十七月の夢

 ルツから僕とユノのいるグループにニュースが送られてきた。

 ――山中で男性遺体、登山中に滑落か


 ダイが遺体で見つかり、美大のクラスで情報を集めているらしい。ニュースによれば、発見現場は僕の家から遠くない山の中腹だった。

 僕は起業してから、ダイに一緒にやらないかと声をかけたことがあった。簡単なプログラミングや雑務からスタートして技術部門で一人前になっていこうというロードマップを考えたが、現実にはギャップがあったようで一ヶ月と経たずにやめてしまった。僕はそれから連絡が取れなくなっていたが、ルツの友人経由で聞くところ海外にいたらしかった。最後に聞いたのはデンマーク。欧州やアフリカを転々として暮らしていたらしい。

 ruth: お葬式も親族だけだったみたい。外傷がひどかったそうで

 ten: そうなんだ……。教えてくれてありがとう

 yuno: 言葉が出ない……

 ten: いつ帰ったんだろう?

 ruth: 私も連絡取れなくなってたから、わからないのよ。

 ten: ちょっと話を聞いてみたいな。

 それから僕はルツの友人にダイの実家の連絡先をもらって電話をし、その週末に伺うことにした。


 週末、ダイの母が出迎えてくれた。目元が似ていて懐かしかった。僕はお悔やみの挨拶をして、改めて学生時代の友人としてダイのことを伺いたいと伝えた。彼女は発見現場の写真、地図を見せてくれた。

 写真を見ると首輪みたいな赤い線が見えて、「もしかして死因はこれですか?」と僕は指さして訊いた。彼女はそうだと答えた。枝が折れて転落したそうだ。写真のダイは少し引きつっているものの、表情がなく模型みたいだった。まるで意識なんて一度もなかったみたいに。

 彼女は抑制に抗うように口を開いた。

「実は、あの子が高校生のとき、二ヶ月ほど精神病院に入院していたんです。上の娘が事故で亡くなったあとから、塞ぎこむようになって、感情を抑えきれずに暴れてしまうこともありました。それで病院に行くと、衝動制御障害と診断されて、入院したんです。経過がよく、退院できたのですが」

「本当に辛いところ……。娘さんのご不幸もあったとは、お母様の気苦労、計り知れぬほどと思います」

 僕はこの人の良さそうな母親が経験した二つの死に対して、これ以上の言葉が思い当たらなかった。善きにしても刺激しすぎないように気をつけつつ、いくつかダイの思い出話をしたり、一緒にふざけて撮った写真を見てもらったりして、ほどなく退席させてもらった。


 *


 数日ぶりに山に帰宅するとタローはベッドのそばで眠っていた。シャワーを浴びて戻ってくるとタローは目を覚まして戯れてきた。〈帰ってきて嬉しい〉という率直な表現を可愛らしく思う。

 その夜、ルツからメッセージが来た。

 ――山の方にいっていい?

 ――いいよ、散歩しよう。


 そして昼過ぎにルツがタクシーで山の家にきた。迎えに行くつもりだったが、早く着いたとのことだった。麓のインターホン映像を確認して入口を開いた。ルツが到着すると、タローは人当たりよく足元を一周し、ルツに顔を向けた。

「ようこそ」

「いいところ……となりに私の家を建ててもいい?」

「それは素敵だな」

 簡単に自宅を案内してしまうと、僕らはタローを連れて小川に向かい、砂利を敷いた山道を下っていった。木々の間に入ると、少し冷たく葉の香りが爽やかな空気があり、樹皮、枯れ葉、土、それぞれが空間に立ちこめて、歩くにつれてせめぎ合うようだった。

「USに行ってからもルツのことをよく思い出したよ」

「ふふ」ルツは嬉しそうに笑った。

「山なんか歩いてるとさ、若葉とか景色とか、ああ綺麗だなって思うとき、そこにルツもいるんだ。一緒に感動してる。そのとき、すごく安心するんだ。俺の感性は間違ってない。この世界には俺の理解者がいる。そう思えて」

