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「もしもーし」
瞼を開けると、左から私を覗き込む秤部の顔が視界を占めていた。垂れた髪の先からぽつりと落ちる水滴が私の頬をつつく。
生きてる……よかった。
私の全体重を受け止める背中の感触はでこぼこして硬い。濡れた服が肌に纏わりついて気持ち悪い。背中をはじめ身体の色んな場所が痛い。口の中に砂粒と……口に出せないような、口から出たであろう感触があるものの、これは信じないとして。
色々言いたいことはあるけれど、最初はこれだ。
「すっごい臭い。生臭い」
「シーチキンじゃん」
身体ごと取り替えないと落ちないんじゃないかってくらいの生臭さに鼻がひん曲がる。口だけで息をしながら上体を起こして目を凝らすと、泥や雑草が制服にくっついているのが分かった。髪の毛も酷いことになってそうだ。
隣で秤部が私と同じ体勢をする。
「淡の天ぷらだ」
「うるさい。痛いし臭いし……死ぬかと思った。なにしてくれてんの、秤部の天ぷら」
日頃当たり前に享受している生存が薄氷の上に腰を据えているのだと、齢十六にして死生観の更新を果たした。
月明かりを頼りに周囲を見渡す。どうやら落下地点から少し流された辺りの川べりみたいだ。危ないから近寄っちゃダメ、と幼少期に親から口酸っぱく言い含められた場所が、長い年月を経て命の恩人まで昇格したらしい。とんだサクセスストーリーを見届けてしまった。
しばらく静寂が続いて、少しずつ臭いにも慣れてきた頃、
「でもさ、淡」私に語り掛ける秤部へ視線を移す。
「これより怖いことないよ。この先。たぶん」
よくもまあ――そんな清々しい微笑みで。
当たり前だよ。こんな怖い思い何度もしてたまるもんか。
観念した。観念してる。言えってことでしょ。秤部から隠れようとする方がよっぽど怖いって認めるよ。
「私ね、才能ないの」
秤部から顔を逸らして、続ける。
「ずっと音楽続けてきたけど、三年以上も前にいる姉の足元にも届かないんだ。平日も休日も、空いてる時間を全部使って打ち込んでみたけど、それでも全然ダメだった」
いくら努力を重ねても、姉が練習もせず容易くやっていたことが私にはできない。
小学生だった幼い私は、姉が辞めた理由を結局飽きっぽいからだと決めつけた。すぐにソフトボールを始めたから、やっぱりねって。
「気付いたよ。姉が音楽辞めたのは私のため。才能もないくせに、それでも楽器を弾くのが好きで仕方ない私のために、音楽辞めたんだ。妹が凡人だってこと、私より早く見抜いてさ。自分のせいで楽しめなくならないように、姉は」
姉も音楽が好きだったのに。飽きっぽい姉が、飽きずにずっと続けられるはずだったのに、私が奪ってしまった。
それが幼い姉なりに身に付けていた優しさだってことは分かる。私を大切にしてくれたからこその自己犠牲だって。
でも、姉は肝心要を見落としていた。
もしくは気付かないと思ったのかもしれない。いつか忘れると思ったのかもしれない。
そんなの無理だ。私はずっとお姉ちゃんを見てきたんだから。お姉ちゃんが誰よりもすごいってこと、私が一番分かってるんだ。お姉ちゃんのかっこいい所、私が気付かないわけ――忘れるわけないじゃん。
「本当は分かってる。私じゃない。何度も何度も辞めようと思った。でも無理だった。私も音楽が好きだし、なによりさ。私は――お姉ちゃんみたいになりたかったから」
私という凡人は、類稀なる才能を踏み潰して生きている。
あの日、あんなことを言わなければよかった。
「才能ないのに夢見ちゃって、無茶な片想いに焦がれたの。そのせいでお姉ちゃん……姉から好きなもの奪っちゃった。だから私は髪も、時計も、姉の好きなものに合わせるの。上っ面だけでも、一緒にするんだ。そうすれば――」
そうすれば。もう姉からなにも奪わなくて済む。
違う。私は卑怯な人間だ。それすらも言い訳に使っている。
「淡は淡だから」
言い淀む私へ挟まれた声。寄り添うように、それでいて、お見通しだと言うようで。
敵わないなあ。
