第13話 泣きたくなる

 結局一曲も歌わないままカラオケボックスを出た。日差しがほぼ垂直に僕の元へと降り注ぐ。都さんは、まだカラオケボックスの中にいた。どうやら一度も来たことがないらしく、部屋代をもつ代わりに残させて欲しいと言われたのだ。二人で歌う空気にはもちろんなるわけもなく、僕はすごすごと請われるままに部屋をでた。帰りがけにアドレスを交換した。女の子のアドレスが連絡帳にひとつ増えたことは嬉しかったが、それ以上に複雑な心境だった。


「あついな……」


 額をぬぐい、歩き続ける。どこに行くあてもない僕は、お腹がすいたので家に帰ることにした。帰宅の挨拶をして玄関を開けると、ちょうど妹が家を出ることころだった。手になぜか、高級菓子店の紙袋を持っている。


「あ、お兄ちゃんっ」

「紅那、どこに行くんだ?」

「うん! あのね、あのね、これから雛姉のところに行くんだよ!」

「え――?」


 驚きに目を丸くさせると、妹がさらに目を丸くさせた。「あれ? 聞いていないの?」と、小首をかしげる。

「雛姉、町田に戻って来たんだよ。結局、お父さんのところに引き取られることになったんだって」

「は……?」

「昨日、会ったんじゃないの?」

「い、いや」


 お茶をにごす。会う事は会えたが、あの異様な世界でだけの話だった。まさか、町田に戻ってきているとは、考えもしなかったことだ。


「うーん。まあいいや。ねえお兄ちゃん、一緒に行こう?」

「え」

「お母さんに挨拶してきなさいって言われたけど、なにせ久しぶりだし。お兄ちゃんと一緒なら気兼ねなく雛姉に話せるってもんなのだよー。あ、この紙袋の中、もちろんクッキーね? 高級クッキーの詰め合わせ! きっと雛姉、飛び上がって喜んでくれると思うんだーっ」


 無邪気な笑顔でにこにこと、妹はツインテールを揺らす。


「……ごめん、僕はいけない」


 ぴたりと、そんな彼女の動きが止まる。


「え? どうして?」

「うん、ちょっと……」


 再びお茶を濁す僕の手を、妹は唐突に握りしめた。そして小首をかしげつつ、真剣な眼差しでジッと僕を見つめて、


「お兄ちゃん! 喧嘩したんでしょ!」

「え?」

「あー、もう! しょうがないねっ」


 片手に紙袋をもって、妹はずるずると僕を引きずっていく。


「ちょ、紅那、おまっ、待てって」

「待たない」

「離せって!」

「離さない」


 体育測定で叩きだしたという、握力四十はだてじゃない。僕の必死の抵抗をものともせず、妹はずんずん歩みを進めていく。思えば妹は、昔からこのような性格だ。他人の抱えている問題を知れば、真正面から正しに行く。自分のクラスで行われていたイジメのリーダー格を、校舎裏に呼び出し泣きながら抱きしめ説得したのは有名すぎる近所の逸話だ。


 こうしてあっという間に、僕は雛乃の実家に連れて行かれてしまった。

 躊躇なく妹は、ぴんぽんぴんぽんぴんぽーんっとインターフォンを鳴らす。簡単なやりとりのあと、玄関の扉が開いた。


「あ――」


 顔をだしたのは、雛乃だった。長い黒髪を緩やかに横に流しつつ、一つに束ねている。服装はデフォルメされた犬のイラストを描かれたTシャツとピンクのスカートで、ラフなものだった。