「それは事実。うなずいてたよ」ルツは腕を組んでゆっくりと頷いて見せた。

「テレパシーが懐かしいな」僕は笑っていった。

 僕らは相手が何を考えているか当てる遊びをしていた。実際それはよく当たり、頭の中まで一緒にいるような気がしたものだ。僕らはそれをテレパシーと呼んでいた。

「私はいいことがあると上野に行ってテンのこと考えてたよ。賞もらったとか、仕事決まったとか」

「あの場所で聞かせてくれたんだ」

「そう」ルツは力を込めて答えた。

 歩いていくと、ルツが道の脇に立ち止まった。彼女は興味をひいたものがあるとそうして、僕は何にどう思ったのか訊いたものだった。絵画でも音楽でも映画でも食事でも、同じものを観てどう思ったかを比べることは、僕らの楽しみだった。

 覗きこむと木々がひらけた草むらに、血のように紅い花が一輪だけ咲いていた。

「……永遠――とでも呼べそうな、なんども繰り返されてきた風景」

「分かるよ。唐突で独立していながら、必然のように揺るぎない風景」

 僕らは目を合わせて微笑んだ。


 道を下りきると、丸石の転がる川原に出た。二人と一匹で大きな岩に座って透明な川の流れを眺めた。川の上には少し色づいたイロハカエデの葉々が揺れていた。

「新緑の頃、滝を見に行ったのを覚えてる? 枝葉を髪飾りみたいに撮った写真があったね」

「大事なフォルダに入ってる」

 僕らは雨にふりこめられてイロハカエデの下にいた。新緑の葉を幾重にもかさね、ほっそりとした白い腕を伸ばすたおやかな幹は、神話的な女性を思わせた。その指先に祝福された彼女の姿もまたギリシャの神々のように美しかった。

「あれはいい絵だった」

「また行こうね」


 タローが鼻息を荒げていたので、僕はリードを外してあげた。タローは僕とルツにフガフガと何か声を出していた。僕も僕で伝えなければと思い、本題に向かった。

「家族は元気?」

「元気よ。お父さんが一度倒れちゃったけど、いまはもと通り」

「ああ、それは良かった」

「そういう年齢よね」


「こないだダイの家に行ったんだけど」

「ダイ、自殺だったみたい」

「嘘……」


 *


 家に戻るとニケが来ていた。ニケはルツのことをSNSで知っていた。

「用意しますんで、お茶しばきましょう」

「関西のおっさんか」

 ニケは笑って仕度のためキッチンに引っこんだ。タローと目が合ったので、僕はガラス戸を開けて出してやった。そしてルツにゴムボールを渡した。ルツは綺麗に遠くへ投げた。

 ニケがハーブティーを持ってきて、ルツとタローが部屋に戻ってきた。

「タローいい子だね」

「ありがとう、ニケのお陰だな」

「へへ、私に似たんです」とニケは照れるように言った。

「似てないわ」と僕は笑って返した。


「ルツ、これからどうするの?」

「デジタルに力を入れたいと思ってるんだけど、空間も総合的でおもしろいのよね。油画のほうはプロデュースとマーケティングの人たちが増えて、それはそれで大変」

「あのセレモニーは新しかったね」

「そう、いろんなものが激しくぶつかって、調和と均衡にいたる。それが最近の主題(テーマ)」

「ああ、横断的にそういう構成をやってるんだ」

「うん、なるべくそれを一瞬にこめる。表現は写実だけど思想は印象というか……」

「技術もコンセプトも着実に磨きがかかってたね」

「もっと聞きたいな。今度アトリエに招待していい?」

「喜んで」


「ルツさん、テンさんを描いた作品ってありますか?」

「それはヒミツ」

 それからニケの好奇心を煙に巻いたり満たしたりして語らった。陽が翳ってきた頃、僕は訊いた。

「今日どうする? ゲストルームはあるけど」

「ここに住みたいくらいだけど、帰るね。明日があるから」

 僕は〈明日がある〉という表現を〈ここには時間が流れていない〉という象徴のように感じた。今のルツに比べたら言えてるかもしれない。

「今日はすっごく楽しかった。ニケとも話せたし」

「光栄です、マドモアゼル」

「貴族かて」僕は小さく返した。

 そしてニケを早めに上がらせて、車で送ってもらうようにした。


 最後に助手席の窓を開けてルツが言った。

「ダイに会えるといいね」

「ああ、そうだね」

 ルツは手を振り、タイヤの音はやがて聞こえなくなった。

 ――って、もう死んでるよ。僕は回転の遅さを悔やんだ。


 しばらくテーブルに腰かけてこれからどうするか考え、特に結論もないままキッチンで料理を始めた。ニケには冷蔵庫に旬の食材を入れておくよう言ってあったので、置いてあった鱧と舞茸を取り出し、塩と粉を塗してソテーにし、大蒜(にんにく)とバジルで味を調えて食べた。

