第6話 誰か人間模様を解説してくれよ

 この趙小瑶を取り巻く人間模様を整理してみよう。誰かに解説して欲しいけどなあ。


 まずは皇子たちだ。

 少なくとも、ポジティブ忠犬周王が第九皇子だというから、皇帝の皇子は九人はいるんだろう。いや、全員が成人しているとは限らないから、九人は男児が生まれたということだ。


 太子、第八皇子の泉北郡王、そして第九皇子の周親王の三人が生きていて、この中から太后は第八皇子をこの少女の夫に選んだ。


 海蘭は、泉北郡王と趙小瑶は不仲と言うが、本人は少なくとも見舞いには来たし、昏睡状態の趙小瑶に口移しで飲ませたのも郡王だ。

 あの青い郡王は、気持ちと行動のバランスが取れていないだけかもしれない。

 海蘭の見せた郡王への不快感と、周王のことを何も言わなかったことは注意しておく必要があるのだろうか。


 次、九番目の息子が十八歳だ。

 ここが中国でも、日本でも、この身分ならば一夫多妻ではないだろうか。

 例えば、「いづれのおんときにか、女御更衣あまたさふらう中に」で始まるのが「源氏物語」だ。その元ネタの一つが白居易「長恨歌」。


 一夫多妻の家庭では、仮に母親、いや母親候補が複数人いて、その年齢がバラバラでも、父親は一人で、一日一日と年老いていく。

 出生の男女比は、一対一を男性側が少し上まる。つまり、九人の息子が生まれたならば、八人くらい娘が産まれていても変ではない。

 十七人の子どもだ。そのうち何人が成人しているかは別だが、十七人の赤ん坊が生まれたとしよう。

 成人までの間、故意に女児を殺害したり放置しない限りは、男児の死亡率は女児の死亡率を上回る。六人の息子と六人の娘がいても変ではない。


 さて、男性の子どもを作る能力は無限ではない。年齢がある。

 そして、子宮が複数あっても、卵子と精子の相性、そもそもの人間の相性がある。それが、寵愛というものだ。


 それこそ、桐壺の帝が桐壺更衣を愛し、玄宗が楊貴妃を愛したように。

 そもそも、十七人の赤ん坊は非現実的なものだろうか。


 大学入試レベルの日本史を思い出した。日本で、子を多く設けた記録は二人あり、いずれも五十人前後だ。


 一人目は、平安時代初期の嵯峨天皇だ。五十人弱の子が記録されている。あまりの多さに、その多くを臣籍降下させ、内親王宣下なく臣籍降下させた娘の源潔姫を藤原良房に降嫁させるという前代未聞のことが起きた。


 その次は飛んで江戸時代の徳川家斉だ。大奥では子どもがなかなか育たず、家斉は五十人強の子を作るが、成人するのは半数だ。それでもその縁組が江戸幕府の財政逼迫を招くことになる。


 この尊い身分の二人と一般男性を比較するのは酷だ。しかし、比較相手が皇帝ならば「十七人の赤ん坊を産ませた皇帝」という想定は突飛なものではないだろう。ただ、そのうち何人が成人するかは別の次元である。


 さて、次はここの「皇帝」という人が大変元気な人物として最後の子どもを作ったのが四十五歳だとしよう。仮に四十五歳であの九番目の息子、これが末っ子の十七番目としたならば、末っ子は十八歳だ。六十五歳前後か。


 この世界での男性の平均寿命は何歳だろう。


 現代日本でも、定年前に亡くなる人は少なくない。俺よりも年齢が少し上の人たちが現役で亡くなり、何度か葬式にも行った。

 いわゆる、バリバリ系の仕事人ほど、定年前に亡くなることが多いように思った。

 次官候補と言われた、財務省のまだ四十代の課長が亡くなって、葬式に行ったこともある。


 真面目な皇帝ならば、激務だ。確か清の乾隆帝は九十前後まで生きたが、清最盛期に君臨した皇帝だし、これもまた例外の中の例外かもしれない。 

 日本で激務の記録のある統治者の筆頭に挙げられるだろう、藤原道長は六十代前半で亡くなっている。逆に、長寿だった記録があるのは、例えば八十くらいで亡くなった陽成院のように若くして退位させられた人だ。


 六十代半ばくらいではないかと思われる皇帝がここにいる。

 代替わりが近いのかもしれない。


 皇帝の代替わりと、複数の皇子、すなわち後継者候補がいるわけだ。

 争いがあっても変じゃないな。


 いくらちっぽけな地銀でもそういうことはあった。

 いや、ちっぽけな地銀だからそういうことがあるのだろう。大きな銀行ならワンマンで長年居座り続けることは難しい。


 今の頭取はただのサラリーマン頭取だが、俺が入行した頃の頭取は創業家の娘を妻に持つワンマン頭取だった。

 その年齢的な問題もあり、次期頭取を狙った派閥争いがあった。

 俺はまだ若手だったし、「東大」なんだよ。下手なことを知らせて、日銀の同級生さまにでもゼミのノリで喋ってもらっちゃ困るので、蚊帳の外だったと思う。


 でも、見た。


 そして社史編纂室には記録がある。あの頃何があったのか、社史編纂室に所属したばかりの俺は記録を見たんだなあ。


 派閥を産むのは、属性だ。


 合併したら元の銀行という属性だ。そして高校、大学の学校歴も属性だ。そして、営業か、運用か、そして法務に人事のようなバックオフィスかという、職務歴も属性だ。誰に、職業人として育てられたかも、大きな属性を生む。

 