堰を切ったように感情が、思いの丈が溢れてくる。もう止まらなかった。
「私はそれが怖いのすごく。見た目で違うって分かったら、誰が私を見るの? 私なんかを一体誰が、見てくれるっていうの? 資格もないのに欲しがってばかりの凡人だよ。なんの面白味もない人間だよ? 色のないその他大勢が私なんだ。少ない持ち時間をいたずらに浪費して消えていく、そんなやつで、その程度の人間なの。お姉ちゃんみたいになりたいのに、でも無理って分かってるから見た目だけ似せてさ、いかにもって感じでしょ。そうしてれば少なくとも埋もれてないふりができるから。私は本当に卑怯で弱いんだよ。妹だから、私にはこれしかないからって言い訳並べて甘えてる。近くで現実見たくなくて、お姉ちゃんに本音は話せない。目を逸らしていたいから。目を逸らさなきゃ、痛いから。間違えられるたび嫌になるよ。自分の汚い部分に吐き気がするし、責められてる気さえして、そんな風に考える情けない思考が嫌でしょうがないの。……でもね。それでも間違われない方が嫌なんだ。怖くてたまらない。怖くて怖くてたまらない。だって、そしたら。違うって認めたら、私は背負わなきゃいけないんだ。お姉ちゃんの才能を潰してまで生き続けてる――みっともない凡人を、たった一人で! 好きだから? 楽しいから? バカみたい! そんなの理由になるわけないのにさ! 無理だよ、怖い、耐えられないに決まってる! 自分一人って、お姉ちゃんに縋ってない私ってなに? もしもさ、その私が、音楽を好きじゃなくなったら? ずっと好きでいられる人間じゃなかったら、どうすればいいの? そもそも本当に音楽が好きなのか自信ないよ! 数少ない、いや、たった一つしか持ってないそれを捨てちゃったら――なにも残らないのに、そこに残った私はなに? 想像もできない、怖い、嫌だ! だったら、だったら私は、お姉ちゃんの偽物でいい!」
だから許してくださいって。
命乞いをしてるんだ。
「……重すぎるよ。無理に決まってる。私は――」
身の程も知らず、飛ぼうとした。
「私は……紙の飛行機だから」
紙の飛行機がその頼りない体に載せられるものなんて在りはしない。
間違われるのは嫌だ。お姉ちゃんは私なんかじゃ遥か届かないくらい、ずっとずっと凄いから。
間違われないのは怖い。私にはなんの価値も無いから。
間違われるのは嫌だ。隠れ続けている卑怯な自分が嫌いだから。
間違われないのは怖い。たった一人で全部を背負わなきゃいけないから。
嫌だ。私は。怖い。針藤淡だから。
ぐちゃぐちゃで、重たくて、どうしようもなくて。
「……バカみたいでしょ、私」
全部吐き出したはずなのに全然スッキリしない。口にしたことで改めて自分の汚さや及ばなさを直視して、嫌になって、秤部の顔を見ることが出来ず沈黙に逃げた。
けれど秤部は、いつだって空気を読まない。
「あるかもよ、才能」
「無責任なこと言わないで。そういう同情大嫌い」
ダメだ、こんなの八つ当たりだ。みっともない。みっともないみっともないみっともない。
だけど私は秤部には、秤部にだけは――。
「淡、時計貸して」
言うが早いか秤部は私の左手から腕時計をひったくった。そして肩がくっつくぐらい身を寄せると、暗くてほとんど見えないのもお構いなしに人差し指で盤面を示す。
「このさ、針。速いやつと短いやつ。違うけどさ、いるから。同じとこ」
秒針と短針。速度に違いはあるけれど、回っている場所は同じ。
私と姉のことを言っているなら見当違い。とんだ気休め。追いつけないなら意味ないよ。
「なんだっけ。あるじゃん、猿のやつ」
「は? なに急に。なにを言ってんの」
「猿もやればできる、みたいな」
…………猿? こいついま、猿って言った? 私を、猿って。
ほんとになにを言ってるのか分からなくて、けれど秤部は至って真剣な表情で、考えてもない方向から頭をぶん殴られたような衝撃に感情をめちゃくちゃにされて――
「――あはははははは! なにそれ! 猿ってさぁ!」
私はバカみたいに大きな声で笑った。
真剣に打ち明けたのに猿呼ばわりされるなんて、一体なにがあってどう辻褄あってるの?