 寝る前にベッドに横になって、山でくびれたダイを思うと、僕は「辛かったな」と声に出した。そしてここから遠くないその場所を思うと、行ってみたいと思った。最後の日々に何を考えていたのだろう、あの頃とどう変わっていたのだろう、足跡をたどれば何か気づくことがあるのではないか。いや、それがなくとも彼を偲ぶ時間を取るべきではないか……。

 ルツにメッセージを送った。

 ――俺さ、ダイの死んだ山に行ってみようと思うよ。

 ――どうして?

 ――このまま忘れていくべきじゃない気がして。


 *


 僕は登山道具と飲食料を用意し、道連れに後輩のバンを誘って、土曜日に山へ向かった。目的地は四方を千メートル級の山に囲まれていて車道がない。車で行けるところまで行って、あとは野営しながら進む行程だ。

 バンは学部の後輩で今は四店舗の飲食店を経営している。屈強な身体つきで、ボディガードと間違えられたこともあった。僕はこうアウトドアに誘って彼の経営課題を一緒に考えたりしていた。僕は目的地を決めた経緯についても話したが、バンはまったく怖れなかった。

「しかし気の毒っすね〜」バンは運転しながら言った。

「七年前から行方知れずだったもんで、まだ実感がないんだけどね」


 登山口で車を停め、中腹から山を越えた。谷底に当たる川辺からは色づいた山々が望めて美しかった。そこで冷凍食品をガスバーナーで温めて食べ、林檎をひとつ食べ、珈琲を飲んだ。タローには缶詰だ。それから小さく畳んだ長靴を出してタローを担いで川を渡った。こちら側の植物はやや大きく、不気味な感じがした。僕の表情のせいかタローもやや元気がなかった。だがこの森に仇なすものではないと自分に言い聞かせると気持ちは和らいだ。

 夕方まで休憩しながら登った。草木が繁茂していて、掻きわけて行くのは大変な労力だったが、時折獣道を辿ることで幾分楽に進むことができた。鹿や猿がときおり僕らから逃げていったが、動物の身体も大きかった。日が傾いてきたので、岩の張り出した場所で野営することにした。GPSを見るとまだこの山に入った位置から三分の二の距離が残っていた。僕らは鹿や猪が来ないよう寝る場所から離れて食事をとり、熊除けにラジオをつけ放した。星を散りばめた空はその真空に達するほどに透き通って遠く、そのまま蓋を開けて僕らを宇宙に放り出してしまいそうだった。しばらく焚き火の音を聞きながら会話し、タープの下のハンモックに入った。タローは僕の下に敷いた寝袋に入っていた。

 翌朝目を覚ますと、鳥たちの声はなく冷気が漂って、聖域に踏み入ったかの印象を覚えた。谷側は闇夜に想像した以上に視界がひらけていて、山々を縫ってゆく川を見晴らすことができた。目の前の山は黒々と茂り、そのあいだで水面(みなも)が輝いていた。次第に霧が出てきたが、朝食をとって歩みを進め、岩をよじ登り、半分も進んだ頃に昼食をとった。僕らは防水服だったが、タローは朝露でぐっしょり濡れていたので、タオルで拭いてやった。

 それからまた行動を再開した。霧はいよいよ濃くなって、五メートル先は真っ白だった。次第に岩壁が高くなり、四メートル超の岩壁に出くわした。僕はバンとタローを引き上げるために先行し、登り終えてロープを垂らした。

「いいぞ、固定した!」

 張り出した岩や枝の陰になってよく見えないが、返事がなかった。そして降りてみたところ、誰の気配もなかった。周囲を歩いてみたが、動物の痕跡もなく、《何があった?》と考えると、肌が逆立って寒気がした……。僕は自分に言い聞かせた。《バンならタローを連れ帰ってくれるだろう。大丈夫、出るものが出ただけだ。》その言葉を何度か繰り返して心を落ち着けてから、僕はひとりで歩きはじめた。

 ようやくGPSの位置まで辿りついた。だが現場がどこかは分からない。辺りを二十分ばかりうろつくも、それらしい残骸はなかった。――と、ふと視界の端に人影をとらえた。十歳くらいの少女であった。僕は少女の方へ近づいて行った。少女は距離を保ったまま、僕がついて来ていることを確かめるように振り返り、また進んだ。しばらくしてGPS時計に目をやると日付が十七月に変わっていた。――十七月?


