第4話 圭

 目が覚めた。

 だが目が開けられないでいる。

 光があればまぶたを閉じると赤っぽいだろう?

 しかし、光がないままなら、黒いだろ?


 黒いんだよ。黒。


 圭は嫌がったが俺は豆電球、って最近は言わないな、常夜灯をつけて寝る。

 それが、好きという訳じゃない。

 震災以来、俺はずっとそうしてきた。


 ここが家なら、少し明かりがあるって訳だ。

 暗いってことは、だな……。

 残念ながら俺は、さ。


 しかし、あまりに喉が乾く。


 喉といえばそういや、郡王が漢方薬を飲み干したときに、喉仏が上下したのがよかった。あれは良かった。


 思い切って目を開けたが、電気がない、つまり街灯すらないってこんなに真っ暗なんだな。障子紙の向こうにいくつか、チラチラと揺れる光が見えて、あれが「大殿油(おおとなぶら)」、つまり平安時代の寝殿造の屋敷で夜に灯した明かりなんだなと思った。


 次第に目が慣れてくると、物の形がはっきりと見えてきた。

 海蘭が置いて行ったのか、小さなやかんと、ひっくり返して置かれた小さな器がある。ひょっとしたら、水があるかもしれない。


 あの漢方薬でも構わない。


 器は、コップというよりも、底が狭くて、あまり深くなくて、上が広がってる器は、やっぱり故宮博物院で見たような気がする。触ってみると、あまりの薄さと華奢さに壊してしまうかと思った。


 俺はやかんを持ち上げようとして、予想もしなかった重さにびっくりした。

 蓋を開けて、やかんにぶつけてみると金属音がした。まるで南部鉄器みたいだ。

 そういや、コロナ前に中国人観光客が爆買いしたものの一つが南部鉄器じゃなかったっけ?

 

 持ち上げて、中に液体があるようだとはわかったのだが、この腕が非力すぎるのだろうか。腕をプルプルさせながら、かちゃかちゃ音を立てながら浅い器に入れるのだが、見えないから溢れてるんじゃないかと思ったし、割ったり欠けさせたりしていまいかと多少心配になる。


 口につけると、鉄瓶で沸かした湯冷ましらしい、心地よい甘さと冷たさが喉を過ぎた。


 今度は、おそらく車にはねられた俺の夢の中なんだろうが、どういうことになってるのかに興味が移ってきた。


 どのみち、圭と終わった後の人生は消化試合。人生から色が全て消えたと思った。愛した人と終わり、仕事人としても社史編纂室だ。


 社史編纂室は、生粋の怠け者の俺にはぴったりで、すぐに好きになった。

 自死を選ぶほどの度胸はない。

 そもそも痛いのは嫌だ。破滅して苦しむのも嫌だし。ギャンブルにも悪い遊びにも興味もない。


 体がだるだるとたるんでいくのに任せ、社史編纂室で時間だけが過ぎる余生という、ポジティブな厭世観の中に生きていたのだから。


 あの太医は、俺が混乱していると言ったが、俺にとっては「胡蝶の夢」だ。俺の夢が趙小瑶なんだか、趙小瑶の夢が俺なんだか、どちらも同じだ。


 現代的な「胡蝶の夢」の一般的な解釈の方で、人生は儚いと解釈しても構わない。


 とにかく、俺はどっちが夢でどっちが現実でも構わない。短い人生なのだから、苦しまずに楽に生きていきたい。

 所詮この世など通過点に過ぎない。


 ふと現実的なことを思った。


 俺が帰れないならさ。

 両親をまだ元気なうちにサービスつき高齢者住宅に入れておいたのは、正解だったなって。

 それなら、姉貴がたまに見に行けるだろ。

 兄貴が帰国したら、会いに行けるだろ。

 俺の体がどうなってるかわからんが、あの家はリフォームしようとすっからかんにしておいたのは良かったよな。

 姉貴が処理してくれるだろ。

 仕事?

 社史編纂室だぞ?俺の代わりはたくさんいる。


 俺はここで、怠惰に生きていきたい。

 そのためには「ここ」がどんな場所なのかを把握する必要があるよな。


 やっぱり、我ながら現実的だなあと思うのだが、現状の把握なくして、楽に生きるための対処などできないんだから仕方がない。

 

 手始めに、この建物を把握しなくては。


 あの男、つまり泉北郡王が出て行った引き戸を一つ開けると、そこは小さな部屋で、その先の引き戸を開けると、周り縁があった。


 空を見あげると、思った通りだ。


 いくら大殿油があろうが、たかだかちっぽけな火の光に過ぎない。

 LEDライトどこらか、白熱灯すらもない。

 街路灯もないと、きらきらとしたものが漆黒の中にぶちまけられているのかと、俺は感心した。


 星座というものはあまりよくわからないのだが、さすがに天の川と北斗七星にオリオン座くらいはわかる。北斗七星を見つけられれば、近くに北極星がある。

 気温からすると、おそらく季節は夏ではない。何時かわからないが、オリオン座が見えればそっちが南方だろう。


 そんなことを思いながら空を見上げるのだが、それどころではなくなった。


 風が吹いて、大殿油が一つ消えた。

 ぶるっと身震いをしたのだが、同時に風は沈香の香りも乗せたのである。


 昼間の郡王の残り香がまだあるわけがない。どこかに本人がいるんだろう。ふと、風上の方を見渡すと、はらっと揺れる毛先が見え、黒い人影が足音も立てずに近づいてきた。


「瑶瑶。そんな薄着で出ちゃ駄目ではないか」


 小さい声だからだろうか、昼間とは声が違うような気がする。

 もっと、よく知っている、声だぞ。

 

 沈香のスパイシーな香りが俺の顔に襲いかかってくる。大きな袖を翻して、俺を抱きしめたのだ。


 そっと。

 あの薄い器を触るよりも、そっと、抱きしめた。

 そして、軽々とお姫さまだっこしたのだ。


 俺さまを!?

 お姫さまだっこだと!?


 十代後半の女性をお姫さまだっこするのは良いとしよう。

 しかし、この男ときたら、引き戸を一つずつ閉めていくのだ。

 どんだけ軽いんだ、この趙小瑶。


 郡王は暗がりに目が慣れているのか、俺をまたベッドに逆戻りさせて座らせて、掛け布団を俺にかけたのだ。


 いや、この男、本当に泉北郡王だろうか。


 泉北郡王の沈香は、甘みが強かった。

 この男の沈香は、むしろスパイシーだ。


 あの寺の、坊さんが説明してくれたのだが、沈香という香は、産地によって甘さとスパイシーさの傾向が変わる。現代では全くの、好みによるだろう。

 ここでは、値段に反映されるのかもしれないが、俺はわからない。


 少なくとも、泉北郡王は甘みが強いものを好み、この男はスパイシーなものを好む、そういう違いだろう。


 男は懐から筒を取り出したのだが、どういう仕組みになっているのかわからないが、すぐにぽっと火がついた。金糸でも使っているのか、袖がきらきらと反射した。


 その筒の火を使って一つろうそくに火をつけたのだが、ろうそくの方が火が大きく、男の顔を見せたので、俺は息を呑んだ。


 細面に、大きなアーモンド型の目。グッと意思の強そうな濃い眉毛。形の良い鼻に、ちょっとだけ大きめの口。


 何年一緒にいても、見飽きることのなかった顔だ。


 気づくと目尻に笑い皺が一本、また一本と増えて、フェイスラインが緩んでいった。それでも、俺の知る限り、一番美しい顔。


 俺が愛した唯一の人。


 その人が、少年らしい頬のふくらみと重力など知らないようなフェイスラインで俺の前にいる。


 圭は俺の隣に座って掛け布団ごと俺を抱きしめた。というよりも、この体格差だと壊れ物をそっと懐の中に入れたという方が近いかもしれない。


 こんなに大切に抱きしめられたのはいつ以来だろうか。


 沈香の奥に、懐かしい圭の体臭を探り当てた。

 他人の空似ではない。

 圭。

 俺の見る夢らしいな。


 趙小瑶は泉北郡王の正夫人でありながら、間男がいる。

 その間男が圭か。


 二十一の俺は、卒業後は工学部に行く、来年はまた大学受験するぞ、英語と国語のアドバンテージで理一かな、それとも偏差値を下げて東工大かな、という圭を食わせるために、早くから年収が高くて、そんなに時間を取られない仕事を探すことにした。


