第4話

 『誰よ!!さっきの女!!』

 と電話越しに大声で怒鳴られた。耳元で声がするのも苦手だが、耳元での大声も苦手なんだ、という新たな事実が判明した。そんなことは置いておいて。

 スーパーから帰ってきて、夕飯を食べて、風呂に入って、歯を磨いて、寝る直前に―電話が来た。スマートフォンの画面に表示されていたのは―真壁愛莉の文字。

 正直―いつか来るんじゃないかと思っていた。

「大声出されると―迷惑だから」

『そんなの!どうでもいいから!答えて!!』

 電話から音が振動として伝わってきて、それが耳に当たるのが不快だ。けれど、それ以上に―彼女の機嫌をどうにかしなければ。

 少し緩衝材としての会話をして、本題に入ろうと思った。なによりもまず、少しでも怒りを静めてから―説明するべきだ。

「一旦―落ち着いて聞いて欲しいんだけど…」

『わたしは―冷静です』

 声のトーンを少し落として言った。けれども―全く怒りが収まっていないことが、電話越しに分かる。

「ちょっと深呼吸して…」

『すぅぅぅ…。はぁぁぁぁ』

 呼吸音が間近に感じられて―少しぞわぞわする。背中を逆撫でされたようで、あまりいい気分ではない。

『で…誰なんですか?あの女』

「一応、言っておくけど―その言い方はよくない」

『別に―いいでしょ?誰か分ってたら、こんな言い方しません』

「で、さっきはなんでスーパーにいたの?」

『家から近いから…、お使いも頼またし…』

 僕のことを邪険に扱えないので、質問に答えざるを得ない。

「そうなんだ…。偉いね。僕は高校生の頃、家の手伝いなんてしなかったから」

 今でもしてないけれど。

『別に…。そんなことよりも―さっきいた女の人は誰ですか?』

 少し落ち着いた様子。

「あいつは―妹だよ。妹の玲」

 遠回りしておいて、この程度のオチなのは―聞いてる方は呆れそうだと思った。僕が彼女の立場なら―まぁ、呆れるだろう。

 けれど―そうはならなかった。

『嘘。浮気してる人は―みんなそう言うもん』

 彼女の怒りは再び沸騰して、さらに続ける。

『だって―仲よさそうにしてたじゃん。ベタベタしてさ。そんなので―妹?信用する分けないじゃん。妹だ、なんて言い訳―浮気の定番じゃん』

「浮気ではないよ!」

 こっちもつい、声が大きくなってしまう。そもそも―なんで僕が浮気してる、みたいな感じで通話してきたのか。そこのところも―僕は納得してない。

『じゃあ―なんで、あの場で紹介しなかったんですか!やましいことがなければ―紹介してもいいじゃないですか』

「そんなことする前に―君が走っていなくなったんじゃないか」

『人がどんな思いで―いたのかも知らずに…。引き留めたらよかったじゃないですか!』

「買い物かごが重くて―走れなかったんだ」

 とか言ったら―余計に怒られそうだ。なんて言うのが正解かな…。だって妹ってこと以上の真実はないし…。

 そんな感じで、返事に迷っていると―スマートフォン越しに言った。

『センセイが―わたしの味方じゃなかったら…。どうすればいいんですか…。わたしはなんのために勉強を頑張らないといけないんですか…』

 力なく小声で。いつものような元気さも、さっきみたいな怒気もない。ただ―心情を淡々と語るだけ。

 彼女が勉強を頑張る理由は、クラス1位を取んないといけない理由は―『ご褒美』のため。高い洋菓子店のケーキが欲しいから。

 なんて―そんなわけがない。そのくらいのことは―僕だって理解してる。今まで―それなりに彼女と一緒の時間を過ごしたんだ。

「一応…聞くけど。なにかあった?僕は―基本的には君の味方だよ」

 浮気疑惑があるのに、このセリフは酷いな。とは思うけれど、これ以上に言えることが見つからない。

『どのくらいですか?どの程度の味方ですか?」』

「えっと…常識の範囲内かな」

『それだけ?』

「全面的に―君の味方です。だから―なにがあったのか教えて」

『そう…。ならよかった…。センセイが味方で安心した』

 今度こそ、本当に落ち着きを取り戻した様子だった。

『…。今度のテストでいい成績取らないと―家庭教師を変えるって言われて…』

「ご両親に?」

『そう』

 彼女の両親が厳しい人だと知っていた。まさか―そんなことをするのか、とも思う。

 しかし、親目線に立場に立てば当然で―成績を伸ばせない家庭教師なら変えるのは当然の対応だ。

『確かに―3ヶ月でクラス順位が20くらい上がってる…。でも、この3ヶ月間は成績が上がっていないから…』

「今まで通りのペースで上がるわけなじゃん。だって―成績上位になれば競争が過酷になるんだから。それに―この3ヶ月でも少しづつ成績は上がってるでしょ?5つくらいは」

『ママはそのくらいじゃ…許さないから…』

「それは…こまったな…。ってことは、『ご褒美』が欲しいって言ったのは…なんというか…、自分を勉強に向かわせるための」

『願掛けとか、気合いを入れるため―みたいな…。気付いてたの?』

「薄々。そんなんじゃないかと…。でも、家庭教師の変更は初耳だ」

 僕だって家庭教師を変更されたら―困る。給料が減ってしまうし、それ以上に…。

『わたし―もっとセンセイと勉強がしたいの…』

 嬉しいことを言ってくれるが、一旦、黙って聞き手に回る。

『だから―今回のテスト…頑張んないといけないの…。でも…無理だよ…。いきなり、1位なんて…。これまで10位以上は取ったことないのに…。それでも―結構頑張ってきたんだよ…。でも―ここでセンセイが変っちゃったら、今までなんのために頑張ってきたのか分んなくなっちゃうし…』 

 彼女の泣き言が止まる。僕は「頑張れ」と言うべきなんだろう。

 しかし、もう既にかなり頑張っている人間に―「頑張れ」、と言うのは酷だ。

 なので―

「信じてる」

 と言った。

『浮気者のくせにかっこつけるな』

 と返されて、電話を切られた。

 …。

 明日は―通常の家庭教師の仕事があるなぁ、とふと思った。明日―真壁さんに会うのは、気まずいなぁ。



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