思い出と夢想

 正面玄関から入ると、廊下の奥から女の叫び声がした。

 何事かとそちらに向かうと、階段の下でフミカが手を口に当てていた。

「お婆ちゃん! 勝手に上っちゃダメでしょう!」


 二階に続く階段から、大きな手提げを抱えた老婆が危なっかしい足取りで下りてこようとしていた。

 ニセノが素早く階段を上がって、荷物を受け取りながら老婆に手を貸して下りさせた。

「あ、すみませ、すみません」フミカは懸命に頭を下げた。「ね、上に行くときは、手伝うって言ったでしょ。この階段危ないんだから……」

「なあにさ、あたしゃ住んでたンだから」老婆は不満そうに言い返した。


「これは、何かの書類ですか?」ニセノは老婆が持ってきた手提げを持ち上げた。

「写真よ、写真。アルバム」

 老婆が手提げの上部のチャックを開けると、分厚いカバーのついた冊子が何冊も詰め込まれているのが見えた。

「言ってくだされば、持ってきたのに……」フミカは溜息をついた。

「ちょっと思い出したンだわ。爺さんと店やってた頃の、写真よ」

「それは凄い。是非見せて頂きたいです!」

 ニセノが前のめりで言い、全員がぞろぞろと食堂へ移動した。


 食堂のテーブルの上にアルバムを広げ、老婆は頁をひとつひとつ捲りながら取りとめのない思い出話を始めた。ニセノが隣に座って熱心に相槌を打つので、俺は仕方なくその向かいの席に座った。

 フミカは三人分のインスタント緑茶を淹れてテーブルに置くと、ゴミをまとめてくると言っていなくなった。


 アルバムの写真は、老婆とその夫がこの店を始めた頃のものが多いようだった。新築だった頃のこごみ荘は、今よりもずっと明るい色合いで、案外都会的なカフェの雰囲気だった。

 池の周りで行われた打上花火や、バーベキュー、スポーツ大会など、イベントの写真も多い。地元の住民や宿泊客と思われる人達も多く写っていた。


 老婆の語る思い出話は、写真に関係あるのか無いのかよくわからなかった。開業までの苦労や、冬の寒さに辟易したこと、就農ブームや別荘地バブルで急に新興集落ができ、数年で廃れた話。懇意にしていた誰それが病気で早死にしたこと。ある年の異常気象で池の水が減り、水際が何十メートルも後退した事件。

 よく、こんなに話すことがあるものだ。老人の記憶は昔のことばかり鮮明だとはよく聞くが、俺がいつか年老いてもここまで話すネタは無い気がする。


 アルバムの三冊目のあたりから、ひとつひとつの写真が大判になり、付近の山や池の景色を撮ったものが多くなった。

「こン頃は、爺さんがカメラに凝ってたなア」老婆は次々と頁を繰りながら言った。「自然の、景色の写真ばっかだわ。町でやってた写真コンテストなんかに出して、毎回入選したなア」

「それは、凄いですね」ニセノが言うと、

「なに、入選ってな、他の賞が何も取れなかった人がなの。だから参加賞、ビリってことだわ。ハッハ。爺さんさア、『優秀賞の奴より俺の方がいいカメラ使ってンのになんでだろう』って聞くわけ、そりゃさアンタのセンスが無いンだわってな、アッハッハ」

 話の笑いどころがよくわからなかった。そもそも笑い話ではないような気もする。


 アルバムを全部めくり終わると、老婆はまた頁を遡ったり、一度閉じたアルバムを開き直したりして、とめどなく話し続けた。結局、外から戻ってきたフミカが「お婆ちゃんもういいでしょう」と言うまで続いた。


「このお店は、旦那さんとの大切な思い出なんですね」ずっと相槌ばかりだったニセノが言った。

「爺さんの夢だったから。会社早く辞めて、田舎で店やりたい、て、ずうーっと言ってたからな。あンな、身体動かなくなるまで好き勝手して、爺さんも本望だろって」

「もし、息子さん夫婦がここを継げないことになったら、どうしますか?」

「そらあな、そうだで」老婆はうんうんと大きく頷いた。「それぞれ自分達の、生活の都合ってもンがあるべ。フミカさんだって今の仕事があンだろうし、ここは適当に片して売ったらええ。建物はまだ使えるンだし、小銭ぐらいにはなるさね」