「雛姉、ひさしぶり!」


 僕の手をパッとはなし、紅那が雛乃に駆け寄った。細い腰に、ぎゅっと腕を回す。しかしそんな紅那には微かな反応しかしめさず、雛乃は僕を凝視していた。

 嫌な眼だった。


 一つの感情に染まりきった瞳ではない。複雑な色合いが、形が、視線が、顔全体の雰囲気が、彼女が抱いている想いが複合的なものであることを伝えている。

 しかし色濃く映っているものは、不信感のような気がした。

 そして、それも仕方がないなと、僕は瞳を逸らしてしまう。赤いキャンディーのような破片を抱えた蟻がコンクリートの地面の上を這いつくばるように歩いていた。


「……雛姉?」


 妹の不思議そうな声が聞こえた。きっと彼女の前で、小首をかしげでもしているのだろう。小さな身長ゆえ、斜め下から覗き込むようにされるその仕草は、答えたくないことまで答えずにいられなくなってしまう。案の定、雛乃にも効果抜群であったらしい。一息も置かないうちに、「あ、久しぶり」と取り繕ったような挨拶が聞こえた。

 その様子を、妹は正しく、そして間違えて受け取ったらしい。


「あー。やっぱり喧嘩か。まったく。二人とも、仲良くしてよね。雛姉はうちの将来のお姉さんになるかもしれないんだし」


 ぴきりっと、空気が固まったような気さえした。ごくり、と、喉を鳴らす。恐る恐る横目で見上げた雛乃の顔は、まるで能面のような無表情だった。

 ああ――ッ!

 唐突に、頭を抱えてうずくまりたくなった。


 自分がいかに取り返しのつかない、そして馬鹿な事をしてしまったのだろう、と。雛乃は、嘘をついてなどいなかった。ただ僕の横で同じように、異常状態へと初めて巻き込まれた被害者だった。それなのに、僕は最後の最後で、彼女をまさしく裏切った。


 嘘つきゲーム。

 嘘をつくゲーム。

 けれどそんな前提なんてめちゃくちゃに引っ括めてゴミ箱に捨てて、僕は雛乃を信じるべきだった――。

 と、その考えが、記憶の奥底をかき乱す。なぜだろう? 何かを思い出しかけたところで、


「もうお兄ちゃん、いつまでそこにいるの? 雛姉のところに行こう?」


 気が着くと、いつのまにか妹が間近にいた。小首をかしげた紅那の顔。姉さんに良く似た、澄んだ茶色の瞳。

 僕は彼女に導かれるように、ふらふらと着いて行った。そして、二人で雛乃の前に立つ。雛乃は身構えるように、腕を胸元にやり、そして片足がつま先立ちだった。

 何かの心理学書で読んだことがある。浮いたかかとは、この場から逃げ出すためのもの。ここにいたくないという、意志の表れ。


「……久しぶり」

「うん、久しぶり」


 絞り出すように挨拶を告げると、雛乃は微かに震えた声をだした。身勝手ながら、ぐさりと心に突き刺さる。僕達は、互いを探り合うように視線を交わらせ、そして沈黙した。


「も、もうー! ほら、なんかしゃべって二人とも! さ、仲直り仲直りっ」


 両手をばたつかせながら、紅那が言う。きょろきょろと僕と雛乃の顔を交互に覗き込んでは、「ほら折れて?」とばかりに懇願の瞳を向けてくる。

 けれどその願いには――どうやら、答えられそうもない。


「……」


 声を、だしたかった。

 雛乃、ごめん。あんなつもりじゃなかったんだ。僕はただ、あの時あの場の、特殊な状況に押しつぶされていたんだ。惑わされていたんだ。普段なら、絶対に、あんなことはしなかった。それから、約束する。僕はもう二度と――雛乃を、裏切らないから。

 けれど結局――思いついた言い訳の、ただの一つも僕は口になんか出したくなかった。


 嘘。


 僕が吐こうとしている言葉は、重みがない。どれだけ重ねたってきっと、雛乃の心に届かない。彼女に信じてもらえるわけがない。

 だから、逃げ出したかった。

 この場にいたくないのは、僕も同じ。左足が先ほどから、つま先立ってかかとが浮いている。


「ねえ、……なお、や?」


 そんな中、ぎこちなく雛乃が僕の名前を呼んだ。雛乃の顔色を伺うように、彼女を覗きこんだ。

 彼女の表情は――泣き出す寸前の、ようだった。


「信じていたかった」


 絞り出すように吐き出された言葉には、確かな棘(とげ)がついていた。


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