『ある小説の回想』(●●出版より)

 今となっては耳障りな蝉の鳴き声だが、あの頃の私にとっては夏の訪れを伝える合図であり、心地良いとすら感じるほどの音色だった。忘れもしない。あれは今から二十年前、私が小学六年生の思い出。今でもあの夏の残暑は私の脳裏に焼き付いている。

 当時の私は親が共働きということもあり、よく祖父母の家に預けられていた。両親は揃って外資系企業に勤めており、私も二人の仕事がどれだけ重要なのかは理解していた。少々、寂寞たる心情も抱えていたのは事実だが――そんな私に対しても、祖父母が愛を捧げてくれたおかげで、孤独は感じなかった。

 家の周囲は公園、川、山等の自然に囲まれ、遊び場に退屈はしない環境だったと言える。だが、祖父に■■山にだけは行くなと強く言い聞かされていた。


「あの山はな。鬼が棲みついとるんや。行ったらあかん」


 よく、祖父はこう言っていた。しかし、祖母は信じておらず、そこまで本気にはしていない風に見えた。実際、私も小学校の遠足で■■山に訪れたことがあり、最初は祖父の言葉を信じて萎縮していたのだが、無事に山頂に辿り着き、下山するまで何も不可解な現象が起こらないことから、すっかり迷信だと思うようになっていた。一応、建前上はその言いつけを守るようにはしていたが、そんなものは薄紙一枚で結ばれた誓いである。何かのきっかけで、すぐに破れてしまうような――私の中ではそのような認識の約束だった。そして、ついにその時は訪れる。

「なあ、よっちゃん。■■山に行かん?」

 ある日、数人の友人グループから、声をかけられた。

「西田のやつが、■■山でクワガタ取ったって言ってたんや。俺らも取りに行こうぜ」

 クワガタ――その単語は小学生にとってはあまりに魅力的な誘いだった。当時、私が住んでいた●●区ではカブトムシやクワガタムシといった虫はめったに遭遇できるものではなく、それらの類はデパートでしかお目にかかれないものである。地元の子どもたちにとっては未確認生物の認識に近い。そのクワガタが、■■山にいる。

 祖父の言葉を一瞬思い出したが、断る動機にはならかった。私は二つ返事で快諾し、彼らと共に■■山へ行く約束をした。


 事前に祖母に弁当を作ってもらったが、■■山に行くということは伏せていた。別に、何か後ろめたさがあったわけではない。祖父に直接伝えるならともかく、祖母ならば許してもらえただろう。だが――私はどこかで、背徳感のようなものを覚えていたのかもしれない。家族に秘め事をすることに対して、スリルを覚え、それを楽しんでいたというのは否定できない部分がある。

 朝の九時、●●神社を集合場所にして、私たちは■■山に向かった。それから三十分ほどで麓に辿り着き、山歩きを開始した。しかし、道中にクワガタは見られず、昼頃には山頂に辿り着いてしまった。

「西田のやつ、嘘ついてたんかな」

「もうちょっと別の場所探さへん?」

 山頂で弁当を頬張りながら、私たちは作戦会議をしていた。クワガタは影も形もなく、精々捕獲できたのはカナブンのみだ。せっかく遠出したにもかかわらず、このままでは川にでも行った方がまだ成果はあったというものである。そこで、話し合いの結果、別行動で探索をするという結論に至った。我ながら浅知恵もいいところだろう。西田君の発言の真偽は今となっては確認できないが、基本的にクワガタは夜行性、日中は活発的に行動しない。どこか木の陰で休息を取っており、目視で確認をするのは困難を極める。つまり、あの時に私たちは手当たり次第に木を蹴り、枝に止まっているクワガタを蹴落とすべきだったのだ。それならば、まだ発見できる可能性はあっただろうに。

「じゃあ、今から別行動な。よっちゃんはあっちで、誰が取っても、恨みっこなしやで」

 それぞれ別のルートから下山し、私たちはクワガタ探しを再開した。だが、クワガタを発見することは叶わなかった。八月も中旬が過ぎ、そろそろ夏の終焉も近い時期だったが、その年は特に残暑が厳しく、煮えたぎるような暑さだったことはよく覚えている。水筒は特大の二リットルサイズの魔法瓶を持参していたのが、あっという間に大半を飲み尽くしてしまった。

 いつまでも姿を現さないクワガタに苛立ちを感じていたその時、ある音がどこから聴こえてきた。その音は――ブンブンと、自動車がエンジンを吹かしているような重低音。または羽虫の飛行音に非常に近い音だった。すぐに、私はその音が何らかの虫が飛翔している音だということを察した。近くに、音の持ち主がいるはず。咄嗟に周囲を確認する。


 いた。頭上に何らかの影が飛んでいるのを発見した。日光に照らされており、クワガタかどうかは確信を持てなかったが、サイズはかなり大きい。少なくとも、カナブンではない。虫取り網を構え、頭上の影に目掛けて降り下げた。

