図書室少女の通学路

 その日、ああ、久しぶりに来たな、という感じだった。


 残暑もしつこいころ、朝の通勤ラッシュの満員電車は人の熱と臭いが鬱陶しくて仕方がない。


 それだけで、正直、気分が悪くなるには充分なんだけど、今日はそれに輪をかけて不快な理由が引っ付いていた。


 自分の見た目が、言っては悪いが、そういう人間をある程度引き付けるというのは、自覚はしているのだけど。


 大人しそうな出で立ち、真っ黒に伸びた黒い髪、小柄な身体、内気さを示すような黒縁眼鏡。


 一見すれば弱そうで、内向的で、自分に対する被害を上手く声に出せない、格好の獲物。そういう風に自分がどうしても見えてしまうのは知っていた。


 知ってはいるけど、毎度、こうやって出会うたびにどうしようもない不快さは、ごぼごぼと重油みたいに私の心に澱みをあたえてくる。


 明らかに大柄な男が私の背後に立っている。満員電車だから、身体が密着するのは自然なこと……ではあるけれど、それとなく、でも明らかに不自然に私の方に体重が寄っている。


 たまたまた、ドアの際の逃げ場のないところにいたのが、まずったなあとちょっとだけ反省。それから私は、壁の隙間でどうにか読んでいた小説を諦めて鞄にしまった。


 腰に、誰かの手の感覚が触れてくる。ごつくて、無作法で、そのくせ、誰かから見えないことだけは気を遣った、そんな手が。


 まさぐるように、うごめくように。


 放っておけば、これがどんどん下に下がっていって、私のスカートまで触れてくるわけだけど。


 ふーと軽く息を吐いて、視界の端で自分に触れている手と、そこから伸びる足を確認する。別の人にやってしまったら、申し訳がないからね。


 ちらっと見えた、そいつの靴は、綺麗に磨かれて、大きくて真っ黒な革靴で、それが余計に私の不快感を増してきた。


 はあと多少、ため息をついてから、私は男の死角になる位置で、片膝を腰くらいまで引き上げた。


 ところで、おじさん知ってるかな。


 たとえ女子でも、本気を出せば、足の筋力って凄まじいのだ。なにせ体重40キロの人間の足には、当たり前だけど、少なくとも40キロ以上の力が絶対あるんだから。


 それを思いっきり、つまさきの一点で受けたら、さてさて、どうなるかな。


 じゃ、身をもって体感してもらおう。まあ、骨は潰さないよう加減だけはしてあげるけど。


 そんなことを思いながら、私は淡々と足を振り下ろした。


 秋の顔がまだまだま見えない、そんな頃。


 満員電車に、人騒がせな、汚い悲鳴が響きわたった。






 ※





 「…………え、そいつ、その後、どうなったの?」


 「え、どうも? まあ、足の指先が腫れたくらいじゃない?」


 いつもの図書室で私が小説を読んでいるころ、なんとはなしに口を開いた今朝の話をしていたら、七海の表情がずんずんと曇りだした。


 …………さすがに痴漢の話は聞いていて面白くはなかったか。私は結構適当に流してしまうけど、人によっては普通にトラウマ案件だし。軽く反省しながら、ふうと息を吐いて首を横に振った。


 「………………る」


 「別に、私は結構対応手慣れてるから、心配するほどのこともないよ」


 そう言って、七海のほうを軽く見て、どうにもそういう雰囲気じゃないと言うことに、なんとはなしに気が付いた。


 いつにもまして、神妙な表情というか、妙に眼が座ってるから微妙な怖ささえ感じられる。


 「ぜつ……ゆる……」


 「…………どしたの?」


 「いや、絶対に許せんでしょ。痴漢とか、人の推しに何してくれてんの」


 「あんたが時折してるセクハラは、その絶許カウントはいんないの?」


 私の問いに、七海はむぐっと若干言葉を詰まらせたが、すぐに神妙な表情に戻るとゆっくりと首を振った。


 「それとこれとは別なのだ。私はー、その、いいのだ」


 「いや、よくねーよ、私が受けてるんだから。私の意見を反映しなさい」


 「いや、ほんと今度からは自重します。すいません……」


 「いや、正直、いうほど気にはしてないけどさ……」


 痴漢のことも、七海のセクハラも、私からしてみれば、適当に対処すりゃいいだけなのでなんともいうこともない。ただ、若干、手加減した物言いになっちゃったから、これはこの後もセクハラが続くやつかもしれない。今も、机に突っ伏しながら、「え、いいの? ほんとに?」みたいなことを言いながら、ちらちらとこっちを見ているし。


 はあ、とおもわずため息をついて、視線を小説に戻す。そんな私に、七海はフームと唸りながら、何かを考えこみながら口を開く。


 「明日から、毎日ボディガードやるは、私が」


 「いや、いらんから」


 何言ってんのこいつは。


 ちなみにその日は、七海は暇つぶしと称して、図書室でトランプタワーを建設していた。音は大してならないから、人の迷惑にはならないのは、まあ、そうなんだけど。通りがかる人たちが、みんな『なにやってんだこいつ』みたいな眼で見てくるのがいささかいたたまれなかった。多分、これ私も同類として見られてない? 図書委員の先輩から覚えが悪くなりそうだなあと、帰り際にひっそりとため息をついていた。