 昨日と言っていることが真逆だ。げんなりと力が抜けそうになる。そういえば、厚彦も「日によって言うことが違う」とは言っていたが。


「奥様は、今、お仕事をされてるんですか?」ニセノは湯呑みを下げにきたフミカに聞いた。

「ええ、市内の個人事務所で……私は電話番と経理のお手伝い程度ですけど」

「では、もし旦那さんがこの店を継ぐとしても、奥様だけ市内に住まいを借りて、お仕事を続けられるっていう可能性も?」

「うーん……どうしても無理になったら私だけ市内に戻ろうかとは思ってましたが、確かに、初めから別居でそれぞれやるほうが、揉めないのかもしれませんね」彼が承知するかどうはわからないけど、とフミカは付け加えた。


 こちらも昨日よりだいぶトーンダウンしてきたな。ニセノの聞き方が上手いのかもしれない。


「旦那さんはお外ですか?」ニセノは席を立ちながら、正面入口の方を振り返った。

「たぶん、外で甥っ子達と遊んでいるかと。それか、洗車」フミカは言った。

「旦那さんは、車がお好きなんですか?」

「いえ、特にそういうことは。まったく詳しくないですし」

「お爺様のように、カメラの趣味とかは?」

「無いですね。昔から、読書とか音楽は好きですが」

「なるほど……」ニセノは頷いた。

「何か、関係あるのか?」と俺は聞いた。

「いえ特に、何がというわけじゃないです。情報は多ければ多い方が良いっていうだけです」

 ニセノは老婆がアルバムを手提げに入れ直すのを手伝ってから、外へと向かった。

 俺はよくわからないまま付いて行った。




 子供達二人と厚彦は、氷の張った池の前にいた。今日の暖かさで氷はかなり薄くなり、池の中央の氷が無い部分も広がっているようだ。

 少年と少女は池のほとりで適当な石を拾っては、池の氷に向かって投げていた。石が当たったところに穴が空けば「当たり」で、空かずに石が氷の上を転がれば「外れ」らしい。


 少女の方は、俺とニセノが近づいてきたのを見ると、「呪文は解けたの?」と聞いた。

「まだだよ」と俺は言った。

「なんでまだなの? 時間かかるの?」

「まあ、そういうこともあるんだ」俺は言葉を濁した。


 厚彦は、少年が持ち上げようとして手間取っていた大きな石を片手で拾い上げ、勢いよく池に向かって投げた。子供の頭ほどある石は山なりの軌道を描いて十メートルほど飛び、氷を突き破ってドボンと水中に飛び込んだ。

「すげー」少年はげらげらと笑った。「あれさ、もしかしたら、池の魚に当たったかな。池の中にさ、魚がもしいたら……」

「魚もいるけどな、亀もいるぞ」と厚彦は言った。

「え、亀? 亀いるの?」

「そう。こーんなでっかい亀」厚彦は大げさに腕を広げて見せた。「春になると、日向ぼっこしに出てくるんだ。百匹くらいずらーっとそこに並ぶ」

「百匹ー? うえー」

「小さい亀は、大きい亀の上に乗るんだ。それでもっと小さい亀が、さらにその上に乗る。何匹も重なって、積み木みたいになって……」

「えー。嘘っぽい」

「ほんとほんと」


 ニセノは厚彦に歩み寄った。「すみません。裏の呪文を作業していて、ちょっと確認したいことがありまして」

「ええ、何でしょう」厚彦は少年相手のふざけた口調を引っ込めて、少し真顔になった。

「パスワードのようなものが掛かってるんですが、何かご家族の中でよく使う合言葉をご存じないかと思って」

「パスワードですか……英数字の組み合わせとかでしょうか」

「そういうのもあり得ますし、何か番号とか単語かもしれません」

「うーん、心当たりないですねえ。親父とお袋の誕生日くらいしか……親父が七月七日で、お袋が十月九日ですが」

「一応その二つは試してみましょう」ニセノは携帯端末を取り出して素早くメモを取った。「お父様は七夕が誕生日なんですね」

「そうなんです。だからいつも七夕のついでに親父の誕生祝いでしたね」

「お父様は、今は施設に入ってらっしゃるとお聞きしましたが」

「ええ、去年、病気で手術をしてから一気に老け込んで、というか、呆けてきたみたいで……私が見舞いに行っても、息子だと認識してないことが多いんです。父があんなじゃなければ、この店のことももう少し話し合えたんですがね」

「厚彦さんご自身は、以前から、こういった宿とかレストランの経営にはご興味があったんですか?」

「まあ、まあ、興味はずっとありました。どうも私は会社勤めが向いている人間ではないので。それでも、妻もおりますし、安定した生活ってのは楽は楽なんで、これまで続けてきましたが……」