 バサッ、と網は空を切る。影は――その場から消え失せ、網の中で何かが蠢いていた。

 捕獲成功だ。柄からも手ごたえを感じた。逃げられないように地面に擦り付け、網の口を掴み、獲物の姿を確認する。

 しかし、その時――私は違和感を覚えた。クワガタの色は黒のはず。しかし、網の中で蠢いたそれは黄色だったのだ。あとコンマ数秒の猶予が残されていたなら、その正体を察することも可能だったかもしれないが、間に合わなかった。

「痛ッ⁉」

 私は網を掴んでいた右手に尋常ではない痛みを感じた。擦り傷とは比較にはならない、形容できない痛みだった。瞬時に網の中にいた虫に刺されたということを察する。

 鋭利な針のような器官を持ち、人を刺す虫。ここでやっと、私は捕獲したのがクワガタではないと確信する。網の中にいたのは――巨大なスズメバチだった。

 猛烈な熱が手の甲に広がる。私は呻き声を上げながら、その場で十分程度動けなくなってしまった。

 蜂に刺されたのはこれが初めての経験だった。噂以上の激痛に、涙が止まらず、情けない嗚咽を出し続ける。目を開き、刺された右手を確認すると――真っ赤に腫れ上がっていた。思わず、心臓の鼓動が急激に跳ね上がる。

 まさか、この毒が原因で、死んでしまうのではないだろうか。

 常識的に考えるならば、スズメバチの毒で人間が命を落とすということはない。万が一、可能性があるとしても、それは二度目に刺された場合に起こり得るアナフィラキシーショックによるものだ。だが、まだ幼い私は本気で死ぬのではないかという疑念に駆られていた。それだけ体験したことがない激痛であり、耐え難いものだった。

 既に痛みで冷静な判断力を失っていた私は網を放置して、一目散に下山を開始した。早く病院に行かなくては死ぬ。本気でそう思っていたのだ。


 蜂に刺されてから三十分程度が経過した。しかし、痛みは引く様子はなく、依然として手の甲には灼熱の業火に炙られているかと錯覚するほどの熱が宿っている。少しでも冷まそうと、残り僅かに残っていた水筒のお茶を傷口に注ぐ。その処置は正しく、多少は痛みが紛れた気がした。

 それから更に三十分が経過する。おおよそ二時間程度もあれば登頂できることを考えると、そろそろ麓に辿り着いてもおかしくない距離まで来ているはず。そこで、麓の水道の水でもう一度傷口を洗い、急いで病院に連れて行ってもらおう。そう私は考えていた。しかし、それから数十分、山道を下っても――麓に到着することはなかった。

 何か、おかしい。

 この時にやっと、私は異変が起きていることに気付く。明らかに、下山時間の計算が嚙み合わないのだ。既に一時間半近くは山道を歩いているはず。途中、全速力で走り、更に下り道ということを考慮すると、もうとっくに辿り着いていてもおかしくない。だが、周囲はまだ森林に覆われており、山を抜ける気配はなかった。

 一瞬、蜂に刺されたことを忘却するほどの悪寒が全身を駆け巡る。まさか、あり得るはずがない。必死に現在の状況を否定しながら、私は歩みを進めた。


 どれだけ時間が経ったのだろうか。体感では数時間近く下山をしていたが、一向に山を抜ける気配がない。日は既に傾き始めていることから、午後五時前後ということは推測できる。つまり、四時間近く山を彷徨っていることになる。まず通常のルートでは考えられないほどの時間だ。しかも、不自然な点はまだ残っている。

 蜂に刺されてから――他の登山客とすれ違った記憶がないのだ。八月下旬ということもあり、人の出入りはまだ多いはず。実際、午前中は何十人という登山客とすれ違っていたのだ。しかし、ここ数時間は人影を見た覚えがない。気温は三十度を超えているにもかかわらず、私は真冬の氷点下に放り込まれたかのような寒気を覚えた。

 さすがに、ここまで状況証拠が揃ってしまえば、いくら小学生でも現実を受け入れるしかない。私は――遭難してしまったのだ。依然として手の痛みは鼓動を続けるように痛んではいたが、遭難したという事実の前では蜂に刺された程度はたいしたことがない問題なのは子供でも理解できてしまった。

 体力は既に底を尽きかけていたが、歩みを止めるわけにはいかない。刺された手の甲を確認すると、素人目でも異常だと分かるほど真っ赤に腫れ上がっており、目を逸らしてしまった。家の門限は六時、恐らく、最速で山を降りても、間に合わないだろう。友人たちはもうとっくに下山しているはず。合流しない私を心配しているかもしれない。

 不安、焦燥、怖気。様々な感情が私の中で入り乱れていたが、不可解な疑問が心の片隅に引っ掛かっていた。なぜ――私は遭難してしまったのだろうか。いくら熟考しても、その解答には到達できなかった。

 確かに、蜂に刺されてから数十分間は冷静な思考能力を牛っていた。だが、それで登山道を外れたというのは些か考えにくい。実際に、私が歩いているこの道は舗装されており、何らかのルートに該当しているはずなのだ。■■山の標高を考えると、いくら遠回りをしても、道なりに山を下れば必ず麓に辿り着く。刹那、私は――祖父の言葉が脳裏を過る。


