男の子は寅二を見下ろすように立っている。それがただの子どもであれば、驚きなどしない。

 月光が通り抜けている身体は半透明で、輪郭もはっきりせず、ぼやけている。この季節に、陽炎かげろうの見せる幻などではあり得ない。

 柚は、足が地面にいつけられてしまったかのように動けなかった。

 男の子の正体は、怪異である。そして、寅二を襲っているようにも見える。

 目の前の事実が恐ろしくて、何もできない。

 今まで定次を見下ろしていたはずの男の子の顔が、むくりと柚の方を向いた。

(逃げなきゃ……)

 男の子の足は軽やかに、地面をっている。だが、音はしない。

 もう少しで目の前まで来てしまうと思った瞬間、柚の身体は自由を取り戻した。すぐにきびすを返して駆ける。

 男の子とともにただよってきた伽羅の匂いが、金縛りにも似た緊張を解いた。


「これは……」

 一人は地面にうずくまり、一人は気を失って倒れている。

 春太郎はあきれたように、溜息を吐いた。

「起きろ」

 気を失っている男、もとい権助を揺さぶる。彼は目が覚めると、驚きの声とともに起き上がった。

「だ、旦那じゃねぇですか。おどかさないでくださいよ」

「お前が勝手に驚いているだけだろう。それより、柚はどこにいる?」

「あ……」

 権助はあわてて辺りをきょろきょろとした。

「あいつ、幽霊に追いかけられて……早く探さねぇと!」

「柚の元には別の者が向かっている。なるほど、幽霊に迫ってこられて柚は逃げ、お前は気絶したということか」

「少し休んでただけで……って、逃げるな!」

 びくりと肩を震わせて立ち止まったのは、隙を見てこの場から去ろうとしていた、寅二である。

 つかさず権助は、寅二の首根っこをつかんだ。

「旦那、こいつは利助のふりをした偽物ですぜ。しかも……」

「知っている。大方、賭場とばで喜八の庶子のうわさでも聞いて、成り代わる計画を思いついたんだろう。だが、よく賭場に出入りをしていたのに、顔見知りに会えばすぐにばれてしまうとは考えなかったのか……杜撰ずさんな男だ」

 寅二は言葉で認めはしなかったが、春太郎の予想は当たっていた。

 夜な夜な陽岳寺で開かれている賭場に出入りしていた寅二は、そこで、喜八の庶子の存在についての噂を聞いていた。

 そろそろ庶子が、喜八の元に現れるかもしれない。なぜなら、喜八の一人息子は亡くなっていて、庶子が名乗りを上げればすべての財産を手に入れることができるからだ。

 十何年も前にできた、奉公人との子ども。体よく追い払ったようで、庶子とはまったく連絡を取っていないようだ。

 寅二はいけると、思ってしまった。

 それから庶子について調べて、庶子が住んでいるはずの村に行ってみると、すでに城下町の方へ引っ越した後であった。これ幸いと、寅二は自らを利助だと偽り、喜八の前に現れたのだった。

「本物の庶子が名乗りを上げに来たら、どうするつもりだったのだ」

「そんときはそんときだって……」

 寅二は苦い顔をして答えた。

 こんな計画性のなさでは、権助に見破られなくとも、ばれてしまう日は近かったに違いない。真面目に柚とお見合いをしていれば、ましな人生を送れたかもしれないのに……

「こいつは俺が連れて帰ります。柚には会わせたくないんで」

 庄屋の子どもになりきるつもりの寅二には、舞い込んできたお見合い話など、真面目には聞いていなかった。だから、お見合い相手が柚という名前で、まさか幽霊の調査に訪れたのがその人だとは知らなかったのだ。

「千蔵に預けて、しばらくおきゅうをすえてもらえ」

 権助は寅二を引っ張るようにして去って行った。彼らの姿が完全に見えなくなったところで、今まで影の中に徹していた月尾が姿を現す。次いで白猫が、猫耳を生やした人の姿に変じた。

「こら!何で柚についてないんだ」

 玉緒はこつんと、月尾にこぶしを落とされる。

「痛い……!暴力反対!」

 柚が幽霊に追われているとき、玉緒は急いで春太郎の元へと向かった。

 実は寅二が利助のふりをしていたこと、突如として幽霊が現れたことを玉緒が説明したので、春太郎は事情を把握はあくすることができたのである。

 柚の元を離れたのは、何も柚を見捨てたわけではないと玉緒は言う。

「だって大丈夫なんだもん。あの男の子は、幽霊でも妖怪でもないから」

 妖怪になったばかりの頃は、人の姿に変じた妖怪を識別することはできなかったが、最近ではわかるようになっていた。しかし、寅二を見下ろし、柚を追いかけた男の子は、幽霊でも妖怪でもない。悪意も何も、感情すらなかった。

