始末術式


「ん……」


ここしばらくでは味わうことの出来なかった柔らかい朝、優しい目覚め、顔の周りを飛ぶ虫も無ければ背中の土汚れも無い、宿屋で迎える懐かしき朝。


寝床から這い出て服装を寝巻きから通常の物へと着替え、体を伸ばして軽く体操をしたあとに備え付けの珈琲を淹れる。


陶器の質感を指に感じさせながら、窓を覆い隠す布を開け放ち外の景色を見る。


ズズズ……と啜られる黒い飲み物、未だ寝惚けたままの頭と目にはよく効く、宿の外はこの辺りの地域独自の環境により暗がりが早朝を支配していた。


明けない夜などというものがよもや実在していようとは、こうして生きていれば思いもよらぬ奇異なる経験をする事もある、これはこれで趣がある。


作り出された人工の光、自然のしの字もない技術力の織り成す無機質ながらも暖かみのある光、天に届かんとするような高い建物、数え切れぬ人の波。


田舎剣士にとっては目も眩むような光景であり、見ているだけで気を失ってしまいそうになる、人間とは何とも業が深くそして万能な生き物なのだろう。


見上げても見上げきれない建物の数々。


頂点が視認出来ないというのは普通のことではあるが、中でも一際異彩を放つ、この文明の宝石たるエレゴーラにおいて尚他者の追従を許さない強大な建造物がある。


向こう側が見透かせない硝子張りの四角い建物、かなり距離があるはずの此処からでもハッキリとこの目に収めることが出来る程の凄まじい威圧感。


それはこの街の治安を一手に引き受け守っている警備会社の物であり、いずれ戦うことを覚悟しておかなければならない権力の結晶でもある。


何故ならアレは、あそこには。


奴はそこにいる、灰の指英雄エルニスト=ガザール、私がこの街に来た本来の目的が、代表取締役という席に着いてあの大きな建物の頂上に居るのだ。


「……」


ただでさえ強い個が、堅牢な砦と無数の戦力によって囲まれている、単騎で乗り込んで事を成すにはあまりに無謀なその光景に、胸の奥で炎がチラつく。


——切り崩してみせる。


抱いた思いはあんな鉄の塊なんかよりよっぽど強固であるのだった……。


✱✱✱✱ ✱✱✱✱ ✱✱✱✱ ✱✱✱✱ ✱✱✱✱ ✱✱✱✱


一般人として街に潜伏するようになってから二日、その間に私は出来る限りの情報収集と環境適応を図りエレゴーラ全体の地理を身に付けた。


怪しまれたり印象に残りすぎない範囲でそれとなく街の人間に警備会社の事を聞き込んだり、こういった街には必ずある特有の犯してはならない決まり事を知り得たり。


最低限の潜伏は意識しつつも作戦に向けた下準備を進めていた。


この二日の間に騎士団との接触は一度も無かった、向こうからの連絡が来ないということはまだ時期尚早ということなのだろう。


今回の件に関して私はただの実行役、真正面から全面戦争を仕掛けるよりもマシな作戦があるというのなら、それに従うのが現状最も賢い選択だと思う。


ちなみに彼女らがどんな方法であの難攻不落を攻略する気でいるのかについては聞いていない。


英雄討伐を本気でやるにあたって元の作戦に致命的な齟齬は無いか、私という有力な戦力が加わった事によって生まれる計画への幅を精査する為である。


不確定な情報を伝える行為は相手に余計な先入観を与え混乱を招く恐れがある、その辺の判断をストランドは慎重に行いたいと言っていた。


またその時の彼女は言わなかったが、私が万が一にも情報漏洩をする可能性を消しているという意味も孕んでいるのだろう、組織の頭らしく慎重な女だ。


……さて、それでだ。


私は騎士団からいつ連絡が入ってもいいように超高速で自分がやるべき事を済ませたのだが、おかげでこの先何をしていれば良いのか分からなくなった。


眠りから覚めた私は宿屋を出て街に繰り出し、適当な通りを歩いて観察をしつつ、丁度いい頃合を見計らって店の中に入ったりご飯を食べたりする。


『普通』に擬態し続けるのはまぁよい、最初こそ戸惑いはあったが順応は思いの外早かった、現状維持について不安はなくそれについて問題は一切無い。


——だが。


「……手持ち無沙汰じゃ」


喫茶店なる場所で甘い物を頬張る私は途方に暮れていた。


調査と言っても私の行動には制限が掛かっている、アマカセムツギは表向きも裏向きもでいなくてはならない、あまり目立つ動きは出来ないのだ。


「美味しい」


こうして口の中に広がる真新しい味を楽しむ以外にやれることがない。


警備会社に近付くことは許されない、遠目から眺めることでさえ避けるべきだ、彼らの身辺に繋がるあらゆる要素からは距離を置かなくてはならない。


賭博街という性質上、どう足掻いても裏の事情がそこかしこに転がっている、私も日向の人間では無い以上彼らの目には同族として写るかもしれない。


かと言って籠り切りなのも頂けない、それはそれで不自然だからだ『あの部屋にいる女うちに来て以来一度も姿を見ないね』なんて事になれば面倒だ。


……さも平和であるかのように振る舞う彼らの姿には反吐が出るがな。


何はともあれ今日はまだ三日目、せいぜい気長に待つとしようではないか——


「お隣、よろしいですか?」


ガタ。


こちらが何か反応を返す間もなく、その男は突然に現れて私の隣の席に座った。


「こんにちは、僕の名前はアルカ=マグヌス=ゾルトウェイト」


向けられたのは善意、好意、そして友好、好ましいと思える全ての属性を込められた名乗り口調には、私は底知れぬ怖気を全身に感じていた。


「以前どこかでお会いしませんでしたか?」


何故なら。


「そう、例えば」


横目に写った男の顔には。


「ある夕日の鉄火場にて」


この世全ての絶望と闇を寄せ集めたかのような、およそ人だとは思えない混濁とした邪悪が張り付いていたからだ。


そして私は、奴のその顔には見覚えがあった!


