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次の日、秤部は学校に来なかった。左手側二つ先の席に、いつも空を見上げていた宇宙人の姿は無い。もうあの姿は思い出を振り返ることでしか見られないだろう。
これから秤部は、遠いか近いかも分からない場所、私たちの外側、けれど地球の内側で、明日を刻んでいく。
驚きは別にない。昨日の時点でこうなる予感があったし、通学中に確信へと変わっていた。坂の下へ置き去りにしたはずの自転車がなくなっていたからだ。まさか本当に制服の替えがないから、なんてことは……あるかもな、秤部だし。
昨夜は家に帰ってからも大変だった。母に怒られ父に心配され姉に笑われ、お風呂に入ってから再び母に叱られて、想定より強烈な雷に見舞われながら、秤部のせいにするわけにもいかず泣きながら謝り続け、父を避雷針にしてようやく許しを得た。引き換えにしばらく私は母の奴隷で、父に優しい利口な娘だ。
溜息をこらえて耳を澄ます。
秤部がいないことに触れるクラスメイトは居なかった。昨日見た動画の話だったり、放課後の予定だったり、明日休みだから遊ぼうだとか、そんな会話があちこちから流れてくる。
そういえば昨日いきなり投げつけられた猿の話。あれ、詳しく知りたい。
私は自分から漂う湿布の匂いに鼻をやられながら、明日の予定について考えた。
昼休みに屋上へ足を運んだ。特に意外性もなく、扉は私という来客をにべもなく突っぱねてみせた。少し悩んだけれど、なにかの間違いが起きることを期待して職員室へ行き、鍵の貸し出しについて尋ねてみると、危ないから絶対にダメだと、またしても撥ねつけられた。想定通りの回答。寸分違わず、と言ってもいい。
それでもこの一連の行動に後悔は一切なく、むしろ満たされる心地さえした。変な感じだ。
教室へ戻る途中で聞いたことのある声に呼び止められた。
「おーい、なえりん!」
振り返った先で上機嫌に駆け寄って来るのは、先週の全身女子高生だ。
「今日もカラオケ行くんだけど一緒にどう? 聞いてよ友達のおかげでめっちゃ安くなるんだけど! すごくない? マジ大統領……って、あはは……もしかして妹ちゃん?」
「うん。妹の方」
女子生徒は隠す素振りもなく、間違えちゃったと苦笑いを含めておどけてみせた。
「いやーごめんね。気を付けてるつもりなんだけど、テンション上がっちゃって」
「いいよ別に。えーと、私こそごめん。部活あるから」
「だよねー。ほんとごめん何回も」
以前の私がひどく不愛想だったからか、気を遣ってくれているみたいだ。
私は緊張をぐっと飲みこんで、自分でも分かるくらい不器用に、言った。
「だから……その。また、今度。誘って」
途端に恥ずかしくなって上手く目は合わせられなかったけれど、女子生徒の声が明るくなったから、きっと及第点くらいは取れたんだと思う。
部活を終え、しばらく門限を早められた私は気持ち足早に帰り道を往く。一秒でも早く家に帰り着くため――ではなく、静まり返った公園を横切り、途中の別れ道を本来と逆に進んだ。
なんだか今日は普段より清涼剤が効きすぎて落ち着かない。歩調がさらに早くなる。
足を止めたのは、昨日来たばかりの古びたマンションの前。明滅する蛍光灯、その光が注がれる駐輪場に、見慣れた自転車はやっぱりいなかった。
エレベーターを使って辿り着いたのは、表札のない三〇四号室。インターホンを鳴らしてみたけれど、中からは物音一つ聞こえない。
「秤部」
あれだけあった荷物を一日で片付けられるものなのかな。親子そろってのんびりしてるのに。そういえば秤部父には会えなかったことが残念だ。母娘に振り回される私と気の合う人か、はたまた二人と同様に異星人的感性をしっかり携えた手に負えないタイプの異性なのか。
想像すると、笑える。どっちでも面白いから。
一回、二回、三回、四回。インターホンとノックを繰り返す。
「はかりべー」
淡じゃん、なにしてんの。なんて、あの小憎らしい声が聞こえてくるのをしばらく待ってから、いよいよこの場を後にした。
次――最後に足を運んだのは、びしょ濡れの秤部と話をした川の畔だ。右から左へ流れる汚れた川は、落ちてくる夕陽で濁ったオレンジ色に染まっていた。
まだ一日も経っていないとはいえ、昨日の出来事がついさっきのように感じられる。
「匂いのせいかな」と、誰に向けるでもなくとぼけてみせた。
優しく頬を撫でたそよ風が、私の呟きを連れ去っていく。
人が人を忘れる時、最初に『声』を忘れるという話を聞いたことがある。いずれ風化していく思い出の中で、聴覚から得たものは一際ぼやけやすいそうだ。翻って最後まで残っているのは、匂い――嗅覚の記録らしい。
それは……勘弁してほしいかも。
口呼吸で一息つくと、
「そうだ」
思い付きが音になった。我ながら妙案、とは言い難い内容だけれど。
私は自分のカバンから一枚の紙を取り出した。今日の授業で配られた課題のプリント。秤部のを一応持ってきたけれど、やっぱり必要なかったみたい。
その場に屈んでカバンを地面に倒し、側面を利用した簡易作業台を設える。幼いころ姉と色んな遊びに手を出した私にとって、紙工作なんて初歩の初歩だ。
作ったのは、紙飛行機。秤部が折った簡単なやつじゃなくて、手順が十個くらいある少し手間なやつ。ブランクのせいかちょっとだけ歪んでいる気がするけれど、まあご愛敬。
「どこまでいくかな」
私の声は、ちょっと弾んでいる。いつかの誰かみたいに。
腕をしならせ手首も使いながら、向こう岸を目指して放つ。
ずーっと飛んでけ、なんて私の期待と応援も虚しく、それはすぐに勢いを失った。
――ゆっくり。
ゆっくり、くすんだオレンジ色に落ちていく。
結末はあっけなく、半分も超えらないまま水面に浮かんで揺れた。石を投げた方がまだ遠くまでいけただろう。
胸に迫る万感と一緒に、紙飛行機が静かに流されていく様をじっと眺めた。
「…………ま、そうだよね」
折り方を変えても。考え方が変わっても。紙の飛行機であることは変わらない。行きたい場所にも行けないまま、落ちていく。
でも。落ちた先にあいつが居て。一人じゃ手に負えない苦悩や現実を、バカみたいって笑い飛ばせるなら、それなら――悪くない。
少なくともいまは、そう思ってる。
明日は土曜日。やりたいことは色々あるけれど。
まずは、髪を切りに行こうかな。
ばいばい、宇宙人。 鳩紙けい @hatohata
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