 一夫多妻社会における皇子たちならば、これは母親、いや、母親の出身母体が何か、に帰結するだろう。


 さっき、忠犬九ちゃんはこう言った。「八兄さまも本王もまだ皇后宮にいて」と。


 ここが日本か中国かはわからない。


 そもそも、俺の夢の中だもんな。


 だが、八番目の兄と九番目の弟がいて、弟が兄よりも身分が高いということはある。しかも一夫多妻制ならば、母親の身分の違いだ。皇后宮にいたなら、八番目も九番目も皇后の子だろう。太子が皇后の子ではない可能性は低い。


 教養の頃の文化人類学の授業で「末子相続」について聞いたことがある。

 しかし、弟は太子ではない。

 ん?太子が八番目よりも年上だと思い込んでいたが、九番目よりも年下の可能性はないだろうか。

 つまり、末弟が全て取る末子相続の可能性だ。


 いや、それはないか。今郡王は二十歳だから、結婚は十九。それよりも前に太子には太子妃がいたわけだ。


 八番目が十九、九番目が十七なら、十番目は十五くらいだっただろうか。十番目が太子ならば、十四未満で太子妃を迎えていることになる。

 十五で二人目の妻はいくらなんでも早すぎないか。まあいいや、太子の年齢は誰かに聞いてみればわかる。


 太子の年齢によって、八番目の兄と九番目の弟の間で、弟が兄よりも身分が高い理由がわかるだろう。

 つまり、太子が十番目以降ならば、簡単だ。末子相続だからだ。


 太子が第八皇子よりも年上の場合は、ひょっとすると太子は四十すぎくらい、つまり皇帝がうんと若い頃に作った第一皇子や第二皇子かもしれない。それなら、皇后の子でなくても即位後すぐに太子に登っていても変ではないし、太子妃がいても変ではない。


 だが、第九皇子の方が第八皇子よりも身分が上の理由がわからない。

 

 いや、母親が不在なのか。


 趙小瑶の母親も、母方の祖母も早くに死んでいる。太后は母を亡くした姪を、そしてその姪の娘を引き取った。


 なら、皇后も母親を早くに亡くした皇子を引き取っていても変ではない。


 徳川家斉は五十人の子がいても成人したのは半数だ。実子が全員死んだときの、スペアとして郡王を引き取った可能性がある。


 俺は、世界史の知識を必死に思い出した。


 中国には確か、皇子や妃嬪によるクーデターのようなものが何回かあり、太子ではない皇子が即位することがある。


 例えば、「長恨歌」繋がりで唐の時代が一番初めに思い出された。

 唐の二代目太宗こと李世民は、兄の太子を殺害し父の高宗の譲位を受けて即位する。

 この李世民が実質的な、唐王朝の創始者なのだが、今の俺にとって重要なことは、「兄の太子を殺害した」ということだ。


 つまり、ここが中国ならば、太子だからといって、即位できるとは限らない。


 仮にここが日本だとしよう。

 飛鳥時代まで遡ろう。

 天智天皇没後に、天智天皇の弟の大海人皇子は吉野で挙兵して、天智天皇の息子の大友皇子を破ったのが壬申の乱だ。大友皇子は死ぬ。


 さっき平安時代の嵯峨天皇を思い出したが、あの嵯峨天皇とくれば、薬子の乱。

 兄の平城上皇と弟の嵯峨天皇が争い、嵯峨天皇が勝利して太子にしていた平城上皇の子を廃嫡した。


 その嵯峨上皇没後の仁明天皇の廃太子事件が、承和の変。

 この薬子の乱と承和の変で、二人の廃太子は死なずに仏門に入る。

 平安時代前期から後期に入るまで、怨霊信仰が強く、藤原氏は政治生命だけを断つ。


 しかし、平安時代でもその最後の源平合戦以降は、生命も断つように変わる。

 江戸時代まで降ってもそうだ。祖父の家康に三代目と指名されても、徳川家光は弟の忠長と後継者争いをした。


 ここに、今、後継者争いがあるとしよう。


 趙小瑶は父親に身分があるが、もう一つ太后のそばで育ったというポイントが重要かもしれない。


 男女の平均寿命は現代でも六歳程度の違いがある。


 ここが、日本にせよ、中国にせよ、古代ならば平均寿命は短い。

 趙小瑶の母親も祖母も早く死んでいるが、それは趙小瑶の大伯母の寿命が近いとは限らない。

 個体差も大きそうだから。


 周王によると、太后は皇帝の実母ではない。ならば、年齢差が大きくない可能性もある。

 六十代後半から七十代前半ではないだろうか。


 日本の記録でも、近代以前の確実に存在した天皇の長寿の記録は陽成院の八十歳だが、皇后側はもっと上だ。一条天皇の皇后の藤原彰子は大変な長寿で九十近かった。摂関期全盛の道長の娘が、白河天皇時代だぞ。白河上皇から院政期に入る。


 皇子たちの後継者争いに、太后の介入の可能性はないだろうか。


 ここに気づくと、全身の毛という毛が逆立っていた。


 俺は、ポジティブな厭世家として、安寧に暮らしたいんだよ。


 銀行の、それも地銀の頭取のポジション争いで過労死することはあるだろう。気力が抜けてポックリいくこともあるだろう。

 でも、殺人事件にまでは発展しない。そんなところまで発展するような銀行って、治安が悪すぎる。


 だが、大友皇子は首をくくり、徳川忠長は切腹した。李世民は兄を殺害している。

 ここが日本でも中国でも、後継者争いに負ければ、死ぬ可能性がある。


 嫌だよ。痛いのは。


 俺は安寧な人生を送るために、もっと、はっきりと現状を把握しないとならない。


 とにかく、事実を全部洗い出したい。

 誰に聞けば良いんだよ。


 海蘭やポジティブ忠犬みたいな、少年少女ではない人に聞きたい。

 十八歳と二十歳では、社会の解像度が大きく変わるだろう。

 郡王はどう考えているのだろうか。

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