「久しぶりですね」


以前とは随分と様子が違ってしまっているが、彼の顔立ちには覚えがある、いいや忘れるわけがない、だってそれは私がこの手で殺したはずの男の顔だからだ!


「お主——」


机の下で、黒い悪意が妖しく煌めいた。


「——ッ!」


ガッ……!


咄嗟に手が動いた、状況を認識する前に頭が危機を察知した、私の太腿の血管に向けられた鋭い切っ先を手首ごと受け止めて冷や汗を垂らす。


そして彼はこう言った。


「貴女を殺しに来ました」


まるで赤ん坊に向けるかのような優しい笑顔を貼り付けて……。


✱✱✱✱ ✱✱✱✱ ✱✱✱✱ ✱✱✱✱ ✱✱✱✱ ✱✱✱✱


ギリギリギリギリッ!


水面下で繰り広げられる決死の攻防。


ここが人の居ない路地裏であれば対処は楽だった、だがこの場においては話が変わってくる。


私はこうして凶器を差し向けられても表立った反撃が出来ない!そんな事をすれば私の噂は瞬く間に街中を駆け巡りやがて標的の耳にも入るだろう。


警備会社、この街における実質的な法律、そうした傷害事件は必ず奴の所に届く、大きな目的を果たすためにはここは決して大事にしてはならないのだ!


渾身の握力を以て奴の止めた手首を握り砕こうとしたが、その目論見は次の瞬間挫かれることになる。


——カチッ。


何かの金具の音と共に、男の手に握られていた小さな刃物の刃の部分が射出された。


すんでのところで奇襲を止めていた私にとっては、その不意打ちは恐ろしくも効果的に働いた!


「っ……!」


重要な血管を外れはしたものの、それでも肉に深く深く食い込んで突き刺さる黒い刀身、返しが付いたその鉄塊は冷たく私の脳を鋭く刺激して掻き回す。


痛みによって一瞬生まれた隙、奴は私の拘束から逃れて袖の中から新たな武器を取り出した。


……ドンッ!


音を立てず、周りの目を引かず、なるべく有効な反撃手段を模索した私は肩で体当たりする事を選んだ、距離が近いからこその予備動作無しの一撃。


「ク……」


座った姿勢では踏ん張りが効かない、その状態で加えられる横方向への力に耐える道理は存在しない、ヤツは椅子の上から落ちないようにするので精一杯になり、とても追撃を仕掛けては来られなかった。


——今しかない!


私はその場にお金を置いて席を立ち、速やかにこの店からの退店を試みた。


体勢の復帰を果たした襲撃者が、離れ際に刃物を私の足に向け振りぬこうとしたが、咄嗟に椅子の後ろ足を蹴り付けて回転させ可動域から逃れた。


不自然に思われない程度に足早に店を出て、追い付かれる前になるべく離れようと店の階段を降りる。


その過程で足の傷口に無理やり手を突っ込み、そこに刺さっている刃物を強引に抉り出して隅の方に放り投げる。


万が一の時の為にと隠し持っていた紐を巻き付け止血を図る、それらを全て歩きながら行う。


迎えから来る二人とぶつからないように速度を落とし、やや狭い階段で僅かに体を傾けて空きを作り、合間をすり抜けるように通り過ぎる。


まさか初めから見られていたのか!?では私が騎士団の者と居たところを知られているのか!?奴が英雄エルニストの手先という可能性は有り得るか!?


様々な考えが頭の中を埋めつくし渾沌を極める中、私は『背後に脅威が迫っている』事に気が付いた。


そう、まさしく首の裏に——


ガンッ!


柄頭を真上から思い切り叩く。


そうすることで腰に吊るした刀はまるでシーソーのように跳ね上がり、頚椎へと迫り来る何らかの脅威をドンピシャで弾いた。


「なにっ……!?」


私は階段から飛び降りて一気に地上へ到達し、大通りの人混みの中に紛れて歩いた、急な状況の変化に呼吸を慣らせながら前後左右へと警戒網を広げる。


先程背中に感じた害意はだった、すなわちそれが意味することとは……!


ヒュッ……。


すれ違いざまの風切り音。


周囲全てを取り囲むように存在する住民のいずれかから放たれる一撃、私は半歩間合いを外すことでそれを回避しつま先を踏み砕いた。


「いだっ……!」


「だっ、大丈夫ですか!?」


ワラワラと人だかりが生まれる、その過程で通り過ぎていく全ての人間が私にとっては危険となった、誰が敵で何処から仕掛けて来るのかが分からない!


すなわちこれは街中で行われる集団暗殺、人という絶好の隠れ蓑から放たれるは常に不意を突く一撃、私が表立って反撃出来ないことを知る何者かが巧妙に仕組んだ始末術式。


ここは蜘蛛の巣のど真ん中だ!おのれ、何がどうなっているのか……ッ!とにかく生きる事を考えろ!


魔の手は常に、我が喉元に触れている——。

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