2023年 5月上旬②

 *


 時刻は深夜二時。小説を読了した私は改めて該当箇所を読み直し、一呼吸を吐く。

 確かに、これは……矢野教授が覚えていたのも頷ける。内容自体は本格的な山岳小説だ。しかし、この箇所だけは明らかにジャンルが違う。一体、作者は何の意図があって、主人公の過去を描写したのか。そして、どこまでが実話なのだろうか。

 寝る前に、妙なものを読んでしまったことを後悔しながら、床に就く。明日、正確に言うと今日になるが、二限からゼミの発表が控えているというのに――しかし、その日は不思議と、特に寝付きが悪化するということはなく、すぐに私は夢の世界に旅立った。


 その日、私は妙な夢を見た。

 夢の中で私はどこかの山の中を一人、歩いていた。夢ということもあり、私はその状況に対して特に疑問を持つことはない。

 そんな私の前に、ある女性が現れる。青のコートを身に纏い、不自然に顔が歪んでいる――〝青い女〟だ。

 すぐに私はこの空間は夢の中だということを悟った。青い女は徐々に接近してくる。一歩、二歩、その動きが妙にスローモーションだったことをよく覚えている。

 このままでは彼女に捕まる。そう判断した私は――瞼を指で限界まで広げた。これは私が幼少期から悪夢を見た際に行う防衛行動であり、不思議とこの動作を行うと、悪夢から脱出することができた。


 パチッ――


 目が覚める。心臓は激しく鼓動を続けており、額には嫌な汗が滲み出ている。時刻を確認すると、朝の五時。床に就いてから、まだ三時間しか経過していない。

「……なんて夢だよ」

 あまりのリアリティに、飛び起きてしまった。あんな夢を見たのはこの二か月間で初めてだ。しばらくの間、私は頭を抱えていた。やはり、寝る前にあんなものを見るんじゃなかったと後悔しながら、現実への帰還に安堵する。

 その時、部屋の扉の方から何か妙な音が聴こえた。


 ぱんっ


 文字にするなら、こんな音だ。拍手をするような、空気の破裂音が――突如、室内に鳴り響いた。当然、部屋には私一人しかおらず、音の発生源にも心当たりがない。

 寝起きということもあり、聞き間違いことも充分にあり得る。しかし、確かに私は不自然としか言いようのない音を――耳にしたのだ。その後は眠気もすっかり消え失せ、睡眠不足のままゼミの発表に挑むことになってしまった。


 *


『先輩。今、大学にいますか?』


 ゼミが終わり、昼休憩に入る頃、佐々木からメッセージが届いた。


『いるけど、どうした』

『ちょっと今から会えませんか? 9号館で待ってます』


 突如、佐々木からの呼び出しに、私は少々気味の悪さを覚えた。まだ次の報告会まで時間があるはず。しかも、メッセージ上のやり取りではなく、直接会いたいというのは余程の緊急案件ということだろうか。

 ふと――今朝の悪夢が頭を過る。

「…………」

 既にあの夢から八時間近く経過しているということもあり、大半の部分は忘れてしまったが、それでもまだ夢の内容を思い出すと全身に鳥肌が立つ。

 一応、夢のことも佐々木に報告しておくべきだろう。直接、青い女の件とは関係はないが、話のネタにはなると思い、私は彼の元へと向かった。


「これ、読みましたか」

 開口一番に佐々木はある本を取り出す。それは昨晩読んだ例の本だった。


「あぁ、佐々木も読んだのか」

「えぇ。昨日、ネットで注文したのが届きました」


 私は図書館で借りたのだが、彼はネットショッピングで注文したらしい。つまり、私たちは同時刻に――この本を読んだ可能性が非常に高い。

 その時、私は背筋に嫌な寒気を感じた。まさか、そんなことがあるわけがない。決してあり得るはずのない〝偶然〟を思い描いてしまったが、すぐに脳内で否定する。しかし、直後に佐々木は――私が想像した内容と一言一句同じ台詞を放った。



「俺……昨日、変な夢を見たんですよね」



 心臓の鼓動が急激に跳ね上がり、全身から血の気が引く感触を覚えた。

「……先輩?」

 恐らく、私は尋常ではない表情を浮かべていたのだろう。その異変を察したのか、彼が声をかけてきた。


「……お前も、見たのか」

「え? お前もって……まさか、先輩も?」

「あぁ……青い女の、夢だろ」

「……マジ、ですか」


 しばらくの間、両者の間に静寂が訪れた。お互いに、ただ虚空を眺め、脳細胞を駆使し、奇妙な一致に対して合理的な説明を考案しようとする。しかし、いくら考えても……納得できる根拠が思い浮かばない。


「偶然……ですかね」

「……どう、だろうな」


 佐々木の問いに対して、私はただ無機質な返答をするだけしかできなかった。偶然、という言葉で片付けるのは簡単だ。しかし、それぞれ別の人間が同じ日に、同じ夢を見るというのは天文学的な確率ではないだろうか。果たして、この結果を偶然として受け入れていいのだろうか。

 今まで、私たちは青い女に対して、一線を引いていたつもりだった。遠隔から情報を集めるだけ。現地に足を踏み入れなければ、何も起こることはないと。

 しかし、この時――確かに、線を越えてしまった感覚があった。間違いなく、引き金はあの小説を読んでしまったことだろう。どの描写が問題だったのかは今となっては分からない。ただ、これ以上の調査を続けるのは危険を伴うと、本能的に理解してしまった。

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