「やはりそうか」

 腑に落ちた春太郎が説明する。

「庄屋に出現する千代松の正体は、返魂香だ」

 春太郎は君香村に来るにあたり、過去に起きた君香村の怪異についてがまとめられている浦野家の資料を持ってきていた。村に来る前に軽く目を通していて、その資料の中に、死者がよみがえる事件というのがあったのを思い出し、陽岳寺を出た春太郎は、滝の家でひたすら資料と向き合っていた。

 死者が蘇る事件の真相は、陽岳寺に代々伝わる返魂香が見せる幻だったのである。今回の事件も同じだと踏んだのだ。

 誰にでも見える幻であれば、目撃例が多いのもうなずける。

「でも、柚が返魂香を使っても、何も起きなかったよ」

 返魂香は会いたい人を念じれば、その人の姿を映し出してくれるとは、西安の言ったことである。だが、亡き父に会いたいと柚が念じても、ただの香炉こうろがあるだけだった。

「……どうせ他事でも考えていたのだろう」

 夕方、ある人物が滝の家を尋ねていた。春太郎はその人から衝撃の事実を聞いていて、柚が返魂香を使えなかった理由を知る。事実は誰にも他言しないでくれ、特に柚には絶対にと口止めされているので、あえて心にもないことをつぶやいた。


 しばらく走って振り返ると、男の子はいない。しかしすぐに、どこからともなくまた現れて、追いかけてくる。そのり返しであった。

 恐怖から目的地を定めずに、無我夢中で走ってしまった。滝の家に向かえばよかったと後悔したときには、自分がどこにいるのかもわからなくなっていた。玉緒がいれば心強かったのにはぐれている。

 早く、誰か来て……

 足はもう悲鳴を上げていて、男の子に追いつかれてしまいそうだ。

 泣きそうだった。地面に崩れ落ちた柚は、幽霊が迫るのを覚悟できないでいる。

「柚!」

 名前を呼ばれて、反射的に顔を上げると、今まさに体を抱き起してくれる定次の姿が見えた。

「お……」

 父親だと認めてなかった柚が、おとっつあんと言いそうになった。最後まで言い切れなかったのは、定次に対する反発からではない。息が整っていないので、自然に言葉が切れたのだ。

「幽霊が……追って……」

「大丈夫。もういないよ」

 頬に涙が伝っているのに気づいたら、一気にあふれ出した。定次は黙ってなぐさめてくれる。嫌だとか、そんな感情はない。あるのは、そこはかとない安堵あんどだ。

 泣いているうちに、ふと、迷子になった幼子が親を見つけたときは、こうして泣くのだと思った。

 父親がどんな存在かを知らないまま育った。だから、定次がしてくれていることが父親らしいことだとはわからない。きっとそうなのだろうと思うことしかできないのだ。

「この前はごめんなさい」

「え?」

ひどいこと言っちゃったから……」

 寅二にお見合いをすっぽかされ、悪態をついてしまったことが、ずっと心に引っかかっていた。定次が嫌いだから言ってしまったのではない。ただ、みじめさを当たっただけだ。

「いいよ。よく調べなかった俺が悪いんだ」

 もっと早くに素直になれていれば、定次と普通に話せたのだと思う。でも、今日のようなきっかけがなかった。

 寅二の仕打ちをもうよしとしているように、定次とのわだかまりが消えていった。

 ここからなら滝の家に行くより寺が近いから、いったん逃げようと定次が提案する。春太郎はまだ滝の家にいると思っていたので、怪異がらみとなれば寺を連想したのだろう。

 冷静になると、今いる場所が寺へ続く坂道のはじまりであることを理解した。定次に従って、今日は二回目となる陽岳寺は西安を尋ねた。

 すべて見通していそうな西安も、二人の来訪は想定外という反応をした。が、二人をこころよく受け入れ庫裏に案内する。

「ご安心なさい。あなたが見たのは幽霊ではありません。返魂香の幻です」

 千代松が幽霊ではなく返魂香の幻だということは、つまり、西安は幻だと知っていて隠していたということだ。どうしてと問われる前に、西安は続ける。

「返魂香は亡き人の姿を映します。けれどそれはただの幻であって、魂を呼び寄せる……いわゆる幽霊ではないのです」

「千代松くんの幻は、喜八さんが返魂香を使ったからなんですか?」

 返魂香がどういうものなのかを喜八が知っていて使ったのなら、千代松のが出ると相談はしなかっただろうと、柚は言った後で思い至った。

「正確には、喜八さんは返魂香の意味を知らずに使ったのです。いえ、使ったという認識もないでしょう。先日、千代松さんの法要があったのですが、そのときに返魂香を焚いたのです。喜八さんはただの香炉だと思って気にも留めなかった。ですが、亡き千代松さんをしのぶ心が、返魂香に反応したのです」

