自由と信念と友とⅠ

 創業八年目で会社を売却した。山頂に岩を上げては落とされるシーシュポスのように、売上を積んではゼロになる四半期を繰り返し、実証的再現性――上手くいくからそうするという使い捨ての経験則――をたえず更新し、偏見(バイアス)なき意思決定を保ち、自分のなかの基準を沈黙させつづけて、気づけば僕は、良いことにも悪いことにも心が動かなくなっていた。

 それと呼応するように偏った生活のツケ――チカチカする三角形がいくつも現れ、目を開いていることもままならないような頭痛と腰痛――が出てきて、僕は生活を改めた。対症療法より効果があったのは、禁煙、立ち机、筋力トレーニング、カフェインとアルコールを控えることだった。――しかし視界のミドリムシは九匹残った。僕は青空を這う虫たちを眺めて、世界が朽ちてゆくのを感じた。

 ここまで僕を突き動かしていたのは、「生まれたからには何かなさねばならない」という強迫観念のようなものだった。だが着実に近づく終わりを突きつけられ、僕は生き方を見直さざるを得なかった。

 何度勝っても満たされず、器用になるほど些末に見えてくる日々のなかで、僕は競争に幸福がないことを悟った。成功の規模(サイズ)ではない。オリュンポスの住人なる成功者も、偏執を抱え、幸福を見つけられずさまよう人々だった。さらにここまできても、人生など初めからなかったならそれに越したことはないと考える自分を発見した。もはやここに望む生活は見当たらなかった。

 この状態でも事業家で在ることはできる。そうで在りつづけるには、その精神が維持される環境を作る――委譲する人材を見つけ、機能するように支援し、気の向く業務をやるか、しばらく悠々と過ごすか――という手が打てた。しかし僕には、いっときの処世の術という以上に未練がなかった。――といっても、身につけた能力を殺すわけではない。この世界をふたたび盲信することはないというだけのことだ。


 売却交渉はスムーズだった。五社から入札を受け、僕はインタビューに答えていった。当座の外部環境を除いては、市場の成長性、市場における優位、再現性の低い資産、買い手となるグローバル企業との事業シナジー、組織と財務状況、どれも魅力的に語ることができた。

「しかしテン、君はなぜ手放すの? この状況ならCEO外れて株持ちつづけた方がいいよね?」

「個人資産で言えばそうでしょうが、しばらくビジネスから離れてみたいんです」

 僕はあけすけに答えた。大事な問題のとき、嘘はほころぶから言わない方がいい。大事なのは相手や状況に合わせて前置きするか、順番を変えるか。

「そんなの風邪みたいなものだよ。君は技術にも経営にも通じていてユニークな意思決定ができる。CEOで残ってくれないか」

「ありがたいお言葉ですが、そこは提示条件で」

「なるほど、また業界に戻る気になったら連絡をもらいたい」

「はい、その時は」


 *


 もちろんゼンにも会社売却の件を相談していた。

「創業者のバーンアウトはよくあるので、もう少し粘ってもいいかもしれない。ここまで最速レベルで来たでしょう。目の前の勝負を徹底的に意識するアスリートのように。でも長くやっていくためには勝敗に揺れない部分が重要になってくる。例えば失敗するにせよ、人類の進歩に貢献していると考えるとかね。……でも八年は短くないですから、私はテンさんの結論を尊重します」

 僕は感謝を述べた。

「色々試したのですが、情熱が根元から消えてしまったんです。これでも多少はやれるけど、トップレベルにはなれないでしょう」

 僕にはこの問題が解けなかった。それは結局のところ、解くに値するという重みを与えられないということだった。

「テンさんを担いでいた皆、テンさんを通して社会の役に立ってると思ってたんですよ。哲人王の誕生を楽しみにしていたんだけどな」

 僕は改めて誠意を込めて感謝を告げた。会議を終えると、ゼンの言葉に重なって、《逃げるために論点をずらしてるように聞こえますよ?》と響いてきた。ただ僕のなかの合理的機械(ビジネスマシーン)は、この状態の自分では来期の売上成長率は下降する可能性が65%で、今売却した方が資産的にも時間的にもはるかに有益だと結論していた。――目の前の勝敗にこだわるほど、偉大な勝利から遠ざかる。というわけだが、もう十分だった。


 *


 売却益を手にして僕がしたのは、野心のない資産分散(アセットアロケーション)だった。法定通貨、株式、国債、金銀、仮想通貨。そして日本にいくつかの不動産物件――都内からアクセスのよい台地の山と、三河家の近くの土地――を買って家を建てて、のんびり過ごそうと思っていた。

 不動産物件は、四国の方は米国を出る前から凪や薫さんに協力してもらって、土地購入や設計や業者手配を済ませていた。関東の方はもらった地形図や地質調査などの資料をもとに決めてしまった。日本に戻ってから訪れてみるとどちらも想像していた以上にいい物件だった。関東の方はえいやで決めた割に植物も眺望も好みだった。

 米国に残したのはガールフレンドくらいだった。彼女もまた起業していた。米国の有名大学(アイビーリーグ)で金融工学と機械学習を修めたあと、決済サービスをリリースし、大きく資金を調達した。Fintechの括りで彼女の企業は有望株と捉えられていた。

