第7話,幕開けの紐
「今日の午後8時34分に彼女は就寝しました。健康状態をチェックしたところ異常無し。病の気はなかったので本人の要望に添い、研究所を一部見学させました」
クリップボードに並べた慣れない敬語を、こちらを見てもいない人に話す。車椅子に座り、私の言葉を聞いているのかいないのか、全くわからない。
部屋は殺風景で、ベットと机、果物と紅茶のポット、棚と花瓶ぐらいだった。ここだけ見れば病室に近い。
「...あの、聞いていますか?」
確認を取る。すると、本を閉じる音が小さく聞こえ近くの机にその本を乗せた。一般的な新書の様だった。カバーがかけられているのでタイトルは見えないが。
「聞いています。ドクターエカ、彼女は治せるものなのでしょうか」
「...あなたの言う治すとは、リバの裏人格を完全に抑制することでしょうか?」
車椅子の目の前は外の景色を映し出す窓、の様なホログラムだ。ここは地下なのだから、外の景色が見えるはずがない。
「そうです。リバさんの異常性もそうですが、当初の目的でいえば、それで合っています」
ゆっくりとした声。震えず、芯のある声ではあるのにか細い声だ。
「それで言えば、研究者の皆さんから3割程度進んだという報告がありました。トラウマを克服するための医療用カウンセリングも効果がない様に思えたとあったので...資料は持っていますけど、読まれますか?」
「読みましょう。ここまで、持ってきてくれませんか」
その人の場所まで行くだけなのに、妙に足取りが重い。その、彼女自身、私から見れば関わってはいけない人のような危険な感じもしているのだ。
一歩進むごとに、俗世から離れていくような感じがする。異質だ。あの猫や、この界隈の情報や、この組織より断然、この部屋の方が異質だ。
「...どうぞ」
彼女がその言葉に反応して、首を動かす。こちらを力弱く見つめる目からは何も感じられない。全てを排斥したがっているかのような、白色の目だった。私はできるだけ遠くから、その資料を渡した。
「ありがとう。どうぞ、そこのベッドに腰掛けてください。気を張って疲れたでしょう」
彼女は資料を読み進めるが、速い。しかもその状態で話しかけてきた。
「昨日の戦闘は激しかった様ですね。ドクターエカ。どの様にして彼女を封じ込めたのですか?」
「私の能力によって、彼女の精神自体にリミッターをかけたのです。まさに彼女は囚われていると言った様子でしたから」
その言葉に資料を読む動きが止まった。そして、こっちを見る。
「囚われていると言うのは、何にですか?」
「人自身の暴力性...と言いますか。裏人格と呼称してはいますが、彼女の暴力性を体現するには別の人格は必要ありません。彼女の裏人格というのは厳密に言えば暴力性を一気に解き放った結果、とも言えるのです」
その答えを聞くと、また資料を読み始め、しばらくは沈黙が流れた。しかし70ページもある資料を10分程度で読み終わるのは予想外だった。組織のボスの前で別のものに意識を向けるわけにもいけないので時計を確認することは意地に近いがしたくなかったので、時間がどれぐらい経っているかは全くわからないが。
「読了しました。とても素晴らしいと思いますよ。頂いてもよろしいでしょうか?」
さっきと何ら変わりない感情のこもっていない声だったが、少し嬉しそうな感じもした。
「えぇ、頂いてもらっても構いません。では、私はこれにて失礼します」
立ち上がり、一礼すると、足早にこの部屋をさろうとする。扉に手をかけたところでまた声がかかった。
「イオを、呼んできてくれませんか。おそらく訓練室にいるはずです」
「分かりました」
できるだけ早く、この部屋から出たかった。私ではそれに気圧されそうで怖かった。
ドアを閉じた時、眼前にいるその猫は笑っていた。
「...何だよ」
部屋の近くであるため、少し声が小さくなる。猫も、あの診療室よりかは小さい声だった。
「やっぱ変わってるよな?あの人。私も扱いがよくわからないんだが、君はどうだった」
「お前にもわからないこともあるんだな」
猫は寄っ掛かっている壁から離れ、廊下を歩く私についてきて、話した。
「そりゃぁそうさ。私だって人間なんだから。で?」
「...全然分からない。というより、この組織に分からないことは多いままだ。例えばお前の名前、あの人の名前」
言ってみて、よく今の今までコミュニケーションが成り立っていたなと思う。しかも選抜されるぐらいの研究者とその組織のボスの名前だ。ただ、名前がわかっていたとしてもそれが印象を確定させる要素にはならないとも思う。どう足掻いても不思議なものは不思議だ。