 会いたいという叶わない願いが、返魂香の幻を作った。しかも西安が故意に仕掛けたことによってである。

 その理由は……

「私がなぜこのようなことをしたのか。正直に申しますと、好奇心です」

「…………」

 何かのくわだてや思惑があっての行動だと予想していた柚は、面食らう。

「返魂香は代々陽岳寺に伝わる代物です。しかし、死者の姿を映す特殊な香炉を無闇に使ってはならないといういましめもありましてね……ずっと、本当に死者の姿が現れるのか、試してみたかったんですよ」

 やっぱり変わった坊主だと言いたくなるのをこらえる。

「私には会いたい死者はおりませんし、喜八さんで試したというわけです」

 そして返魂香は本物だと証明した。

 千代松の幻は、じきに消滅するという。

「それじゃあ何で旦那様を呼んだんですか?揶揄からかっているなら怒りますよ」

 こっちは幽霊だと思って、さっきまで泣いていたのだ。坊主の気まぐれだったと納得はできない。

「あなたを呼んだのには、きちんとした理由があります」

「旦那様じゃなくて、私に……?」

――実は一度、あなた方にお会いしたいと思っておりましたのです。

 はじめて会ったとき、西安はそう言った。

 なぜあのとき疑問に思わなかったのだろう。あなた方とは、春太郎と柚を指す。風史編纂係を務める侍に興味があるのなら、春太郎だけを指せばよいのだ。柚は風史編纂係ではなく、ただの女中である。

 もし柚に会いたかったと言えば不自然になってしまうから、西安は春太郎も含めて言ったのだ。

「あなたは……」

「まっ……」

 定次は西安が言おうとしていることを察して、止めようとする。が、間に合わなかった。

「喜八さんの、実の子どもですよ」

 柚は目を見開いて、西安を見た。

 瞬時に言葉を飲み込めはしない。とても、冗談を言っているわけではなさそうだ。

「まさか……私、利助なんて名前じゃないし、女の子ですよ」

「利助という名前は、寅二さんが勝手に考えた名前で、本当のお子は女の子だったんです」

「でも、西安さんが調べて……」

「はい。それであなたが本当のお子だとわかったのですよ」

「私のおとっつあんは病気で死んだって、おっかさんが……」

「実の父が喜八さんだとは言いたくなかったのでしょう。あなたのお母様は、喜八さんに捨てられたんですから」

「西安さん……!」

 たまりかねて定次がさえぎった。

「ここまできて、隠すこともないでしょう」

「……本当なの?」

 定次は苦い顔でうつむいた。否定しないということは、真実ということである。

 西安は順を追って、話した。

 突然、喜八の前に自分の子だと名乗る寅二が現れた。身に覚えのあった喜八は、西安に相談した。

 ずっと前に、奉公人といい仲になってその人との間に子どもを作ってしまった。だけど、将来一緒になろうという考えは毛頭なく、喜八は遊びで付き合っていただけだという。子どもができたのを機に、縁を切ったと打ち明ける。

 その子が何という名前で、男か女かさえも知らない。しかし、我が子であるなら、跡継ぎにするかを考える。だから我が子であるという確証が欲しいので、調べてくれないかと喜八にお願いされたのだ。

 喜八の自分勝手さはともかく、西安は言われた通りに調べてみた。そこでわかったのは、寅二は偽物だということ。そして、本物の実子は浦野家に奉公している柚だということである。

「その……どうして喜八さんに嘘を吐いたんですか?」

「喜八さんの気持ちが揺らいだからですよ」

 西安の好奇心から試した返魂香により、亡き千代松の幻が生み出される。千代松の幻を見た喜八は、十何年も前に縁を切った奉公人の子どもに跡を継がせるより、やはり可愛がってきた千代松以外には考えられないと思ってしまった。

「寅二さんが偽物ということは、すぐにばれてしまうと考えておりました。しかし、本当のお子を伝えたとしても、喜八さんはその子を可愛がりはしないのではと、嘘を吐いてしまったのです」

