時は満ちて

 ヘリコプターが過ぎてゆく音が上空に聞こえて、僕は自分が横たわっていることに気づいた。目を開けると木の葉が揺れる向こうに淡い青空が見えていた。頭を動かすと、泥に髪をひっぱられた。時計を見ると日付は戻っていた。バンたちを見失ってから十八時間。どうやらいつからか夢を見ていたらしい。しかしこれも夢ではないか? そう思わないでもなかった。

 起き上がって髪や服から泥を払い、歩き出すと右足のふくらはぎに痛みが走った。見るとズボンを貫通した噛み跡があった。――蛇? 俺は毒で昏睡していたのか? しかし意識は冴え、意思は充実していた。――気を失わないうちにひらけた場所か電波のある場所へたどり着くこと、それが第一だ。来た道を行けば捜索隊に出くわすかもしれない。そう考えて十五分も歩いたところで、山岳救助隊を見つけた。大声がうまく出せなかったので、石を鳴らして気づいてもらった。そのまま病院に搬送され、処置と検査を受けた。マムシに噛まれてショックは起こしたものの、症状はほとんど残ってないという所見だった。

 バンに連絡がいき、バンからニケに無事が報告された。ニケが着替えや荷物を持ってきてくれた。ニケは涙ぐんでいった。

「心配しましたよ、ほんと」

 バンに帰還した旨を伝え山行の礼を言った。

「そんなことはお安い御用です。でも帰ってきてくれてよかった!」


 僕はルツに会いに行こうと思った。電話すると、ルツは泣いていた。

「もしもし……」

「ルツ、帰ってきたよ」

「……テンなの?」

「うん、俺だよ。遅くなってごめん」

「ほんとよかった……。ニケに聞いて……心配で……」

「本当に悪かった」

「……いま病院にむかってたんだけど」

「途中で落ち合おう。一緒に上野に行きたい」


 三十分後、僕らは駅のホームで会えた。ひとしきり抱きあってから、駅を出てタクシーに乗った。……大丈夫なの?……聞きたいことがありすぎる……家にいられなくて上野にいたの……こんなことがあったから、いっしょに行けて嬉しい……僕はルツの肩を抱いて頷き、ルツは僕の左手を両手で握っていた。駆け抜けてきたように心臓が鳴って、鎮まるまでに時間がかかった。

「ほんと泣いちゃった」

 ルツはそう笑った。ちょっと痩せて目元が赤く不憫に思った。


 上野駅に着くと、風が冷たくて鼻の奥がじんと痛んだ。公園の大通りは、洪水に流されたように人もなく、地平線を見るような遠さを感じた。美術館を過ぎて中央に来ると、ひらけた空は高い雲に覆われて、蓋をされた巨大な箱のように見えた。左に折れて鳥居をくぐり、石の灯籠のあいだを歩き、僕らは隠れるような階段に向かった。かつて僕らはこの階段で待ち合わせることが多かった。ここから散歩したり、近くのルツの家に行ったりした。その階段に並んで腰を下ろした。

 僕はダイのことを、事実と夢とを別にして話した。ダイの本当の胸中は分からないが、重苦しい呪いを抱えて、この世に留まる場所を持てなかったことは事実のように思えた。僕らはしばらく沈黙していた。

「ともかく行ってよかったよ。自分のなかに区切りができたと思う」

 それから僕らは食堂に向かった。並んでいると当時を思い出して、あれが懐かしい、これが変わったと話をしながら定食を買った。

「はあ安心する。目の前と思い出でいっぱいにしたくて」

 僕は少しでも安心させたくて、ルツの手に触れるようにした。


 食事を終えてから、僕らはしばらく歩いた。厚みを増した雲のもと、葉の落ちたソメイヨシノは骨のように手をひらいて、いくつもの枝はしゃぶりつくされた魂の残骸のように落ちていた。その暗がりを進むにつれて、嫌な考えが付きまといはじめた。《この道の先に彼女は居ない……》冷たい風が吹きつけ、身体から盗むように体温を奪った。魔物が潜むような道は曲がって、何もかもを吸いこむ切れ目のように閉じていた。《俺はまた逃げ出すだろうか……》僕は立ち止まり、不安を追い払おうとした。《……いいや、いかに暗かろうと。》そして敢えて振り返った。――すると意外にも西の空は輝きはじめていた。それに目を奪われていると、寄り添って頭を傾けたルツから花のような香りが漂い、どこかで練習するらしいチャイコフスキーの喇叭(らっぱ)が響いた……。ただこの風景のなかにも心を落ち着かせないものがあった。それは灰色した建物の向こう、岩山から覗く巨人のように、異様だが優しげな眼差しを向けた部室棟の辺りにあった。僕はその古びた外壁や黒い窓を見つめながら、その何かを探した。そして窓に人影を見とめると、小さな光源が迫ってくるのを感じた。僕は窓のひとつに吸い込まれて、曇りガラスを埋めつくすまっしろな光を見ていた。――その光はルツのなめらかな素肌を照らし、若葉とともに祝福していた。僕のなかでルツとの思い出が駆けめぐっていた……。