「もっとマシなこと言ってよね、私じゃなかったら怒ってるよ」
本当は怒りたい気持ちもあったけれど、あっという間に潰れて消えた。怒って顔真っ赤になったら本当に猿っぽくなるし。
それに。
私が秤部に全部打ち明けたのは、そうだ、当たり前のことなんて言って欲しくなかったからだ。
思い付きを口にしただけ。同情なんてそもそも知らない。それくらいじゃないと、この状況で到底出てこない言葉を秤部はくれた。
悪意なく、励ますつもりすらないままに。
――そんなの気にしてるのお前だけだよって。
「……秤部の言う通りかも。身も蓋もないけど」
「え。猿なの、淡」
「そうじゃなくて。まあ、気にしないで。勝手に満足してるだけだから」
秤部みたいな奴がいるなんて夢にも思わなかった。夢の中でも出会わなかった。
思い返せば私は、ろくに物事を知らないくせに決めつけて生きてきた。それなりに合ってはいたけれど、合ってるだけ。
秤部イノセという宇宙人は、私の想像を遥かに超えた面白いやつだった。
勿体ないことしてたなあ。
秤部が先回りして私の言いたいことを形にする。
「決めつけるほど生きてないじゃん」
「ほんと、そうかもね。秤部にしては分かりやすい」
だから悩む必要なんてない、と楽天的にはなれないけれど。
一生抱えるつもりだった胸の内に、折り合いをつけられる日が来るかもしれない。
そんな日が、来るかもしれない。
「好きなんでしょ、音楽。じゃーいいじゃん。なんか色々、好きじゃなくなった時考えればさ」
淡は淡だから。焼き直しのように言う。
秤部が並べ立てる言葉たちを、ことのほか素直に受け取れる。
ああそうか。今まで誰にも話さなかったから、こんな風に言ってもらうこともなかった。
いや、これに関しては言い切ってしまおう。他ならぬ秤部がくれたから、だ。
「ちゃんと見てるから。ワタシが。針藤淡」
「じゃあ秤部、私のファンだ」
「え。やめとく」
「なんでよ。そこは嘘でもファンってことにしてよ」
「よく分かんないからさ、音楽」
締まらないなあ。悪気もなく言っちゃってさ。
「……そろそろ帰ろう。服ヤバいし」
「え、やらないの? もっかい。ウォータースライダー」
「やるわけないでしょ。ほら立って」
立ち上がってみると、身体の節々で痛みが存在を主張しはじめた。背中に住み着いたとりわけ大きい輩とはしばらく付き合うことになりそうだ。
「淡、手出して」
秤部が差し出す手には腕時計が握られている。私はそれを言葉で突っ返した。
「あげる。時計持ってないでしょ」
「え。いいの?」
「ファンサービスってやつ」
「それは困った」
「冗談だから。お礼と餞別」
曰く付きを押し付けるようで気が引けるけれど、秤部なら気にせず使ってくれるだろう。
立ち上がって淀みなく伸びをした秤部の壮健ぶりに驚きつつ、一緒に事故現場のガードレールまで戻った。夕方まで新品だったはずの自転車は、カゴと前輪がひしゃげた痛ましい姿に変わり果て倒れている。なんとか私のカバンが飛び立つことを阻止してくれた偉大な功労に感謝しつつ手を合わせた。
「よく落ちなかったね。てっきり一緒にダイブしたと思った」
「やるじゃん」と秤部は道の端へ自転車を引きずる。邪魔にならない場所に安置しておいて、改めて回収に来るそうだ。
そしていよいよ、この空騒ぎも終わり。
「じゃあ、私こっちだから。坂道がんばって」
「おっけー」
どちらからともなく視線を切って背を向ける。
水を吸った靴下の不快感に縫い付けられたのか、なかなか動けず夜を見上げた。
足音は聞こえない。後ろの髪を引っ張る名残惜しさも加勢して、一度だけ振り返ってみる。
タイミングは同じだった。
「ねえ淡」
「なに秤部」
びしょびしょで、草と泥にまみれた臭い制服。家に帰ったら大目玉は免れないだろう。秤部なんて替えの制服を持ってないのにどうするつもりなのか。
私は、バカみたいな想像をした。でも……どうしてだろう。それが正解に指を掛けていると根拠の無い自信があった。
「付き合うから。自慢話」
「……うん。聞いてもらう」
だから。
ばいばい、宇宙人。
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