整えた。そして、自分とランガーのあいだで丸まったまま動かないイシュラーバード・デス・ワームを顎でしゃくり、


「その子、番犬にしては狂暴すぎではなくて?」

「おまえとおなじだ。皇帝の犬め」

「あら、命が惜しくないようね。皇帝および親衛隊への罵詈を口にすれば死刑よ」

「やってみるがいい。できるのならな」


 ランガーは言うと腰帯の触媒袋へ指を入れた。クロエもケープの裏から星の形をした投擲用の暗器を取り出し、双方が睨み合いの状態となる。

 ランガーの精神集中に反応して近傍のエーテルが励起をはじめた。なにか呪文を使おうとしている。部屋の様子が一変した。エーテルの流れが変化し、幻術が解けたのだ。


「まあ素敵、目がくらみそう」


 とクロエ。それは誇張ではなかった。幻術のベールが取り払われたランガーの私室は、壁の一面が琥珀と金箔を貼った漆喰細工だった。頭上には黄金のシャンデリア。たくさんの絵画が飾られ、室の角には精緻な彫像や塑像が置いてある。ほかにも宝石を散らした工芸品、異国から取り寄せた調度品で部屋中が飾られている。その様は絢爛というより、ほとんど悪趣味に近い。


「地方を治める行政官で満足していればよかったものを」


 カネに飽かした所有欲であふれる部屋を嘲るようにクロエが言った。


「このなにもない土地で、末永く囚人どもと仲よく暮らせと?」

「門地のない成り上がりが、王にでもなったつもり?」

「おまえにいわれる筋合いはない。カネも地位も、わたしは欲しいものはどうやっても手に入れる」

「それも一炊の夢だったようね。あなたはもう終わりよ。この部屋にあるものすべてが、帝国に背いた証拠となる」


 するとランガーは愉快そうに笑った。


「こんなもの、手はじめにすぎん。資金は充分に蓄えた。それを南方の某国へ持参すれば、わたしは宰相として迎えられる手はずだ。雪と氷ばかりの辛気くさい北国にいる、驕慢な貴族どもにへつらうのはもう懲り懲りなのでな」


 会話に応じつつもランガーは油断のない目をクロエへと向けている。もはやこうなっては、やるかやられるかだった。

 ランガーは黯の騎士のおそろしさをよく知っていた。それは人であって人でない。ゲーゲンシュラークという秘薬によって、異能を手に入れた者たちだ。ゲーゲンシュラークは一定のパターンで長期間服用すれば、常人をはるかに凌ぐ反射神経とエーテルへの適応体質、さらには第六感的な危険察知能力さえ身につけられるのだ。薬物の力で自らの身体を作り替えたクロエは、強敵だ。彼女を打ち破るには高等呪文で先手を奪うしかない。


 爆炎で灼き尽くしてくれる──


 ランガーは触媒袋より白燐の小片を取り出した。彼の前方には絨毯の焦げあとがあり、その小さな燻りが種火となる。イシュラーバードの街で総督府を丸焦げとした〝火炎旋風〟を使おうというのだった。ランガーが小さな蝋の塊のような白燐を放り、指で印契が結ばれる。そのとき予期しない事態が発生した。

 官舎の外で鬨の声があがった。つづいて大勢が争う剣戟の音が聞こえてくる。

 一瞬、ランガーは気を取られた。そしてそれを合図としたかに、動く気配のなかったイシュラーバード・デス・ワームが、いきなり彼に飛びかかった。

 いったいなにが起こったのか。

 もとよりクロエはランガーと正面から戦う気はなかったのだ。ランガーが呪文の詠唱にかかったとき、クロエはすでに下等生物を操る〝精神支配〟を発動させていた。

 必要なのは、ほんの少しの猶予でよかった。ランガーは魔術仗を打ちつけて、クロエがけしかけたイシュラーバード・デス・ワームを叩きのめした。虚を衝かれた彼を尻目に、クロエは部屋の掃き出し窓へと走った。大きな硝子戸を体当たりで突き破り、そのまま露台へ出る。ランガーの〝火炎旋風〟がそのあとを追う。

 窓の外の露台が炎で焼かれた。間一髪。クロエはそのとき、もう地上に降り立っていた。

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Dead Man's Switch 天川降雪 @takapp210130

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