 しかし、ボディガードねえ。ま、七海ほど見た目が尖ってたら、そりゃあ痴漢からも狙われにくいかもしれないね。まあ冗談でいうだけ言ってるだけだろうけど。






 ※




 「おはよ」



 「…………はあ?」



 なんて高を括っていたのが間違いだった。七條七海という人間を、私はちょっと甘く見ていたのかもしれない。


 朝、私は何時もどおり行きの電車に乗る人ごみの中、蒸し暑い列にならんでいた頃。


 視界の端から、なんか見たことのある金髪がぬっと姿を現した。


 ちょっと汗ばんで、それでいてどこか眠そうな顔をしている七條七海がそこにいた。


 「なんでいんの、あんた…………」


 おもわず口がぽっかりと開いているのが感じられる。だけど、肝心な七海はそんなこと気にした風もなく、熱そうに掌で制服をぱたぱたと仰いでいるだけだ。


 「え? 言ったじゃん、ボディガードするって」


 「……いや、あんた徒歩通学じゃなかったけ?」


 そんな私の問いに、七海はにひりと小さく笑みを浮かべると小さなピースサインをこちらに指してきた。


 「自転車こいで、こっちまで来た。二駅だから意外と近いぜ」


 そう言った七海の頬は大層自慢げだった。……いや、あんな与太話、本気にすると想わんじゃん。っていうか、色々と障害あったでしょうに。


 「…………学校までの道、逆走してきたの、ばかなの?」


 「容赦なーい。まあ、反論もできないけどさあ」


 「電車代は? 自転車できたなら駐輪場代もかかってるでしょ?」


 「ん、まあ、そうといえなくもないような……」


 「つーか、通学時間、いつもの倍以上かかるでしょ」


 「まー、それはそうかもねー。まー、推し活ってそういうもんでは?」


 「………………あんたが、割とホントにバカなのはよくわかった」


 はあ、とおもわず漏れたため息に、隣の七海は少し慌てたようにわたわたとした。


 「えと、その迷惑だった? …………ごめん」


 それから、少ししゅんとしてこっちに頭を下げてくる。私より背の高い金髪が意気消沈して目の前にさらさら垂れてくる。


 はあ、とこぼれたため息が、段々と湧いてきた頭痛を助長してくる。一度、ついたため息はさらに何度か重なって。はあー……と絞るような息になる。


 そうやっているうちに、駅構内にアナウンスが流れ始めて、そうまたずに電車がホームに入ってきた。ドアが開くと同時に、それなりに人が降りて、それより大量の人が電車の中に詰め込まれていく。当然、私と七海も一緒に。


 すし詰めというか、洗濯機の中に突っ込まれた靴下みたいな気分で、電車にぎゅうぎゅうと押し込まれていく。いつもは一人で、うんざりしながらその人の波にもまれていくわけだけど。今日はなんでか、知らん奴が一人いる。


 「怒ってる……?」


 「おこってなーい。あきれてるだけ」


 私の言葉に、七海はしおしおと肩を落とし始めた。そのさまに、多少呆れながら仕方なく首を横に振る。


 「うう…………」


 「ふつー、同級生が痴漢会ったからって、そこまでしないの。っていうか、あんたのことだから、痴漢いなくなったって保証ができるまで、ついてきそうだし」


 「それは……うん。そのつもりだったけど」


 「その間にかかるお金とか時間、どーすんの。私、なんも返せないんだけど」


 がたんがたんと揺られながら、軽く息を吐いて、持っていた小説をぱたんと閉じた。


 「いやあ、別にお返しとかは……。私が好きでやってるだけだから、気にしないで」


 「私が気にするって話でしょ、ったく」


 はあと何度目かもわからないため息をついてから、七海の方に少しだけ眼を向ける。


 今、私達は満員電車のドアのすぐ傍で、壁にもたれかかるようにして並んでる。いつもはこういう時に、妙に近寄ってくる奴がいたら、痴漢のサインなわけだけど。


 ちらと周りを見回した。前科持ちがちらりと一人眼に入ったけど、あからさまにおどおどしていてこっちに近寄ってくる様子がない。


 …………んー、七海があほなのは確かなことなわけだけど。


 困ったような顔をしている、そのヤンキー娘を改めて眺めてみる。流れるような金髪、腰に巻いたパーカー、片耳についたピアス、整った顔立ち。なんというか、まあ、いかにもな感じなわけだ。これに痴漢するには、それはまあ随分と度胸がいるだろう。普段、私みたいな大人しそうな眼鏡を狙ってる奴からすれば尚のこと。


 「………………どしたの?」


 「意外と、効果はあるのねって想って」


 「やた、そんじゃあ……」


 「いや、明日からは来ちゃダメだからね」


 バイト禁止のうちの高校でいらん電車代と駐輪代払わせて、無駄な早起きまでさせて、そこまでしてボディガードを雇うほど私の財布に余裕はない。


 私の言葉に、七海は露骨に肩を落として残念そうにしているけれど。


 ただ善意でやってることは確かな以上、邪険にしたままというのも味気がない。


 だから、まあ。


 「一応、ありがと」


 お礼の言葉くらい、軽く紡いでてもばちはあたらないでしょう。普段は他人の感触がすぐそばまで迫っているのはそれなりに不快なわけだけど。生憎今は、七海の身体くらいしか近くにあるものないからね。……っていうか、多分、私がそういうのの標的にならないように、それとなくガードしてくれてるわけだ。


 「…………いやあ、私が勝手にやったことだから」


 そういう割には、随分と嬉しそう口角があがってますけどね。


 まあ、事実として今日の電車の時間は、いつもより少しマシだった。


 それくらいで、丁度いいでしょう。






 ※





 「あー、……明日から自電車で学校行くわ、……前から電車代節約したかったの」


 その日の帰りに、私がそういうと、七海は少しだけ驚いた顔をした後に、随分と機嫌がよさそうに笑ってた。


 どっかの誰かと帰り方が同じになるけど、まあ別に構いはしないでしょ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る