 感性を肯定しあい、心身を共鳴させた日々! ――八年間、離れてもお互いの存在を身近に感じ、それぞれの世界を暖めて幸福を願っていたのは、その日々があったからだ。それらはあまりにも焼きついて、僕が世界を美しいと思うとき、そばにはルツがいた。そのように認識される世界に、僕は自分の人生を感じていた。――そのような歪みに、フェティッシュに、かけがえのなささえ感じていた。――この愛すべき人生の歪み。俺たちの人生はこんな風に分かちがたく重なり合っていた。《そうだ、いかに暗かろうと。》俺はこの絆をこそ慈しんで死んでいくべきじゃないか。


 僕は口をひらいた。

「ルツ、俺の世界は君と出会って永遠に変わった」

 ルツは顔を上げた。僕は道に目を落としつつ話した。

「ずっと待ってたとは言わないよ。八年は短くない。このあいだまでUSで会った人と付き合ってたし、すぐに連絡もしなかった。でもルツのことをかけがえなく思いつづけてたのは本当だ。……あれから随分器用になったし、信念をもつことも覚えた。チャンスをくれるなら、もう君を置いていったりしない。……俺のそばに居てくれないか? 俺は君と生きて死にたい」

 ルツは真剣な様子で見つめ、微笑み、ゆっくり顔を伏せた。

「……私、待ってたよ。八年も面影を追ってた。なんて言ったらバカみたいね。何回か付き合いはしたけど、期待できなかった。もしかしたらまた捨てられるかもって思ってたのかもしれない。でもいやだったのよ。……だから惑星の軌道みたいに、いつかまた重なるといいなって思ってた。重ならなくても、他の誰かが見つからなくても、私の人生はそれでいいと思ってた」

 ルツは落ち着いた声でそういった。それから僕の手を握りなおして、水が沁みわたっていくような笑顔でこちらを見ていった。

「だからテンが帰ってきたときすごく嬉しかった。……あなたを見てるとコンコンと愛情が湧いてくる。それだけで幸せなくらい。私もテンと生きて死にたいよ」

 僕は深くから出て空を染めていくような愛情を感じて、ルツの頭をゆっくりと抱き寄せた。そして腕を緩めてキスをした。その快感と快楽の記憶が強烈に押し寄せて混ざりあった……。


「今日はずっとふたりでいたい」

「帰ろう」


 僕らは六本木までタクシーに乗った。車内では手を取って寄り添い、目を合わせては照れ笑いして、あまり話さなかった。車寄せにつけてもらい、受付と挨拶を交わし、キーでドアを通ってエレベーターに乗り、額が飾られた内廊下を通って部屋に入った。ルツは重厚感のある内装を喜んだ。窓の外の空はいくぶん赤みを増していたが、太陽は雲を金色に輝かせて、そこからいくつもの筋を地上に下ろしていた。

 僕は窓の外を眺めていたルツを後ろからそっと抱きしめた。ルツの心音を感じる。そしてルツが振り向いてキスをした。僕らは互いの上着を剥いでいった……。


 しばらくして僕は目を覚ました。隣にはルツが静かに眠っている。僕は人知れず咲く小さな花を思い出した。このたおやかな花を慈しみ、日々のさまざまな表情と表現を記憶に留めたいと思う。

 それからふたりで階下にあるスーパーに買い物に行った。旬で新鮮な食材を買って、家でサーモンと新玉ねぎのクリームソースとサラダを作って食べた。


 ひと段落してソファに並んで座ると、僕はルツに訊いた。

「ルツ、ひとついいかい?」

「怖いのはいやよ」

「二度と怖がらせないよ」

「じゃあ教えて」

 僕はわざとらしく咳払いをしてから言った。

「俺はこの人生をかけて君を幸せにする。一緒に過ごした時間を決して後悔させない。少なくともそう言い切れるように努める」

「……プロポーズ?」

「ああ、一生の信念さ」

「……うん」

 そう答えてルツは僕の身体に抱きついた。雨が川となりまた細く分かれてゆくようにルツは泣いた。僕はルツの頭をなでていた。かつての自分の言葉の無責任さと、分ちがたい人生の妙を思いながら……。


「やっと戻ってこれたよ。遅くなってごめん」


 *


 次の春、僕はあの街の町長に会いに行った。町長は中央政府とも交流をもち、先進的な取り組みに前向きな人だった。町長は簡素な会議室に通してくれた。僕は自己紹介から始めた。

