透明人間

みしま なつ

透明人間【1/1】

その街へ、旅人がひとり、やってきました。

街の真ん中に通った大きな道の両側には、

小さな店がぽつり、ぽつりと並んでいます。

あまり栄えている様子ではありません。


旅人は店のひとつに立ち寄って、

「そこの黄色の果物をひとつ」

いい香りのする果物を指差しました。

店の主人は値を言います。

旅人は頷いて、背負った袋の中から、

お金が入った小さな袋を取り出しました。

傾けると、金銀のお金は手の上へするりと滑り出しました。

店の主人がそれを受け取って、旅人に果物を渡します。

ありがとう、と旅人が受け取った瞬間、

ひゅっ、と風が、吹きました。

そして、今受け取ったばかりの果物は、

もう、旅人の手の上にはありません。

旅人は驚いて足元を見ました。

落してしまったのかと思ったのです。

けれど、果物は転がってなどいません。

店の主人を見ると、主人は笑いながら、宙を指差しました。


奇妙なことが、起こっていました。

果物が、主人の指の向こう、宙に、浮いているのです。

それだけでなく、果物はまるで誰かに食べられているかのように、

一口一口、減っていきます。

旅人が口をあんぐり開けてそれを見ていると、

後ろで店の主人が大きな声で笑い出しました。

「あんたは運が悪かったね。

 バルが腹を空かせている時に買い物しちゃあ、持っていかれるよ」

愉快そうに笑う主人に、旅人は怒って振り返ります。

折角買った果物が、奇妙なことで無くなってしまったのですから。

そして店主はこの不思議を、当たり前のように笑うのです。

怒りに燃えた目で、旅人は主人を睨みつけます。

「どういうことなんだ?」

主人に詰め寄ると、不意に、声がしました。

「どういうことも何も、こういうこと、さ!」

声がしたかと思ったら、

旅人は後ろから足を払われて、ひっくり返っていました。

後ろに倒れたものだから、頭を強く打って。

「こらバル、危ないだろう!」

店の主人は宙に向かって言うと、倒れてしまった旅人に駆け寄ります。

「こういう怒りっぽいやつには、これくらいでいいんだよ。

 それじゃ、旅人さん、ごちそうさま」

旅人が何とか体を起こしたとき、

また声がして、たったったっ、と、

人が走っていく裸足の足音が軽やかに聞こえました。

でも、道には買い物をする街の人がゆっくり品定めしているだけで、

誰一人として急いでいる人の姿はありません。

音だけが、遠ざかっていきます。

「大丈夫かい、あんた。派手に頭を打ったろう」

「一体何だって言うんだ、この街は!」

痛む頭を押さえながら、旅人は顔をしかめました。

倒れて見えた澄んだ青空が、今は小憎たらしく思えます。

主人は苦く笑って手を差し出し、旅人を引き上げました。

「果物の代わりに、教えてあげよう。

 この街にはね、透明人間がいるんだよ」

「・・・透明人間?」

「ほら、さっき果物が浮いていて、

 まるで誰かが食べているように消えていったろう?

 それに、声も、足音も、したはずだ。

 あんたを蹴ったのはね、透明人間さ」

旅人は、じっと主人を見つめました。

からかわれているのだろうかと疑っているのです。

それに気付いた主人は、大らかに笑うだけ。

「信じられなくてもかまわないよ。でも、そうなんだ」

「何とかしようと思わないのか?」

「何とか?どうして」

「悪さを働くんだろう?」

「旅人にはね」

主人は肩を竦めて見せます。

まるで他人事です。

そりゃあ、他人事だろうけどよ、と旅人は心の中で毒づきます。

「・・・・・・こんな状態じゃ、商売できないだろう」

「まあ、たまに困ることもあるが・・・」

言いながら、主人は少し、悲しそうに言います。

「バルはあの通り姿がまったく見えないからね。

 誰にも気付いてもらえないんだ。

 だから音を立てて、物を動かして、そうやって存在を知らせているんだ。

 あいつがうんと幼い声をしていた頃からね。

 そうじゃなきゃ、だあれも、あいつがいるって、気づかないからな。

 なに、たまにやってくる誰かさんはちょいと困ることもあるけれど、

 そんな悪さなら、わしらは気にしないよ」

「・・・理解できないな」

「ああ、それでいいさ。

 理解できるやつだけがこの街に残るんだ。わしらは満足してるよ」

旅人は笑う主人をじっと見詰めて、それから、諦めたように、

ひとつ、大きな溜め息を吐きました。

「・・・・・・・だからといって、買ったものを食われちゃたまらないんだがな」

「ハハハ、じゃあ2個目は安くしとくよ」

「商売上手め」

主人の笑い声が、静かな街によく響きました。

この街のどこかで、ぺたりぺたり、裸足の音が、鳴っています。

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透明人間 みしま なつ @mishima72

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