 *


 山道が蒼く暮れはじめ、川の音が冷たく重くなった。歩調にまた不安が混じってくる。猿がスギの樹上高くを渡っていく。林を抜けると、道は小川に沿っていた。黒い水底の上に澄んだ水。山は可能世界に満ちている。この瞬間も竹藪から虎が出てこないとも限らない……。峠の上から古い黄色電灯のような夕陽が見えた。それは山あいの紫に落ちていった。

 しばらくすると人家の灯りが見えてきて、暖かい心持ちがした。見上げて通り過ぎる窓からはお香が漂っていた。一台の車が道の悪いところで揺れながらこちらに向かってきて、僕は脇に避けた。ヘッドライトが眩しかったが、運転席にいるのは体毛に覆われた猿に見えた。少女に確かめる間もなく、集落の中心にあった大門と塀で囲まれた屋敷に着いた。

「お帰りか」屋敷の玄関にいた女性が迎えた。

「帰ったぞ。お客」と言って少女は中に入った。

「あらご苦労でしたね。どうぞ上がってください」と女性は僕を労った。

 広い玄関に入ると木の香りが心を落ち着かせた。僕は離れに通された。

「一時間ほどで用意ができますから、お風呂をどうぞ」

「ここは旅館をされているのですか?」

「いえいえ、私たちのおもてなしです。お代は要りません。のちほど主人が説明に上がりますので」と女性は僕を部屋に案内して出ていった。

 実際身体が汚れていたので、言葉に甘えて風呂に入った。露天温泉に浸かって、長く息を吐くと、疲労した身体から解き放たれるような快さだった。檜を枕に柔らかく照らされた庭の木々を眺めて、しばらく放心した。そして風呂を上がると配膳が終わる頃だった。旬の食材を使った多数の小鉢が並んだ食膳に幸福感を覚えた。

 いくつか聞きたいことがあったが、会話の隙をもらえず、客と親しくするのを禁じられてるのかもしれないと思い、主人を待つことにして眠ることにした。


 僕が寝ている横に屋敷の女性が座っていた。ロウソクの灯りに背を向けて顔を下げ、表情は覗うことができない。女性はささやいていた。

「まっくらを浮遊する灯りが好き、それはどこかへ連れて行ってくれるから」

 僕は身体を動かそうと思ったが、動かなかった。

「横にふれたあなたの腕が温かくて、私はこのままでいようと思うの。私はあなたに言うわ。あんなふうに雨、こんなふうに雨」

 女性はゆっくりと耳元に近づいた。

「ねえ、どうしてあんなこと言ったの? ――手に入れたいって」

「永遠と無限を」


 僕はまた眠っていたようで、未明に目を覚ました。部屋にも居たたまれず、外に出て山の方を歩いていると、炭坑らしき洞窟があった。入口の松明を点火して見てみると、木枠を入れてあったりして、掘り進めた工程に興味を感じながら奥へと進んだ。冷たい空気がゆるりと流れている。としばらく進むと松明が消えてしまって、引き返すことにした。消えたあとの視界には何も映らなかった。自分の身体さえ見えず、少し輪郭が遊離した感覚を覚える。それと同時に身体が軽くなり、音が良く聞こえるようになった。雑音が小さく、突発音が大きく聞こえる。身体が警戒しているのを感じた。そこで奥から鳥の羽ばたくような音が聴こえて、甲高くて舌足らずな声が響いた。――喋る鳥? ……気味が悪かったが、それ以上の声も反応もないことを確認すると、とにかく前後を間違えないようにと左手の壁を伝ってまっすぐに歩きつづけた。たまに手を離して走ってみる。すると左右いずれかの壁に当たって上手くは走れなかった。そうこうして入った以上に長く歩いている気がしてくる。――暗闇のせいなのか? などと考えたところで左側に腕を思い切りひっぱられて投げ出されて「うっ」と声が出た。獣かもしれない、と思ったとき、気配の主が口を開いた。

