籠の中のオリュンポス

 大学の二年目に出会ったヤスという男がいた。社会で身を立てると決めた僕は、「とにかく動け」と彼の合同会社の設立に参加した。ヤスを代表社員として八名でスタートしたが、二ヶ月すると意欲の差で四名が落ち、その二ヶ月後には覚悟の差で二名落ち、僕らは二人になった。

 まずできることはなんだろうか? ――ヤスはいろんな人との交流が苦じゃなかったし、僕は職場でハッカーと呼ばれるほどにプログラミングに習熟していた。それでWebサービスの開発案件を受注し、二三ヶ月のペースで納品するようになった。初年度売上は三千万円、社会人一年目としては悪くない額が手元に残った。半月に一度は解決できるかわからない壁にぶち当たったり、事故が起きたりして、その度に心臓を鳴らして奔走し、お金を使う暇はなかった。しかし僕らは会社に住みつき、充実を感じていた。

 ヤスは陽気だった。例えばある深夜二時、いつものようにオフィスで働いていて、休憩にコンビニに行こうかと出ると、真っ暗で誰もいない様子のフロアを見てヤスはふざけはじめ、奇声発したり飛んだりしながらエレベーターホールに向かって、上裸になり、エレベーターが開くときには扉に接触するくらいに近づいて待ち構えていた――自らの運命を試すように。果たして扉が開くと、仕事上がりの女性がいた……「お疲れさまです」と素敵に流してくれて済んだけど。

 そんなヤスだったが、今後どうするか、新たな事業案はどうするか、構想や段取りで次第に発言力を失っていた。ヤスは自信をなくしてセールス業務に収まるようになっていた。僕はヤスに肩を並べてほしかったので、目線と力量を上げてもらうよう、重要な場や意思決定の場に同席してもらった。一方、僕は生計を立てる能力を身につけたと判断して大学を辞めた。


 翌年、大手のデータ分析案件に入る機会があった。この案件は、まだ事例の少ない新技術の活用を目指し、四社合同で進めるものだった。会議の場で僕は、何を出力するか、どのデータをどう保存してどう処理するか、その大体を設計した。クライアント企業の反応はよく、SI企業は事前に僕らと打ち合わせて全体会議に臨むようになった。この案件は規模化され、八千万円を売り上げた。

 社員数も十二名となり、データ分析案件の横展開にいくつか成功が見えてくると、僕はデータ分析を主要事業とすべきと考え、合同会社を株式会社に変え、代表取締役になった。ここまで試したいくつかの事業案から、発射角度を間違えたら、いくら執行のレベルが高くても成長は作れないことを学んでいたが、新たな事業案はウケがよく、かなり良い角度だと思っていた。ピッチコンテストに優勝し、VCから2億円の資金調達を行った。とはいえ商談は百戦百勝ではない。「今までになかったのだから断られて当たり前」、そう励ましあって提案を続けた。


 大型案件が続々と決まり、三年目は二億円、すでに来期計上の三億円の案件が確定間近だった。ブルームバーグの取材記事によって全世界にうちの映像が拡散され、派生記事がいくつもの言語で生まれ、無音の世界に音をもたらしたかのように衆目を集めた。問題(イシュー)は開発や営業から採用に移っていたが、応募もたくさん来た。特に米国からだった。グローバル企業のCXO、与党議長、それらの人々は興味深かったが、希望報酬が高くてその場は見送った。彼らはそれぞれの野心に見合うパス――次期CEOや閣僚参画――を失って収まりどころを探していた。採用は順調に進んだ。中には機能しない、嘘ばかりつく、そんな地雷にも出くわしたが、筋肉質な経営体制を徹底していたため、自浄作用も効いて大事には至らなかった。Aが飛んだ、Bが起業して競合になった、そんな慌ただしい日々だった。

 面談する中でチェコ生まれのロバートという人物がいた。ロバートは実績のある連続起業家で、面談での課題〈入社三ヶ月で何を達成するか、そのロードマップを提出せよ〉にも熱心に取り組み、さらに数年先についても「販売と財務についてこういうプランで御社のロードマップを作りたい」とあふれる情熱で労を惜しまず考案し、理知的に伝えてくれた。業界当事者ではなかった彼の計画には穴もあったが、それは学習可能と判断し、上手く機能(ワーク)するのであれば欧州を任せるつもりで僕はロバートと助走を始めた。ロバートはチェコ訛りの英語で喜んだ。


 米国のスタートアップ支援機関にも採択され、現地案件も増えてきたところで、米国への投資比重を高め、本社をサンフランシスコに移すことにした。南北アメリカ、欧州、中東、東南アジア、オーストラリア、アフリカ――英語市場は大きかった。