「私はテルル。そしてあの人はシェーレだ。まぁシェーレよりもボスって言った方がまだ体がつく。これでいいか?」
テルル...今まで心の中で猫と呼称していたことを話すべきだろうか。いや、別にいいか。
「この組織はとても楽しいね。今まで多くの組織を回ってきたけど、ここまで不思議な場所は無い」
ボスについて考えていると、テルルの声も耳に入らないし、気づけば訓練室に続く廊下を歩いているところだった。後ろを振り返っても既にテルルはいない。
訓練室に入ると同時に、あちらも訓練が終わったのか、彼女が出てくる。
「団長。シェーレさんから、来るように指示がありましたので、伝えに...」
ここまで言って、団長、イオの顔が少し険しくなったのを感じた。こちらの言葉を最後まで聞かずに、答える。
「分かった。君はもう自由に行動してもらって構わないよ」
そう言い残すだけで、そそくさと去っていってしまった。取り残された私の肩を軽く叩く人がいて、振り返れば近衛団のシンボルが刻まれた服を着ている団員の一人だった。彼は優しく言った。
「最近気が立ってんだ。気にしないで欲しい」
労いの言葉に一礼して、すぐに去ろうとしたところにもう一声かかる。
「それで、お前さん。どうやって名前なんか知ったんだ?」
さっきとは打って変わって、冷徹な声だった。
どうして、と言われても、テルルに教えてもらったとしか言えないのに、なぜか言葉に詰まる。ただ、言わなければならなかった。
===
「どう言うことだ!」
部屋に入るなり詰問する。車椅子に座っているそいつは、こちらをまた見ようともしない。
「どうして名前を教えた?団員たちにだって嫌々じゃなかったのか?唆されでもしたのか?」
一歩一歩着実に近づく。そいつは紙の束を机の上に乗せた。
「イオ。名前を教えたのに意味はあります。テルルさんにだけ、教えたつもりだったのですが...」
「...チッ。じゃぁ何でエカが知ってんだよ。口封じはしなかったのか?」
奴は視線をこっちに向けない。ずっとホログラムの景色を見ているのだから、普通の考えをしていないとしか思えない。
「しなかった、と言えば嘘になります。えぇ、『我々の行うことに支障が出ない範囲であれば、教えても構わない』と言いました」
そう言われると、もう何も言い返せない。あくまでこの組織でのあり方を制定したのは奴で、テルルとの提携条件を整えたのも奴なのであるから、詳細を語るまでもなく、自分が決めたことを述べれば良いだけだ。
「...エカはこの計画を知っているのか?リバの賛成反対はともかくとして、だ」
「知りません。ですが、彼女の協力無くしてこの計画の成功率は上がりませんし、納得はしてくれるでしょう」
そういうと、机の上にある資料を手で軽く2回叩いた。これを読め、と言うことと受け取って、資料を読み始める。
「医療用カウンセリングは結局ダメだったんだな。それで、今新しい研究を始めていて、それが3割程度と」
「えぇ。しかし、テルルさんが加わったことで、残り数日で稼働が可能になるでしょうね」
どれだけテルルに全幅の信頼を寄せているのかが分からない。入って少しの期間しか入っていないと言うのに、既に名前までも教えてしまった。研究の制限すら、リバとの接触要求ですら。
「...稼働って、何をだ」
計画の内容は知っている。リバの裏人格か能力を完全に抑制または抹消すること。しかし、通常の人格抑制では意味をなさない。逆に人格の転覆を早めるだけだ。
「43ページにあります」
そう言った後、奴は独り言をつらつらと並べた。
「『天国から、禁忌という概念が地獄と常世に流布されました。地獄はそれを受け止めてはいましたが、常世では、人間が天国を知るのは反乱を起こす可能性があるので限られた者にしか知らされず、全て伝聞という形になり、2代で潰えることとなりました。』」
言われた通り43ページ目を開くと、それは一つの巨大な機械の様だった。
「機械?」
「えぇ、テルルさんが得意な分野であった方が完成は早まりますので。ちょうど行き詰まってた所ですからね」
設計図が後に続く。側から見れば巨大な棺桶で、素材も自然には発生しないもの。これを理論の完成前に集めるというのか?
設計図をパラパラとめくっていると、何気ない落書きの様なものに妙に視線を寄せられ、自然と声に出た。
「The Ark?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます