第3話 紅顔の美青年

 何日間かかかるんじゃないかな。と思ったのに、そのガキはすぐにやってきた。


 後ろに小姓だろうか、これまた坊やを従えてやってきたガキの年齢は、聞く通り、やはり二十歳を超えるか超えないかというところだ。これがなんと「紅顔の美青年」という、もはや明治の文豪の書いた本の中くらいでしか見ないような言い回しが似合う。


 身長はどれくらいなのだろう。建物の高さがよくわからないのだが、おそらく、ここの人の身長に合わせてあるだろう。この趙小瑶の視線からは特に天井が低くは思わないが、それは、現代人の原田正人の視線と同じなのかがわからない。


 とにかく、この男の身長はおそらく高い方なのではないだろうか。狭い部屋ではなさそうなのに、男が入ってきて天井に圧迫感が生まれた。


 平安貴族のような、えーと、あれは狩衣(かりぎぬ)だ。ただ、あまり布地にハリがないのか、幅広の肩をはっきりと見せている。


 髪の毛を上にお団子を作って、そこに飾りをつけているのだが、髪の毛は艶やかで、白髪なんかなくて若い生命力にあふれている。


 ゆっくりとした足取りだが、体の揺れが一切なく、歩みによる、体の上下しかない。さぞしっかりとした体幹の持ち主だ。


 狩衣っぽい衣には模様もなく、深い緑色に染められているが質素、いや、男が一歩一歩近づいてくると、織りに文様があることに気づいた。


 この中華趣味の屋敷の主はやはりこの男なのだろう。


「夫人(ぶにん)に薬を煎じてきた」


 漢方薬っぽい香りが漂ってきた。


「王太医に、落馬の衝撃で見た夢と現実を混乱していると聞いたが」


 男は遠慮せずに俺のベッドの天蓋を開けて俺の右側に座った。

 この部屋に漂う白檀の香りの中に、男の香りが混じった。男の香りは、重めの中に甘さがある。


 あのときの甘い香りの正体はこれか。沈香(じんこう)だ。


 白檀の香りも、沈香の香りも、線香に使われることがある。


 白檀はそのままでも香る。サンダルウッド、というと化粧品などに使われることがあるので、寺に縁がなくても嗅いだことがあるだろう。


 それに対して沈香は、熱しないと香らない。


 自分でもびっくりするが、二十歳前後の経験の中には、二十年くらいしてからようやく役に立つものがある。


 俺は、大学一年生の頃に、京都大学にいた兄貴の就職活動の前準備で東京の俺の部屋を明け渡し、代わりに俺が京都の兄貴の部屋にしばらくいたことがある。

 そのときに、比叡山を京都側から登った。ケーブルカーから降りてからは、自分の足で登ったのだが、そのうちに変な気分になった。根本中堂の護摩祈祷を見ているうちに、出家したくなって、中堂で解説をしておられた僧侶に、出家したい場合はどうすれば良いのかと聞いた。


 今思えば、あのときのあれは、何でもわかるようになったと錯覚する、「魔境」に入った状態だったのだろう。そういう人間を何人も見ておられるのか、僧侶は早まらないようにと言って、東京の部屋の近く、とは言っても、往復だけで三時間かかるのだが、天台宗の寺を紹介してもらった。


 そっちの和尚も出家はいつでもできるから早まらないようにと言ってくれた。


 そこに休みごとに通って雑用をさせてもらった。特別開帳のときの受付や、参拝者の備えた蝋燭や、線香を整え、抹香を整えるのも、その頃の俺の仕事の一つだった。

 結局圭が毎回迎えに来て、俗世につなぎとめられ、出家しないどころか、銀行なんて世俗の極みの一つのようなところに就職することになる。


 そんな俺だから、まさか仏教を良く知っているとまでは言わないし、香をよく知っているとも言わない。


 だが、一度本物の白檀や、沈香に火をつけたものを、これは何だという説明とともに嗅がせていただいた。


 一度説明されてから嗅ぐと、はっきりとした違いがわかるし、線香の中の白檀の香りを爽やかに嗅ぎとるようになったし、そして沈香の甘さも、スパイシーも知った。


 沈香は樹脂なのだが、産地によって甘みが強く出るものもあれば、スパイシーさが強く出るものもある。

 現代日本においても、まだ人工的には作れない香りの一つだから、沈香は貴重だ。

 まして、奈良時代なんだか平安時代なんだか、古代中国なんだかよくわからないところでは、極めて貴重だろう。


 確かに、皇帝の息子にふさわしい香りかもしれない。


 小姓が進み出て、男に薬が入っているらしい器を渡した。

 漢方薬の香りが、白檀も沈香も消してしまった。

 こりゃ、ヨーロッパの夢を見ているんじゃないことだけは確からしい。


 男はそのままスプーン、いやお匙という方がふさわしそうな、木のお匙ですくって、ふうっと息を吹きかけて冷まして、俺の口元に持ってきて、「あーん」と声を出さずに口を開けた。


 男は視線で口を開けなさいとするのだが、相変わらず俺が口を開けないので、男はなんとそのお匙を自分の口に持って行ったのだ。


 男の喉仏が上下するのに、俺は目を奪われた。


「夫人(ぶにん)が一口飲めば、私も一口飲もう。どうだね」


 初めて会う美青年と同じお匙か。

 嬉しい人はいるだろう。

 圭はノリがいいから、このシチュエーションなら飲むだろう。


 だがコロナ禍で俺はそういうことが本当に、本当に無理だ。

 あのとき口移しに飲まされたのだろうと思うが、受け付けないものは受け付けない。

 俺は鳥肌を立てつつも、大人なので、生理的に受け付けないとは言ったりはしない。


「もしも、俺が何かの感染症を持ってたらどうしますか?」


 飛びのくかと思ったが、男はまたお匙で俺の口に薬を持ってくる。


「飲みませんよ」


 そしてようやく、男は俺の質問に答えた。


「本王は夫人から何に感染しようがかまわぬぞ。しかし夫人は本王が感染症を持っていないか気になるのだな」


 ガキは片眉を上げていたずらっぽく笑った。


 この男は、遠くから見れば美青年だ。

 だが、近くから見ると、なんとアンバランスな男だろうと思う。

 グッと太めの眉の下の目は少し小さいが、すっと鼻が通っている。

 彫りが深いと言える目鼻立ちと比べると、口はちょっと大きくて、唇がぼってりとしているような気がするのだが、そのアンバランスさの中に、色気が生まれている。


 俺がまた首を振ると、すぐにその笑みは消えて、仏頂面になった。

 ぐっと、器の中身をそのまま飲み干し、俺に向かって言った。


「どうしてそう頑ななのだ。こちらが歩み寄れば、そうやって突き放す、もういい!」


 そしてくるりと向きを変えて去って行った。

 かわいいねえ。

 青い。

 この男は青い。ただ青いだけだ。

 そりゃ、二十歳だもんな。


 アンバランスさは、顔と身体にも言えるだろう。


 顔だけを見ればむしろ飄々とした美青年だ。

 それに対して、肩幅は広くて、腰はぐっと細い。だからほら、上半身の線が浮かび上がるような衣装なんだから仕方がないんだってば。

 

 この体型は、単調で苦痛の少なくないトレーニングを積んで作り上げたんだろう。


 このアンバランスさこそが、若さだ。


 永遠だと思ってるかな、ガキンチョめ。

 いずれ、君も変わる。

 どうなるのか。


 俺みたいに、ひねくれるのか。

 俺は一人でも多くのガキが真っ直ぐ育ってくれると良いと思うねえ。

 皮肉じゃないぞ、本気だぞ。

 それにしても、良い身体をしてるはずだぞ、あのガキは。

 俺が男を愛したから言ってるんじゃない。


 そもそも俺は男が好きなのか。

 俺は圭が好きで、圭が男だったから男が好きだということになったのだと、今は思う。


 俺がなりたかった身体を、そのまま具現化しているのがこの郡王だ。

 夢の中で別人になるなら、こんなわけのわからん女じゃなくて、あの男の方が良かった。


 皇子になりたいんじゃない。

 お楽しみ棒も快楽の源もそのままに、あの身体を手に入れたい。


 膝下を見せて欲しい。

 男の身体能力は、膝とふくらはぎ、そして肩を見ればある程度わかる。

 肩のラインはもう見えている。

 だから、膝下だ。


 肉に埋もれた膝なのか。

 鶏ガラみたいな膝下なのか。

 それとも、大きな膝の皿と発達したふくらはぎなのか。


 この肩なら、多分膝も発達しているだろう。


 皇子のくせにトレーニングを積む男が、ただの皇子なわけがない。


 あの青さも、すぐに消えるんだろうな。


 十九の頃の俺は寺に入り浸り、二十一で銀行に就職することにした。

 二十一で圭は法学部から工学部に入り直すことに決めた。一度法学部を卒業して、工学部に入り直す。

 あの頃の俺たちは、幸せだった。

 永遠に続くと思い込んでいたが、そんなことはなかった。


 郡王が去ると、俺の腹が盛大に鳴った。グー!っと。


「娘子、お夕食をお持ちしますね」


 海蘭が持ってきたのは、お粥の中に肉が入っているものだった。

 確か、圭と行った香港で食べたことがあるような気がする。ただ、味は違う。

 あんなに人工調味料は入ってなくて喉が乾くものではない。何かで出汁を取って、ねっとりとした粥に味をつけたのだろう。むしろ、滋味深いとすら言えるものだった。


 十八の俺だったら足りないが、四十の俺なら十分だ。

 この、十八の趙小瑶ならどうだろうか。


 特に何をすることもない。

 海蘭が体や頭を揉んでくれて、寝る前に漢方薬の液体を飲む。


 目が覚めたら、きっとまた日本の俺の家だろう。

 きっと明日はまた社史編纂室に出勤するんだろう。


 そうじゃなかったら?この、古代中国っぽい夢の中なら?

 郡王の正夫人だったら?


 上げ膳下げ膳の生活を楽しめばいいじゃないか。


 俺という男は、生粋の怠け者なのである。


 いっぱしの銀行人なら、どうだろうか。

 地銀でも、東京大学を出て東京支社に勤め、日銀と財務省を担当していたような男だ。それが、地元に戻って社史編纂室だ。

 左遷以外の何物でもない。


 だが、青さを失い、怠惰な俺は社史編纂室に満足していたのだ。


 寝て起きたらきっと、出勤さ。

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