 僕の業務はステージに応じて変わったが、どの領域においても先鞭をつけるという意味では変わらなかった。次第に落ち着いていったのは、プロダクトの構想や展開、重要案件や提携の起案、取材対応、財務計画の確認、全社KPIの確認、そんなところだった。定型化しては移譲し、指標の改善を繰り返した。

 五期目は十八億円を売り上げた。ロバートは欧州法人で初年度三億円を売り上げ、その功績と信頼から彼にグローバル・オペレーションを任せた。社員は百名を超えた。


 *


 サンフランシスコに移る前に、僕は三河家に顔を出した。初めて会った日を自分の命日だと言って連絡していたが、凪と薫さんは、金のない時期は金で、起業してからは時間で、無理しなくてもいいと気遣ってくれていた。しかし渡米前に会っておきたかったので、週末一泊で街に帰った。

 日常的に僕は、起きてから寝るまで会社の問題を考え、解や施策をメモすることをやめず、寝てる間に思いついて朝メモするということも多かった。そしてそれを楽しんでいた。だからこの帰省は久々の休暇だった。

 空港の到着ロビーで迎えてくれた三人の姿を見て、僕は本当の家族みたいだと嬉しかった。僕はできるだけ質問して話を聞くことに努めた。仕事ではいつも説明をしていたから、何をしているか、今後どうしていくのかと訊かれれば自動的に答えられた。でもそういう職業性が僕らのあいだに距離を作ってしまう気がして、聞く側に集中したかった。葵が中学生になって部活を頑張ってるとか、凪の職場の新庁舎がすごく現代的で豪華になるんだとか、薫さんは晩酌のビールを少し減らしたとか、街の人口が千人も減ったとか、こないだお祭りがあってまた一緒に行きたいねとか、五年間の渇きを潤すように聞きつづけた。

 夕方には近所の人たちが数名駆けつけた。それぞれ一升瓶を抱えてきたもんで、僕は時事や笑いなど、なるべく共通語で場を盛り上げることに努めた。そして僕らはかなり酔った。みんなが帰ったのは深夜一時を過ぎていたし、葵はすでに部屋で眠っていた。僕は過ぎた時間を悔やんだ。

「あー飲み過ぎちゃった。お風呂どうぞ」薫さんが可愛らしく言った。

「先に入っちゃってください、凪と自販機行ってきます」

「あそーお、じゃあ入るね」

 僕は椅子にだらっと座り、凪は隣で突っ伏していた。「凪行こうよ」というと「いかんよー」という。「話したいことがあったんだよ」と耳元でいうと、電球がついたみたいに顔を上げてにっこりした。ただ田んぼに落ちてもいけないので、二階に上がることにした。

 凪と二人になると僕は、事業にはどんな価値があって、組織はどれくらい大きくなって、どんな権威から認められて、とアピールしていた。僕の女神に認めてほしかったのだ。そんな話に凪は嬉しそうに頷いて、褒めてくれた。しかしこうまでしながら、僕は「惚れ直してくれる?」とは聞かなかった。関係を進めても、このまま米国に行ってやり取りを十分に続けられるイメージが持てなかったし、それ以前に僕は婚期が遅くなるだろうと思って、この頃は真面目な付き合いをしていなかった。だから僕は無責任な事実を告げた。

「凪、一生大好きだよ」

「私もよ」

 こう即座にニコッと返されて、僕はつい抱きしめてしまった。

「でも次いつ帰るかもわからないし、もしほんの少しでも俺を待つ気持ちがあるなら、そりゃどうしようもなく嬉しいけど、いけないよ」

 それからしばらくして、凪は「弟みたいなものだからね」と肩を撫でた。そして薫さんが「お風呂上がったよー」と言ったのに身体を離して、「テンが入るってー」と返した。そして僕の頭を抱いて、「じゃあね、テンも私のこと気にするんじゃないよ」と残して、階段を降りていった。


 翌日は十時ごろに起きて、ご飯を食べて、また話をして、四人で空港に向かった。凪は変わらず明るかったし、この日も三人と楽しく過ごせた。一泊二日はあまりにもあっけなく過ぎて、もう一泊できなかったことを後悔した。しかし仕事を前進させる効力感は、早くも飛行機の搭乗ロビーでそれを癒してしまうのだった……。


 *


 移住してからは、仕事の規模も大きくすることができた。グローバル企業、各国政府、国際研究機関などの案件だった。六期目は三十六億円超、この年の資金調達で会社評価額は十億(ワンビリオン)ドルを超え、僕らの会社はユニコーンと呼ばれるようになった。