「……もしかして、私が返魂香を使って失敗したのは……」

「実の父は死んでなどいなかったからですよ。返魂香は死者の魂を映し出す……つまり、生きている人間を映し出すことはできず、生身の人間の身体に影響を及ぼしてしまうようですね」

「あ……」

 柚が返魂香を試した夜、喜八は胸が苦しいと言って倒れている。それは、柚が返魂香を使ったためであった。

「生臭坊主め、余計なことを打ち明けたようだな」

「旦那様……」

 ふいに現れたのは春太郎である。めずらしく姿を見せている月尾と、人の姿の玉緒もいた。玉緒は姉さん被りをして、猫耳が見えないようにしている。

「一足遅かったか……」

「旦那様も知ってたんですか……?」

「俺が教えたんだ。柚が君香村の庄屋に調査に行っていると聞いて、旦那様には事情をお話しして、早く帰してもらうように頼んだんだ」

 それが今日のことである。陽岳寺にいる柚の帰りが遅いので、定次が迎えに行ったときに、走り逃げている柚と会ったのであった。

「知らない方がいいこともあるとは思わなかったのか?」

「私は柚さんのためにも、本当のことを打ち明けたのです」

 月尾と玉緒がわざわざ人に見える姿で現れたのは、柚を心配してでもあり、いざというときは西安と事を構えるつもりだからである。

 当の柚は、喜八が本当の父親だと告げられ、複雑な感情の中からどれを表に出せばいいのか、戸惑っていた。

「さあ柚さん、どうします?」

 西安の真摯しんしな顔が、問い詰める。

「あなたはまごうことなき喜八さんの子どもです。今のままの生活を続けるのであれば、私は喜八さんに真実を告げません。しかし、喜八さんに名乗り出たいというのであれば、私があなたの保証をしてあげましょう」

 突きつけられた二択に、柚は自分でも意外なほど悩まなかった。

 思い出すのは、寅二が偽物と知って安堵した喜八の顔である。

 いくら顔が似ていないといえども、看病もしてくれた人を我が子だと気づかなかった父は、亡き息子だけを可愛がっている。けれど、実の子だと名乗りを上げれば、裕福な暮らしができる。愛されなくても、父親がいないと思えば慣れたものだ。だから……

「喜八さんは私のおとっつあんじゃありません。私のおとっつぁんは、この人です」

「……柚」

 血のつながりは証明されてしまったが、心底喜八を父だとは思えない。赤の他人という言葉が相応ふさわしい気がする。

 西安がほっと優しい笑みを向けたので、柚も笑顔になる。

「はじめておとっつあんって呼んでくれたな」

 定次は涙目で、そう言った。


「ねぇ、何で難しい顔してるの?」

 陽岳寺からの帰り道、玉緒がこそりと春太郎に聞いた。

「お前は暢気のんきでいいよな。柚は定次との蟠りが解けただろ」

 代わりに答えたのは、月尾である。

「いいことじゃない」

「ああ、いいことだ。だけど、柚は定次のことが嫌で家を出たんだろ?蟠りがなければ、家を出る理由もなくなったじゃねぇか」

「あ……」

 柚が浦野家に奉公したのは、お金に困っていたからではなく、定次と一緒に暮らしたくなかったからである。定次との関係が良好になれば、その必要がない、つまり、女中をする意味がないのだ。

 春太郎たちよりも後ろを歩いてる柚と定次は、月明かりに照らされながら話していた。

「お願い、まだ女中はやりたいの」

 とたんにわかりやすく定次がかなしい顔をしたので、柚は慌てて言った。

「おとっつあんがどうとかじゃなくて、今ね、すごく楽しいんだ。今日みたいに怖いこともあるけど、大事な友達もいるし。おっかさんには悪いけど……」

 奉公をして苦い思い出のある小松からすれば、柚を女中奉公に出すことは嫌なはずである。

「柚が続けたいなら続ければいい。小松にはちゃんと大丈夫だって言っておくよ」

「やった!」

 春太郎たちが安心するのは、少し先の話である。


 数日後、夫婦はこんな会話をした。

「でも私は心配だよ。あの方は悪い人じゃなさそうだけど、二人しかいないっていうのはねぇ……」

 あの方とは春太郎のことであり、主と女中の二人きりの環境下を、月尾と玉緒の存在を知らないこともあって、小松はずっと心配していた。

「柚が言ってたんだ。旦那様は人間の女性より、幽霊の方が好みだって」

「まあ」

 夫婦が笑い合っていることを、春太郎は知らない。

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