第9話

 歯を磨きたいというので―彼女は部屋を三度出ていった。いった。僕もお茶を飲んで口内環境を多少はマシにする。

「センセイ、お待たせ」

 彼女は僕の後ろを歩いて―彼女の席に戻る。

「遅かったね」

 10分くらいは歯を磨いていたのではないだろうか…。

「センセイ。そういうことは―言わないのがマナーだよ」

 彼女は僕のいつも通り―右隣の席に座った。

「それはいいけど…。そろそそ授業を始めないと。じゃないとクビだし」

 彼女は―いきなり僕の肩と首に手を回して、腕を蛇のように絡めてきた。駅の問いとは違い、もう少し―色っぽい。

「…なにかな?」

 彼女は僕の肩に顔を乗せた。

「その…、わたしが勉強頑張ってこれたのも…センセイのおかげですよ…」

 耳元で―唇がくっついたり離れたりする音さえ聞こえそうなくらいの距離で―彼女は続ける。

「センセイのおかげで―半年間頑張れたし、テストでも1位になれた。センセイがいなかったら―そもそも、頑張れなかったと思うの。センセイがいなかったら40位から30位の間にいたと思う」

 半年前から、確かに彼女は―頑張っていた。

「それに…あのとき、わたしがテストで実力を出せたのは…。センセイのおかげだから…」

 僕の…おかげ…か。

「テストの日の朝にあえて…その…。嬉しかった…。だから…その、ちゃんと成果が出せたと…思うの」

 不確定要素で点数が下がることがあれば、反対に不確定要素で点数が上がることもる。

 不確定要素―例えば、体調不良、人間関係、追い詰められること、追い詰めること、あるいは、誰かと仲直りをすること、僕に会うこと。

 しかし―あのときはそんなことを考えていなかった。なにもできないから、なにもしないのは―単純にイヤだったという理由しかない。あのとき会いに行ったのはそのくらいの理由で、それが彼女のためになるとは思っていなかった。

「だから…その…。ありがとう」

 顔を下に向けながら彼女は言った。耳が赤くなっているのが視認できたので、多分―顔を見られたくないのだろう。

「えっ…と、その―どういたしまして…」

 なんだか―告白されてるような気分になった。

「だから―これは…お礼」

 彼女は僕の頬にそっと唇を当てた。冷たくて、柔らか感触があって―しばらくその感覚が残った。

「えっと…うん…あっ…う…」

「な~に?センセイ?キスしたことないの?」

「ないよ。彼女もできたことないって…」

「そうでしたね」

 と、僕より優位に立とうとする彼女、僕を小馬鹿にする彼女。しかし―耳まで真っ赤にしている所を見ると、虚勢を張っているようだ。

「センセイ―顔赤いよ?」

「それは、君もだよ」

 と言おうと思ったけれど、負け惜しみみたいでやめた。

 僕もそうらしい。必死に冷静になろうとしているけれど―頭の中は妙に鋭く回転して、そのくせまともな思考にならない。

「えっと…そういうことは、もっと大事な人ができてからにしなさい」

「センセイより…。やっぱりやめた」

 そう言って―彼女は僕の体から両手を離した。今まで圧迫されていたのに―不快とも、イヤだとも思わなかった。

「ねぇ―センセイ?約束通り―『ご褒美』が欲しいな」

 猫なで声と、上目づかい。僕は彼女のそういうところに弱いな―と思う。

「…さっき食べたじゃん」

「え~。センセイ。わたしは『ランフェのケーキとか。おいしいですよね』と言っただけで、『ご褒美』がケーキなんて一言も言ってませんよ?」

「そんな罠張るなよ…」

 けれど、まぁ今更な気がしている。彼女の頑張りには―できるだけ答えてあげたいのも事実だし。

「で…なに?常識の範囲内なら―聞いてあげるけど…」

 確かに―僕はそんなことを言ったはずだ。

「センセイ。名前で呼んでください。愛莉って。わたしのこと―名前で呼んでくれたことないよね…」

 それは―僕が家庭教師で、君が教え子だからだよ…。そう思ったけれど…。今更か…。キスされるような自体になったし…。

「えっと…愛莉…さん」

「呼び捨てで―呼んでみて…」

「愛莉」

「はい!」

 彼女は元気よく返事をすると、勢いよく飛びかかってきて―僕を押し倒した。ついでも椅子も倒れる。

「…な…なに?」

「センセイを―逃げられないようにしようと思って…」

「別に―逃げたりしないけど…」

 愛莉は僕に馬乗りになって言う。

「センセイ?これからも―わたしの家庭教師でいてくれますか?」

「そういう―約束で、1位取ったんでしょ?」

「そうでした。それから―わたしの味方でいてくれますか?」

「それも―約束するよ」

「優しいね。―センセイ…、わたしが好きって言ったら…どうする?」

「まぁ…。うん…努力するよ。できるだけ期待には応えるし、要望があれば聞いてあげる」

「…嬉しい」

 そう言って僕の上からいなくなった。

 僕は面倒くさい人に好かれたものだと思う。けれど―まぁ、それでよかったのかもしれない。

 先生と教え子か…。付き合ってるって、バレたら―クビだ。しかし―なるようになる…、否、できるようにするか。

「センセイ?今日の授業はなにをするんですか?」

 立ち上がると―バラと石けんの香りがした。多分これが―ロマンスの香りなんだろう、ふと―そう思った。


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教え子がテストでクラス1位を取ったら? 愛内那由多 @gafeg

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