 僕が合理的機械(ビジネスマシーン)であったかぎりで相性は良かったが、僕の心が動かなくなったということを彼女は理解できなかった。しかしいずれ分かるだろうと鷹揚に構え、しばらく離れて暮らすことにしていた。僕は休養を必要としているし、彼女は国でやりたいことがある。


 また僕は肉親や叔父とも顔を合わせた。叔父にあの日の旅行が僕の人生を変えていったことを告げると、「よく生きた」と涙を流してよろこんでくれた。叔父は化学メーカーに勤めていた人だが、一日中寝床から出られないような鬱の虚脱を経験したことがあった。旅行時も、僕に細かいことを聞かず、何のプレッシャーもかけず、ただ気晴らしに景色や食事の話をし、写真をとって、冗談をいって、それだけだった。僕はとても感謝していた。


 *


 四国の方を訪れた際、三河家と地元の人たちが宴会を開いてくれた。みな応分に歳を取っていたが、穏やかなのは変わらなかった。

「テンちゃん、見違えたね」

「あの頃はほんとにお世話になりまして」

 そんな挨拶を交わして、あそこの会社が代替わりしたとか、電車が道路も走るDMV(デュアルモードビークル)に変わるとか、新しい町長がどうだとか、街の変化を教えてもらった。

 葵は東京の大学に通っており帰ってこれなかったが、凪は夫と息子と参加してくれた。夫は大学の同期で遥(ヨウ)といった。息子は京という名で、もう四歳になっていた。遥は香川の出身だったが、三河家に同居していた。物静かだが人との折り合いはよく、自分の頭で考えていて、僕は三河家目線で素敵な人だと思った。仕事は名古屋のIT企業でシステム開発をしていて、ほぼテレワークだという。京といえば人見知りして凪のそばを離れなかった。

 人の出入りが多かったため、主催してくれた薫さんとちゃんと話せたのはおひらきにしたあとだった。今日のお礼をいって僕は切り出した。

「三河家に何かできたらと思ってるんですが、何かあったらいいなってありますか?」

「なに、ツルの恩返し?」

「そうです、覗いちゃだめですよ」

「大丈夫よ、気持ちだけで。帰ってきてくれただけで十分」薫さんは笑って答えた。

「こちらこそ迎えてもらえて。ちょっと考えてたんですが、家の景観は変えないんで、設備を新調してもいいですか? 水回りとか手すりとか」

「ああーそれは助かる!」

「決まりですね」

「あとガレージ……更地にしましょうか」

「そうね……私はもう何年も入ってないから。物置として葵が使ってたくらい」

「葵にとっては思い出があるのかな」

 遥と京が眠って、戻ってきた凪が話に加わり、葵に電話をかけ、スピーカーにして皆で話した。久しぶりと挨拶して、先の件を訊いてみると、「私は幽霊とか怨念とかを信じてないだけだから、取り壊して大丈夫」とのことだった。そして結論、隣の土地を買って物置を新設する工事も追加された。僕は「今後もなんでも頼ってください」と告げて、お風呂の準備のために二階に上がった。

 荷物を整理していると凪が開いたままの戸をノックして声をかけた。僕も話がしたかったが、この部屋だといろいろ思い出してしまうので、散歩しようと誘って、二人で夏の夜の街を歩くことにした。外は虫の音や蛙の声がしていた。風は涼しく、そのまま一夜明かしたくなるような心地よさだった。電灯もまばらなあぜ道を、僕らは懐中電灯を提げて歩いた。

「遥さんいい人だね」

「ごめんね、式やらなくて」

「謝ることじゃないよ」

 僕はゆっくり歩きながら、街に流れた時を想い、凪に流れた時を想った。それが凪をどう変えたか、あるいは変えなかったか。

「俺はもっと帰ってくるべきだったな」

「テンの選択でしょ」凪は冗談っぽくなじった。

「不器用だった。みんな元気でいてくれたから良かったけど」

「それで十分よ。人生にはやるべき時がある」

 ――もっと余裕をもって器用に生きていたら、どうだっただろう。ようやく凪みたいな美しい生き方ができるのかもしれない。俺は遠回りする……。

「ほら、海が見えてきた」

 峠に近づくと仄かな街と黒い海とが見えた。僕はぐるりと見回した。この街は変わらない、山と海に包まれて。僕はここに生活をもてた喜びをしみじみと感じた。

 街を抜けると潮の香りがして、港まで出た。僕らはブロックに腰かけた。入り江は穏やかで、波がコンクリートをさする音が聴こえた。

「ねえ、惚れ直してたと思う?」

 不意の言葉に驚きつつ、僕は凪の横顔をみて戯(おど)けた。

「え、けっこう頑張ったぜ」

 凪はこちらを向いて、僕の心を読むようにじっと見つめた。

「正解は、――ずっと大好きだったよ」

 僕は照れ笑いして「俺だって揺るぎないさ」と答えた。そして凪にもうひとつ伝えた。

「凪と過ごした日々は、今でも俺の人生でいちばん美しいよ。天から差す光のようだった」

 それは事実、どんな成功の瞬間より痛切で、比べようもなく美しかった。

 凪は海を見つめていた。

「……本当にあなたに声をかけて良かった」

「凪は世界の微笑みそのものだったよ」

「あなたも私の微笑みだったのよ」


「……ほら、ちゃんと海を見て」

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