 この頃、ゼンという経営コーチと交流を始めた。彼には初めて会ったときから違和感があった――というのも彼は「2494歳」と言った。それは紀元前を含む多くの書物を読み、血肉にしたという傲慢な自負からくるボケだった。ただ所作や発言には気品と妥当性があった。知人経営者の伝(つて)で紹介を受けた彼の実績はフォーチュン500の企業が連なり申し分なく見えたが、僕はこの人に何かを依頼するという判断は保留させてもらった。一方で彼の食事の誘いを承諾した。

 食事の際に彼は「君の中身に気づいた」と言った。それは僕が事業紹介に使った「現代の武力(モダンフォース)であるテクノロジー」という言葉だったという。僕のなかに画一的ならぬ人格を見つけたらしい。そして僕を友と呼んだ。

 おかしいのが、彼が料理を食べるときだった。料理が運ばれてくると二三言ウェイターと交わし、そのあと皿に顔を近づけて思い切り吸気するのだった。まず鼻孔を満たし、目で捉え、舌で味わった。僕が面白がって訊くと、時に手ですくって食べることもあると答えた。

「ところで、哲学ってとても役に立つけど、認知が足りないと思いません? 見方次第で世界が変わる。見方を変えると問題をハックできる」ゼンは言った。ハックとは全体最適な解決を行うことを意味している。

「そうですね。例えばニーチェの〈力への意志〉だって、すべて虚しいとする状態から、自分が生きるうえで有効な力を偏見なく肯定することで気力を正のループに導くひとつの案だし、〈永劫回帰〉というのもこの瞬間が無数に繰り返すと考えることで現実に最大限の重みを乗せようとするアイディアでしょう。……そしてゼンさんの異常な食事作法もこの瞬間の密度を最大限に高めようとするアイディアですね」

「そう、Carpe(カーペ) diem(ディエム)。私の哲学です」


 フカヒレスープが来ると、ゼンは皿に顔を近づけてその香りを思い切り吸った。それから舌で味わうと、また別の話を始めた。

「難しい本って昔から読めましたか?」

「慣れてましたね。暗号みたいな世界が好きだったから」

「ふふ、興味深い。それでは確認で聞いて頂きたいのですが」

「最も大事なのはすべての意味を理解することです。理解しているかはその語について〈五感で想起できるか〉を基準にする。言葉で説明できることもひとつですが、それだけじゃ足りない。そして読むとき、〈分かる〉と〈分からない〉を区別することです。それだけで随分論理が捉えやすくなる。そのうえで〈分からない〉意味の最小単位をなくしていけばいい」

「同意ですね。しかし例えば『社会』はどう五感で想起するのでしょう?」

「『社会』を構成する人々、システム、そういった下位概念に分解する。そして手触りを求めればいい。概念(シニフィエ)を経験、自分の身体性に接続することです。……これを思いついてから、辞書をもって一つ一つイメージして読むようにしたんですが、学習能力がぐんと上がりましたよ」

「なるほど、言われてみれば。……実際トッププレイヤーでこれをやってない人はいないかもしれませんね」

「そうでしょう。誰も教えてくれないのですがね」


 こういう話を挟みながら、僕らは事業や組織の戦略分析を行っていた。彼の優れていたことは可視化や構造化だった。問題を相談すれば、プロセスを抽象化したり、構成要素やオプションを二次元にマッピングしたりして、結論を導く材料を目の前に提供した。


 *


 この頃から少し伸び悩んだ。七期目は五十二億円超、従業員数は二百名を超えていた。コロナウィルス感染爆発の中でも、社内オペレーションを整え、業界のスタンダードとなる対策製品をいち早く打ち出した。そして業界の明暗がはっきりしてくると、ターゲット市場を切替え――閉鎖や休業を強いられた業界への営業提案はやめ、この状況下でも好調な業績を出している業界に向けて製品構成を整えていった――、これも上手くいった。結果、売上成長率の下落は45%までに留められた。

 しかし八期目の売上見込みは六十億円だった。市場の切替えによる顧客獲得の鈍化、先行きの不透明感による大型契約の遅延、そういった特殊要因に加えて、競合の乱立や用途規制といった環境要因も考えられた。投資回収の見込みが低いうちは、リスクを抑えて仮説検証を続けるしかない。だが成長率が下がってくると、経営陣は株主から叩かれる。この状況下、人智を尽くして対応してるつもりだが、必要な投資をしていないと、厳しい声もあった。

 とはいえ無力な時代に比べれば、ここまでの社会での苦労は大したことがなかった。不条理に苦しむことも、生か死の二択に直面することもなかった。いかに客観性を保ち、解像度を上げて意思決定していくか、それだけで良かった。

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