邪魅ノ怪 二

 夜になると、かえるの鳴き声が騒がしくなった。あまり情緒のない夏の風物詩も、子どもの頃から聞き慣れているので、わずらわしいとは感じない。

 蛙の集団大音声だいおんじょうに迎えられて浦野家を尋ねたのは、棗藩の右筆役をつとめる左近寺である。

「今日は良い知らせがある」

 と、いつもより真面目な様子で、けれど穏やかに左近寺が言った。

「清之進の釈放が決まった」

 獄につながれ約十年、若い盛りを牢の中で暮らした清之進は、晴れて自由の身となれる。柚と春太郎も、顔をほころばせてよろこんだ。

「じきに藩から正式なお達しがあるだろう」

 いち早く清之進の釈放が認められたことを知った左近寺は、すぐに知らせに来てくれたようだ。

「して、兄上はいつ釈放されるのですか?」

「今年の長月ながつきだ。だが、今年の間はちっきょ居をするようにとの沙汰もでるとのこと……なに、牢に比べれば家の中の方が容易たやすい」

 今度は穏やかさを消して、左近寺が続ける。

「それでな、春太郎……」

「わかっております。来年には兄上に家督を返上します」

「いや……」

 言葉は途切れてしまった。何を言っていいのか、迷っている様子である。

 左近寺は困ったように柚を見た。

「家督を譲ってしまってもよいのか……?」

 柚なら春太郎の本心を知っているのではと、こちらを見ているらしい。しかし柚だって、本当のところは知らないのだ。うつむいて、ごめんなさいという意思を左近寺に向ける。

「譲るも何も、私は一時的に家督を継いでいるに過ぎません」

「だがな、清之進は家督を継ぐつもりはないと言っておる」

「兄上は私に遠慮しているのです。浦野家の当主に相応ふさわしいのは、兄上以外におりません」

「ふむ……まあ、時間はある。二人でもう一度、話し合って決めるんだ」

 清之進と春太郎、二人の行く末を心配する左近寺は、思案しながらあごでた。

 決して口出しはしないが、柚も浦野家のこれからは気になるところである。

 当主の座を譲ると言っている春太郎は、それが本音であったとしても、風史編纂係の仕事を終わりにすることには抵抗を抱いているのかもしれない。とは、柚の感じていることだ。怪異が好きな彼は、生き生きできる仕事を手放すことに、抵抗を感じないはずがない。

 弟は兄に遠慮していて、兄は弟に遠慮している。

 お互いが納得できる形で決着がつくことを、祈るばかりだ。

「ところで、母御は何と言っておるのだ?」

「何も……兄上が帰られることは、藩より正式な沙汰が届きましたら、お伝えするつもりですが……」

「話が難航しなければよいが……」

 柚はまだ一度も、離れて暮らしている春太郎の母と会ったことがない。春太郎が時折手紙のやり取りをしているのと、正月には春太郎の方から会いに行っていたのは知っている。

 弾正より気難しくて、妖怪より恐ろしいとは、春太郎から聞いたことだ。

(一波乱なきゃいいけど……)