 二千五年卒は就職氷河期世代の中で一番運がいい世代の一つだったのかもしれない。景気が比較的上向きで、リーマンショック前で売り手市場だった。男で東大卒なら、よっぽどのことがない限りそこそこ希望通り就職できた。俺は兄貴が苦労して入った商社に、姉貴が必死に入った自動車会社に、どうですか?と言われながらも、東京に惚れ込んじゃって、東京以外のところには住みたくないと断った。

 

 俺の戦略はこうだった。学部卒で資格が特にない俺が狙えそうなところで、年収が一番高かったのは、そりゃ外資系のコンサルだったが、あんな二十四時間働き続けるようなことはしたくない。


 商社も確かに悪くなかった。これは必ず出張や海外赴任がある。マスコミも当時は年収も良かったんだが、在京キー局のテレビマンは二十四時間勤務みたいなもので、新聞社は必ず地方周りがある。


 金融機関はお金を扱うゆえにそんなに不満を覚えないような額を出してくる。しかし、都市銀行だと必ずどこか地方に赴任するし、証券会社は当時ヘトヘト証券と呼ばれるところもあった。


 残ったのが、地元の地銀だった。方言丸出しで、地元企業の発展に尽くしたいと語って、採用された。


 家庭的にも、両親共に公務員、兄貴が商社、姉貴が自動車と揃ってたのが良かった。三人とも県立トップ高校から旧帝国大学、それも俺は東大。日銀、財務省、金融庁にも同級生が行く、東京大学法学部。


 人脈がある幹部候補生として、俺は大切に育ててもらった。

 だが、俺は圭を食わせるためでしかなかった。特に昔の上司は仕事人間だったんで悪いなと思うけど、そんなもんだ。


 さすがに圭が自分のデザイン事務所を立ち上げるときに自分の銀行から融資をした訳じゃない。ささやかな貯金は全部つぎ込んだが。こんな感じかな、と書類を揃えて、下書きをした。向こうが質問したくなる小さな穴も自然に見えるように開けて。


 その、圭との最後の会話はこれだ。


「好きなのができたんだよ。お前みたいに、不潔だの何だのって言わない奴」


 その相手が誰かは知らない。

 男か女かも知らない。

 もう、興味もなかった。


 圭との二十代半ばくらいの頃の幸福に戻ることができるならば、這いつくばって泥水をすすってやる。


 だが、その相手に「返してください」と懇願などしない。

 無駄だからだ。


 あのとき、俺も圭も、相手が別れを口にするのを待っている状態だった。最後は何もかもが反対に向いていて、意見が一致することはなくなったが、この点だけは一致していただろう。


「そうか。じゃ、お別れだ。都内のマンションは値上がりしてるからね。売る。今からゴミ屋と不動産屋に電話すっから、必要なものがあれば今日中に持ってけ」


 俺は顔色一つ変えずにそう言って、その場で水熱光全て切った。


 廃品回収業者に電話をして、俺に必要なもの、つまり銀行口座だの当面の服だけを持ってホテルに行った。ホテルで生命保険や死亡保険の受け取り人を変えた。生命保険は兄貴。額が大きい死亡保険は姉貴に変更した。


 とくに今は海外に駐在している兄貴よりも、日本にいる姉貴の方に負担がかかるだろう。だから姉貴の方が多いと保険証書にメモをクリップでつけておいた。


 翌日、マンションの下で業者に鍵を渡した。俺の名義で買った家具や家電も全部何もかも、業者に取りに来させて、中身も見ずに捨てた。鍵を業者から返してもらったら、今度は鍵を不動産屋に預ける。それで終わりだ。


 会社には、親の介護を口実に地元に戻してくれと言った。

 少なくとも、テレワーク中は地元に戻ると。


「お姉さんいますよね。介護はお姉さんに頼めないのですか?」

「姉は名古屋だし、仕事があって結婚して子どもがいますから。子どもからコロナに感染して老いた親に感染させたくないです」


 俺はいろいろ見聞きしたし、監督官庁にも人脈がある。ゼミのノリでペラペラ喋られちゃ困るわけだ。クビにはなるまいと踏んで強く出た。

 空いているポジションは、社史編纂室と言われた。


 圭に本当にそんな相手がいたかどうかまで知らない。

 あれは、酒に任せた煽りでしかなかったのかもしれない。

 二年近くに渡る削りあうような争いに俺は疲れ切っていた。


 その圭が壊れ物を懐に入れるように俺を抱きしめている。


 震えているのは、この身体なのか。

 この身体にいる、「俺」なのか。


 

 

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