「あの山はな。鬼が棲みついとるんや。行ったらあかん」


 鬼が棲みつく。その言葉の意味を、私は理解していなかった。何も、絵本に出てくる鬼が本当にいるわけではない。祖父は――何らかの異形の存在を、鬼と表現したのではないだろうか。そして、私はその鬼の通り道に迷い込んでしまったのではないだろうか。

 小さな疑念はぶくぶくと膨らみ、やがては恐怖という実に成る。蜂どころか、遭難でさえ見劣りするほどの事態に陥ってしまったのかもしれない。幼い私の精神では既に耐えられないほどの負荷が掛かっていた。

 だが――その時、視界の端にある物体を捉えた。山の緑に相応しくない奇妙な色彩の物体が数十メートルほど離れた距離に佇んでいたのだ。


 色は青。正確な大きさは分からないが、隣接する木々から推測するに、当時の私の背丈よりも一回り以上大きい物体。最初は鳥かと思ったが、それにしては巨大。では何らかの人工物だろうか。看板、ブルーシート、工事。しかし、それにしてはどこか違和感がある。言語化するのが困難だが、どこか無機物とは思えない生々しさのようなものが感じられたのだ。質感、とでも言えばいいのだろうか。とにかく、それは何らかの生物だということを無意識のうちに察していた。

 どうする。このまま歩みを進めるべきか。それとも引き返すべきだろうか。いや、一本道である以上、進む以外の選択肢は存在しない。意を決し、私は前進した。

 徐々に、それとの距離は狭まる。三十メートル、二十メートル、十メートル。だが、いくら接近しても、まだ正体を掴むことができない。むしろ、輪郭が鮮明になるにつれて、謎は深まるばかり。強引に解釈するなら、青い炎、だろうか。不定形に時折揺らめいており、女性のスカートを彷彿とさせられる。

 その光景を前にして、私は――先日、テレビの心霊特番に登場していた女の幽霊を思い出してしまった。

 別に、特に共通点があったわけではない。しかし、そのゆらゆらと揺れる姿と幽霊が身に纏っていた着物と非常に酷似していたのだ。なぜ、こんな時に幽霊のことを思い出してしまったのか。自戒をしながら、私は目を瞑り――それの前を通り過ぎた。

 十歩程度歩いた頃だっただろうか。コツンと、私は何かに足を引っ掛けてしまった。体勢を崩し、その場で転倒する。思わず目を開けて、足元を確認すると、そこには握り拳程度の石が転がっていた。

 すぐにこの石を踏んでしまったことで転倒したということに気付いたのだが、その時、視界の端に妙な違和感を覚えた。


 先ほどの青い物体が、消えている。


 確かに、そこに佇んでいたはず。だが、ほんの数秒の間に、雲散霧消の如く消え失せてしまった。一体、あれは何だったのかと、周囲を確認しながら振り返る。

 ――すると、私の視界は青に覆われた。

 一瞬、何が起こったのか混乱したが、すぐに状況を理解する。私の目の前に、それは移動していたのだ。

「…………」

 あの光景は今でも鮮明に焼き付いている。それは私をじっと見降ろしていた。顔と呼べる部位は存在しない。その不定形な青い物体は私を通せんぼするように、目の前に立っていた。

 数十秒、いや数分かもしれない。私の思考と体は止まってしまった。凍結という単語が適切だろうか。突然の対処不可能の情報の波に思考回路が停止する。一度、止まってしまった電源は再起動するまで時間を要し、その間、私はただそれと対峙していた。

「あぁぁぁっ」

 そして、ようやく平静を取り戻した私は――情けない声を振り絞りながら、それを押しのけ、走り出した。それから先の記憶はない。無我夢中で山を下ると、いつの間にかあれだけ歩いても辿り着かなかった麓に到着していた。そこには心配そうな表情を浮かべる友人たちが待機しており、彼らの姿を見て、ようやくあの長い登山道を抜けたということを理解した。そこで、彼らから手が腫れていることを指摘され、蜂に刺されていたことを思い出した。あれだけ酷い痛みだったにもかかわらず、その瞬間まで、痛覚が麻痺していたのだ。


 私が■■山で見たあれは何だったのか。それは今でも分からない。あの出来事は誰にも話しておらず、友人たちには蜂に刺されたことで山を彷徨っていたと説明し、祖父母はそもそも■■山に赴いたこと自体知らない。

 まさか、恐ろしい幽霊と遭遇したなんてことを口外してしまったら、友人には臆病者のレッテルを張られ、祖父には叱られるかもしれない。何のメリットもない行動だったのだ。

 今でもあの記憶は心の中に根付いている。私が山に執着するようになったのも、■■山の出来事が影響しているというのは否定できない事実だ。しかし、その日を境に、私は一度も■■山に足を踏み入れたことはない。

 あの日から二十年。祖父は五年前に亡くなり、祖母も昨年にこの世を去った。■■山の逸話を知る世代は徐々に減少し、やがては伝承の命脈は途切れてしまうのだろう。だが、あの山には確かに鬼が棲んでいる。

 現在も、■■山には大勢の人々が訪れているが、鬼の存在を知る者はいない。

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