 いまだ見ぬ春太郎の実母にして、清之進の継母。左近寺さえもまゆを寄せるその相手と柚が対峙たいじするのは、まだ先の話である。


 清之進帰還の知らせを、一刻も早く弾正に伝えたいと言ったのは、春太郎である。

 師として、教え子を何より案じ続けている弾正を安心させたいという思いをんで、柚は相生村にすっ飛んでいった。

「やっとか……」

 そう呟いた弾正の声には、安堵あんどと自責の念が混じっていた。

「他のご門弟の方たちも、一斉に釈放されるそうです。しばらくは家でじっとしていないとですけど、よかったですね」

 常はいかめしい顔をしている弾正も、よほどうれしいのか、人の好いおじいちゃんの顔になっている。

「清之進なら会っても文句は言うまい。早く会いたいものだ。……儂が口を出すことではないのかもしれんが、浦野家のこれからが気になるのう」

 複雑な事情が絡み合っているだけに、弾正も兄弟の行く末を心配しているようだ。

「何だか兄弟で遠慮しているようです……」

「お互い、主張する性格ではないからな。儂では大した力になれんが、相談ぐらいは乗ってやると二人に伝えといてくれ」

「わかりました」

 浦野家の話が終わると、弾正の隣に座っている葉太がそわそわした。

 彼は十代前半の少年の姿をしているが、実はその正体は、古椿の霊という妖怪である。弾正に正体を明かしてはいないが、二人は相生村で一緒に暮らしていた。

「あのね……」

 葉太は柚を見ながら、口ごもる。幼子のように可愛らしい姿に、弾正が代わって苦笑しながら言った。

「葉太を鬼灯ほおずき祭に連れて行ってはくれぬか?」

「そういえば、そんな季節ですね」

 夏の終わりに、棗藩の城下町では鬼灯祭という名の祭りが開催される。町中が真っ赤な鬼灯であふれ、出店が立ち並ぶにぎやかな祭りだ。

 柚は城下に越してくる前にも、母と祖父に連れられて、毎年祭りに参加していたものだ。

「仕事があれば行けないかもしれませんが、旦那様にお願いしてみます」

 柚がそう答えれば、葉太はやったと声を上げた。


「やだ!私も行く!」

 相生村から帰ったその日に、柚は鬼灯祭に行きたいと春太郎にお願いして、すんなり了承を得ることができたのだが……

「行くなら猫の姿で行け。大勢の人間の中で、妖怪だとばれたらどうするつもりだ」

 夕方になれば人の姿になれる玉緒は、しかし猫耳だけは隠せない。その姿を見とがめられたらと、人の姿で祭りに行くことを反対されていた。

「手拭い巻くから大丈夫だもん」

 以前も姉さん被りをして、猫耳を誤魔化していたことがあった。気を張っていれば大丈夫だと、玉緒は納得しなかった。

 猫の姿のままでは、話すことも、満足に出店の料理も食べられない。楽しさの半減どころではないと、玉緒は訴えた。

「旦那様、私も気をつけてますから」

 柚としても、玉緒と友達として一緒に祭りを楽しみたい。じたばた暴れそうな勢いの玉緒と必死にお願いしてみれば、春太郎は盛大に溜息を吐いた。

「まったく……」

 と言いつつ、許してくれたのであった。

 せっかくなら他の人も誘おうとなって、次の日に柚は宿場町に向かった。

 棗藩の宿場町には、人気のお化け屋敷がある。お化け屋敷で働く伊佐三は、ちょうど休憩時間に入ったところであった。

「俺におりをしろってのか」

 彼は祭りに興味がないのか、柚が誘うとこのような返事をした。

「お守りって、小さい子がいるわけじゃないし……」

「俺から見ればみんなガキだ。ったく、人間と祭りに行きたがる妖怪なんて、変わってやがる」

 人間でも、誰もが祭りに行きたいわけでもなし、妖怪も同じなのかもしれない。残念だが、無理強いはできないので、柚が帰ろうとすると、

「ま、気が向いたら行ってやる」

 という声が聞こえた。

 玉緒が菓子屋の黄梅堂で番頭をしている弥市を誘ったところ、鬼灯祭には黄梅堂も出店を出すことになっていて、彼の当番が終わってから合流するということになった。

(ほんとに妖怪だらけ……でも、楽しい)