「私はUSで会社経営をしていた者なのですが、実はこの街の人に助けてもらったことがあるんです」

「え、そうなんですか」町長は機敏に答えた。

「その恩返しも込めて、自己資産でやってみたいことがあります。実は住民税もここで」

「町の方でしたか、ありがとうございます。……どんな事業でしょう? ぜひ聞かせてください」

 僕は構想を簡単に説明してから、興味を感じてもらえたことを確認すると、用意した資料や試算データを見せた。資料には、独自予算を生み出す方法と費用、事業スキームと運用方法を記載し、試算データには、経済自給がどれくらいの予算を生むのか、ばらまきがどの所得の消費を促し、どの産業に流れていくか。さらに所得や人口の流出入、平均年齢や出生率にどう影響していくかを記載した。数値がないものについては、属性の類似する自治体の平均値を活用して算出していた。

「この仕組みができれば、この街が独自にできる社会保障や産業支援などの選択肢が大きく広がります。

 上手くいけば新しい自治になるだろうし、失敗しても私が資産をばらまくだけです。新しい取り組みにネガティブじゃなければ、いい提案になりませんか? もちろんリスクレビューもしっかりやります」

 町長は好感をもったようで、幼げに口を尖らせて感想を述べた。僕は町長に実情を聞いて仮説の乖離を改め、各論を詰めていった。ひと通り終えてしまうと町長は息をついた。

「しかしこう私財を投じられるのも珍しいですね」

「幸福と生産性の両立というのを試したいんです」


 この話は進んで、町議会で起案する準備をしてもらっている。情報公開が可能となれば、企画に加えて各省庁との調整や公募などもサポートしていく予定だ。


 *


 自宅の東に見晴らしのいい丘があったので、僕らはその上に石を積み上げてユリの種をまいた。晴れ渡る空は遠く澄み、眼下には川と街が見下ろせた。そして木陰に小さなシートを敷いてひと息つくと、煙みたいに質感のあるため息が出て、なんだか肩の力が抜けるようで心地よかった。持参した三十年物の古本はヴァニラとシナモンの香りがして洒落た仕上がりだった。木漏れ陽が紙面を踊る静かな朝。


「考えてたのだけど」ルツは言った。

「人生の意味って、それぞれの枕草子を作ることじゃない? ――春には若葉を見て、夏には鮎を食べて、いとをかし。それで十分な気がする」

「……自分の心を動かすもので生活を作る。いつかの哲学みたいだ」

「ははは、正解」

「ずいぶん先越されてたな~」

「変わらないことなんだよ」


「人生はさ、自分の生活と充実を守って、あとは社会にできることをできるかぎりでやる、それで十分だと思う。

 ……でも社会は競争に負ければ滅びる。グローバル企業に産業が潰されたり、武力で略奪されたり、生産力がないと別の社会に呑まれてしまう」

 ――結局いかに文明ヅラしたってここは欲がぶつかり血が流れる世界で、マネーゲーム、パワーゲーム、そんな馬鹿みたいな小競り合いに巻きこまれてしまう。だから自分たちが血を流さないために、何で勝ちつづけ、何を守るか、社会を機能させねばならない。

「社会には尊厳がない」

 ――そう、尊厳がないんだ。だから社会が弱って蹂躙されたとき、人々に退避を支援するべきだ。どうして尊厳ある人間が命を張る? それが駄目になった社会の最後の良心ってものだろう。

「社会は機能に過ぎない」

 ――ただ自由と民主主義は、専制主義に手段で劣ろうとも生産性と結束で勝る道があるはずだ。強いられるより自由にやる創造性が勝り、占有より協調が勝る、そういうものであり得るはずだ。


「私って生産してるのかな?」

「人一倍だよ。ルツの経済効果すごいでしょ」

「ふふ、よかった」


 ――でもルツ、君は生産なんかしなくったってかけがえのない人だ。時計みたいに生きるより、悪魔と戯れていたらいい。自由から逃走せず、自己と向き合いつづける生にこそ、かけがえのなさという尊厳が際立つものだ。機能、機能……そればかりじゃなくて、もっと人格を目的として、決して機能だけを目的としない社会を作ることができたなら。……なあカント、君のいう目的の王国を。僕らの本当の生活を。……俺はそのために自由と尊厳を歌いつづけたい。


 僕はメフィストフェレスに会いたかった。彼こそが人間の尊厳であるようにさえ思えた。


「ねえルツ、また小説を書いてみるよ」

「素敵、どんなこと書くの?」

「そうだな、これまでの人生……俺が経験したそんなものが、誰かの力になるように。……メフィストフェレスをつかまえてさ」

 ルツはこちらを向いて微笑んだ。

「きっといいものになるよ」


 いつか僕は誰かに息のできる世界を差し出せるだろうか? いつか僕は生の芸術を創れるだろうか? いや、そんな大したものでなくていい。砂のようにこぼれていく僕の人生から、ほんの少しの好意だけでも受け取ってもらえたらそれでいい。――やってみようと思う。やらなくてはゼロだ。あの懐かしい悪魔をつかまえて、思想と表現と記憶を引っ張りだして、現実を忘れるくらい没頭してみよう。この世界の美しさと自由を教えてくれた、十七月に耳を澄ませて。


二〇二二年

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十七月の歌 未来 @mirai_a

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