「ちょっと待て、テンか?」

 カチッカチッという音がして松明に火がついた。汚れた顔のダイがいた。

「ダイ、こんなところで何やってる」

「こっちのセリフだ。俺はここに住んでる。出入口は大体潰されてるはずだ」

「隠れてるのか」

「まあそんなところだ。座れよ」

 ダイは木の箱を指した。その松明は弱くて、ダイと箱にしてもはっきりとは見えず、いまにも消えそうだった。僕は立ち上がって腰かけた。

「何だってこんなとこに来たんだ?」

「ダイの足跡を辿ってみたいと思ったんよ。最後に何を思ってたんだろうなとか、会わなくなってから何してたのかなとか考えて。しかしずいぶん深入りしちゃったようで」

「ほんとだぜ、ちょろちょろしてたら殺されるぞ。……まあそう言ってくれて嬉しいよ。逆の立場だったら俺もきっとそうしたろう」

 ダイは思いを巡らすように、前に組んだ手の二つの親指をくるくる回していた。

「しばらく会わなかったな。ここに来るまでいろんな職業をやってたよ。屠殺、特殊清掃、紛争地域支援。この世のあらゆる暴力を探して。……血清がほしかったのさ。俺をむしばむ病の」

「お前の衝動か?」

「そうだよ、気づいたら引きちぎった猫の足を噛み砕いたりしてた。意識が戻ると吐いちゃうんだ。だんだん慣れちまったけどな」

「……見つからなかったのか」

「紛争はひどかった。朝起きたら水を汲んで、元気に学校で勉強して、ついたり消えたりする電灯の下で暮らしている小学生たちがだよ、教師ともども小屋に集められて怯えるままに銃殺された。なおもエスカレートして、集落の二十人が、見せしめに四肢を切られて生きたまま放置された。若い娘は三十人もの男に犯されて、顔がパンパンに腫れて、脚も折れて、膣も血だらけだった。

 何故あいつらはそんなことをすると思う? 威嚇なら度が過ぎているし、性欲じゃああはならない。――あの集団ではそれが力として肯定されるんだ。その善悪や共感はうちやって、できないことができることに原始的な敬意を表する。もはや報復ですらない。力の誇示だ。どんなに残虐でグロテスクなことでも、肯定する論理があればやってしまう。それが人間だ。

 ……ところが俺はどうだ? ひとりでなんの意味もなく残虐なことをする。俺の論理は何だと思う? ――芸術だよ。それが美しいから肯定しちまう。暴力のなかに鑑賞に値するものを見出しちまう」

 ダイは僕の反応を制するかのように説明を続けた。

「ムカデの話をしたよな。あれはずっと大きくなってな。構造は分かったが血清はなかった。テン、俺は残虐な行いを重ねてきた。その度にビクビクと逃げ出して場所を変えて。……でも分かるか、それでもありふれた夕暮れなんかが美しいんだ。それでも世界が美しいなんて、残酷なことだよ。俺はその美しさを後ろめたさなしに感じることができない。いつも引き裂かれるようだった。この世に居場所なきものには、冷たく笑ってくれと思ったもんだ……」

 僕は「辛かったな」とだけ答えて沈黙に紛れた。

「あまり長居してくれるなよ。友だちってのは」

「……よせよ。ってもう意思の問題でもないのか」

「そう、俺はもういない。気が済まなかったら、適当に石でも積んで手を合わせてくれ」

「……わかったよ。しかしどうしたら帰れる?」

「君はいつでも帰れる」

「そうなのか」


「思うよ。俺は人間に生まれるんじゃなかったな。植物だ。コケだってキノコだっていい。……ユリだったら最高だよ。Lily――響きも良い」

「それは素敵だろうな」

 消えたらしい松明の名残を追って、僕は暗闇に手を差しだした。彼は僕の手を握った。

「じゃあな。会えてよかった」

「ああ、まっすぐ歩けよ」

 僕は立ち上がって、まっすぐ続く道を想像した。

「なあ、見晴らしのいい丘にユリを植えるよ」

 振り返ったが音はなく、ダイは消えたようだった。

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