「やはりお父様と同じように、早めにリタイアしてお店を持つ計画で?」

「具体的に計画していたわけじゃありませんが、漠然といつも考えてはいました。私どもは子供もいないので、ある程度の余裕はありますし。それに、去年あたりから、ちょうど……」厚彦は少し間をおいて言い淀んだ。「社長が交代して、経営の刷新があったんです。それで、職場の顔ぶれもだいぶ変わりましてね。若手の人達にはその改革が良かったんでしょうけど、私にとってはだいぶやりづらくなりまして。そのことと、父の手術が重なったりして、そろそろ人生で本当にやりたいことを考えるべきだと思うようになったんです」

「そうでしたか……この建物なら設備も一通り揃ってますし、ある意味、渡りに船といったところですかね。ちょっと気がかりなのは、この立地ですが」

「そうなんですよねえ……!」厚彦はまるで、その話題を振られるのを待ち構えていたかのように頷いた。「県道から逸れて三キロというのが痛いです。せめて県道沿いだったらと思います。ここが建った頃は、この辺り一帯がアウトドアスポットになっていて、移住ブームもあったし、わりと栄えていたんですが」

「商売は水物と申しますからね。そのときどきの風を読むのは難しいですねえ。もっと、市内のほうで、手ごろなテナントを借りて始めるとかいったことは考えられてないんですか?」

「いえね、当初はむしろそういう方向で考えていたんですよ。駅前から一本外れた辺りに、ブックカフェみたいなのを持ちたいなと。私は読書が趣味なので……」

「ブックカフェですか。それは素敵です」

「カフェとしてのメニューの他に、本が目当てで来るお客さんも呼び込めたらと。この建物もね、もしやるんなら、二階は図書室にしようかと思っていたんです。壁を取っ払って本棚を並べて、私が今持っている蔵書にもう少し買い足して……」


 厚彦は本の話になった途端、勢いづいて開業の計画を語り出した。傍で聞いている限りでは、その内容はいかにセンスの良い本を選んできて揃えるかという話に偏っていて、経営の具体的な計画は出てきそうになかった。


 俺自身も長らくフリーで食べてきて、決して経営センスがあるほうではないが、彼みたいな人間はほぼ成功しないとわかる。そもそも、実際に開業まで漕ぎつけられないだろう。初期投資だけして投げ出すに違いないという妻の予想はかなり正しそうだった。


「ねえねえ!」池の縁の氷を足で踏み割っていた少年が、戻ってきて厚彦の腕を振り回すように引いた。「なんの話してるの! ねえ!」

「うんうん、ちょっと待ってね」厚彦は苦笑した。


「君は、あっちのお姉ちゃんの弟?」ニセノは膝と腰を少し折り曲げ、少年の顔を覗き込んだ。

「え、うん……」少年は怪訝そうな顔で頷いた。

「お姉ちゃんのことは好き? 仲いい?」

「うーん……普通」少年は照れたように俯いて目を逸らした。

「もし、お姉ちゃんが遠くに行って、うちに帰って来ないことになったらどうする? 一緒についてく?」

「え、うん、それはついてく」少年はすぐに顔を上げて言った。

「そうなんだ」

「だって、きょうだいだもん。それにノンちゃんはひとりじゃ危なっかしいところあるし」

「なるほど」ニセノは笑わず、真面目な顔で頷いた。「君は優しいんだねえ。お姉ちゃんは今、勉強してるけど、君もしてるの」

「まだ、塾は行ってないけど……来年から行く。この前『体験』は行った」

「そうなんだ? 勉強は好き?」

「うーん、普通……。でも、学校の勉強だけだと、将来につながらないから」

「へえ。お母さんがそう言ってる?」

「親が言ってるからじゃなくて、自分で判断して、そう思うから」


 その言い回し自体が親の受け売りのように聞こえたが、少年が思ったよりもずっとしっかりと話せるので意外だった。姉の方もそうなのかもしれないが、子供扱いされているときには存分にそれを利用しつつ、決して見た目ほど幼稚ではないらしい。


「大体わかりました。一旦現場に戻りましょう」ニセノは身体を伸ばし、俺に向き直って言った。


「あの子には聞かなくていいのか」

 俺は、少し離れたところからちらちらとこちらを窺っている少女を目で示した。


「あの子には、今から聞いてみますよ」

 ニセノは少女に軽く手を振って微笑みかけてから、池に背を向けて大股に歩き出した。

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