The First bubble



 ふと跨線橋から視線を落とした先に、轟音を立てながら、千人は乗せているであろう列車が、猛スピードで走り抜けていく。通勤ラッシュは過ぎた時間だけれど、未だ駅に向かって歩く人の波は途切れくこともなく、その入り口にまるで吸い込まれるように続いている。虚ろな目をして俯き加減で、皆一様に小さな板を覗きながら。



 都会と呼ばれるこの街に初めて足を踏み入れた時、人の多さに驚いた。そうして圧倒されていると、すぐに誰かとぶつかった。


「す、スミマセン!」

「……」


 まるで振り返る素振りもなく、ただ会釈だけでその人は足早に過ぎ去っていく。呆気にとられて見送っていると、すぐさま次の人が目の前を塞ぐように現れた。慌てて体を躱し避け続けていると、気づいた時には壁の際まで追いやられていたのを思い出す。



 ――懐かしいのか、情けないのか。思わず溢れた笑みに、そんな疑問がふと湧いた。



 空を見上げると、真っ黒な闇が広がっている。今夜は雲など出ていないのに、星は一つも見当たらない。


 ……いや、周りの明るさのせいで、ただ見えていないだけか。


 遠く中天には欠けた穴が見え、ぼんやりとしたそれが月だと気が付いた。



 代行会社に連絡をしたのは3ヶ月前。手続きはすんなりと進み、幾つかの書類を出しただけで、5年間、毎日死にたくなる思いだけをし続けた会社とは縁が切れた。先月届いた離職票には、関係書類が同封されていただけで、それ以外には何も入っていなかった。あの日から着信音に怯えることも無くなり、心の負担は軽減されたが、同時にポッカリ穴が空いたような空虚な気持ちも何故かある。怒りではなく、憤りでもない。哀しさや虚しさ、それら全部が混然となり、全てを諦めた末での呆気ない終焉。始まりは既に忘れた。余りに些細な事だと思うから……。いや、そうして蓋をしてきただけだろう。そう思わなければ、心が壊れてしまっただろうから。……いや、壊れたからこそ忘れたのか……。


 あぁ、もう良い、良いんだ。今更蒸し返した所で何の益もない事なのだから……。



 家具や家電は全て引き取ってもらった。


 もう全て必要は無いものばかりだから。



 ――この街で手に入れたものは全て手放した、後はこの身一つと……。




 ポケットに突っ込んだスマホが鳴る。電話の呼び出しではなく、アプリの着信音。画面に映し出された相手は母。



「はい……。うん、もうすぐ駅だよ……うん。大丈夫、夜行バスだから、ちゃんと寝るって。うん、うん――」


 心配した声が小さな板の向こうから伝わってくる。もう、30に近い自分に対して……。ずっと空いていた穴に注がれていくように、いつの間にか溢れた涙が止まらない。電話口の向こうで声がするたびにいくらでも溢れてくる。



 ありがとう、ありがとう母さん。



 ――母さん、ごめんね。次こそ……次こそは上手くやるから。

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生宣り ~いのり~ トム @tompsun50

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