 彼らの正体が妖怪だろうと、日常の一部だ。


 重く陰湿な空気が辺りに立ち込める。嫌な気配だ、と自室で一人、仕事に励んでいた春太郎は思った。

 これは妖怪だ。しかも、生易しい妖怪ではない。

 まさか、邪魅か……

 過去に柚をさらい、鎌鼬に大怪我をさせた妖怪が、再び動き出した。

「月尾」

 邪魅の狙いは月尾だ。

 このただならぬ空気、月尾なら気づいているだろうに、姿を現さない。

 もう一度、月尾と呼ぼうとした刹那せつな、気配が吹き飛んだ。

 どこにも、妖怪の気配は感じられなかった。

 ほっと一息吐いてよいのか、慎重に様子を見ると、廊下の向こうから声が聞こえた。柚と玉緒、それに月尾の三人が話しているようだ。

「月尾は清之進様が当主になったらどうするの?」

 普段は何も言わないが、柚は浦野家の事情が気になっていたようだ。主に筒抜けで会話をするほど、彼女は気が利かなかっただろうか。

「そりゃあ主を変える。やっぱり主は俺様に相応しい人じゃねぇとな」

 体が氷のように固まった。

 信じられない。けれど、月尾はそんな風に思っていたのか……

「柚はどうするんだ?」

「清之進様が帰るなら女中を続けてもいいけど、旦那さまがこの家に残るなら、実家に帰ろうかなって。清之進様の方が優しいし」

「私も柚と同じ。柚が一緒なら、この家にいなくてもいいもん」

 柚と玉緒までが、こんなにもあっさり、離れようとしている。

 知らなかった。もう少し、ましに思われていると感じていたのに、ただの自惚うぬぼれだ。これからどんな顔をして会えばいい……?

 気づけば唇を嚙みしめていて、辺りは真っ暗闇に包まれた。

「……るじ…………主……!」

 揺さぶられて、はっと目を覚ました。

 いつの間に寝ていたのか。

「主!」

 月尾が真剣な表情で、必死に呼びかけていた。

「……大丈夫だ。俺は寝ていたのか?」

「いきなり妖気がただよってきたかと思えば、主が倒れ込んだ。何度も呼びかけて、目覚めたのはついさっきだ」

「…………」

 今は妖怪よりも、月尾たちが言っていたことの方が気になる。しかも頭がぐらぐらして、状況をうまく把握できなかった。

「よかった、ちょうど柚が帰ってきた。茶をもらってくる」

 月尾は颯爽さっそうと部屋を後にする。

 帰ってきたということは、柚は家にいなかったことになる。では、先ほどまで話していた柚は、夢だったのだろうか。そうであってほしい。

 柚はすぐに、お茶を持ってきた。

「大丈夫ですか?お医者さん、呼びましょうか?」

「いや、何でもない……」

 柚はまだ心配そうに見ている。いつもの彼女だ。

「玉緒は?」

「弥市さんのところに行っていて、まだ帰ってきてませんけど……」

 ではやはり、先ほどの三人は夢だったのだ。それとも妖怪の仕業か……夢だったとしても、あれは三人の本音だったのではないだろうか……春太郎の疑念は、消えなかった。


 来たる鬼灯祭当日、人々だけではなく、妖怪までもが浮足立っていた。

 祭りは夕方から夜にかけて行われる。葉太は待ちきれないのか、昼頃から浦野家に来ていた。玉緒も浮かれている様子で、二人とも、はじめての祭りに興味津々といった有様だ。

 柚も祭りが好きである。特にあめの屋台を楽しみにしていて、毎年どんな形の飴があるのか、見ているだけでも心躍るのだ。

 だが、柚は心に引っかかることがあって、全力で祭りを楽しむことができそうにない。

 時刻は頃合となった。

「本当に行かないんですか?」

 祭りのために休みを許してくれた主の春太郎と月尾は、祭りに行かないそうだ。

「ああ。人混みは苦手だ」

 月尾は単に興味がないといった感じだが、春太郎の理由は、他にある気がしてならない。

 ここ数日、春太郎に避けられているような態度をとられていた。しかも柚だけではなく、玉緒や月尾との距離もとっているように見える。

 食も細くなっていて、体の調子が悪いのではと心配しても、彼は何ともないと言って、それ以上話を聞こうとしない。だから、そんな彼を放って祭りに行くことに、良心が痛むのだ。

 後ろ髪を引かれる思いで、柚は浦野家を後にした。


 柚たちが去った後、春太郎は一人溜息を吐いた。自分に対しての溜息である。

 あの悪夢を見てから、柚たちのことが信じられなくなっていた。本当は、自分を邪魔だと思っている。本音を隠して、仕方なく一緒にいる。そんな考えが堂々巡りして、よそよそしい態度をとってしまう。

 普段の柚たちは、およそ悪夢のようなことを考えている様子はない。なのに夢は夢だと割り切れる気持ちがなかった。

 妖怪は、人間の弱い心に漬け込むことを、彼は忘れていた。

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