九日目


「昨晩遅く、ケデズが死んだ」


 日が昇るよりも先に、水槽に接した階段の上に現れたアシュタロトは、水面を見下ろして、一言だけ告げた。


「そう……」


 水面を仰向けになったまま漂っていたユウティアは、ただ頷く。その寝起きのようなぼんやりとした顔を見ても、アシュタロトには彼女が喜んでいるのか、悲しんでいるのかは、判断付かなかった。


「あなたは、ご主人様の最期に立ち会ったの?」

「いや、直接顔を見たのは三日前だった。死んだことは、彼の部屋の周りが騒がしくなったのを見て、察した」

「……」


 そう言えば、彼と最後に話した翌日から、従者たちのユウティアへの世話がおざなりになっていたなと、アシュタロトは思い返す。こちらを敬遠しつつも、ケデズの命令を守り、食事と着替えの用意、水槽の掃除も行ってくれた彼らだが、それがぱったりと途絶えてしまった。

 仕方がないので、アシュタロトが誰もいない台所に侵入して、ユウティアが食べられそうなものを見繕った。料理が出来ないため、パン以外は生の魚や貝を持ってくるしかなかったのだが、ユウティアは「こっちのほうがおいしい」と、貝の殻や魚の骨を噛み砕いていた。


「……あたしね、ご主人様のこと、とても可哀想だと感じていたの」


 ユウティアは自分の頭を中心に、仰向けのまま、ぐるぐると回る。いつかと同じ、深紅のドレスが金魚のひれのように波打っていた。


「自分の家族のことを愛せない辛さは、あたしにも分かるから……」


 黙って頷いたアシュタロトは、時折強風でガタガタ揺れる、立て付けの悪い窓を振り返る。埃で汚れた硝子の外は、未だ一切の光を見せない闇のままだった。


「我々が出会ったのも、こんな風の強い夜だったな」

「何だか懐かしいね。まだ、十日も経っていないのに」


 くすりとユウティアは笑った。そんな彼女に、アシュタロトは静かに目を向ける。


「屋敷の者たちが、聖職者を呼ぼうと話しているのを耳にした。ケデズの葬式のためだろうが、私の身も危うくなるため、先に逃げようと思う」

「うん。そうした方がいいよ」

「ユウティアはどうする?」


 尋ねられたが、彼女は押し黙った。考えをまとめるかのように、まだ回転を続けている。


「本当は、このまま死んじゃってもいいかなって、思っていたけど……」


 ユウティアの呟きに、アシュタロトが反論しようとしたが、それよりも先に、下半身で力強く水面を叩いた。その勢い任せて起き上がると、真っ直ぐな背筋と目線で、瞬きを繰り返すアシュタロトを見据えた。


「一つ、お願いがあるの」






   ☆






 水平線の真上まで、太陽が完全に登り切るのを、ユウティアは黙って眺めていた。

 日光が全てを照らし、頭上は澄んだ水色に、真っ暗だった海は黄金色に輝きながら、波立っている。色も音も、一度も停滞せずに変化し続ける景色を、ユウティアは初めて見た。


「すごい……」


 溜息交じりに呟いて、代わりに嗅いだことのない潮の匂いを胸いっぱいに吸い込む。半分浸かった腰の周りに、戯れるように波が触れているのが、こそばゆい。


「あたし、世界の半分も知らなかったんだ……」


 しみじみと感じ入っていたユウティアだが、すぐに弾けるような笑顔で、後ろを振り返った。いつもなら腰に当たる長い髪の感触がないのと、剥き出しのえらに潮風が吹くのが、まだ少しの違和感として残っていた。


「海に連れてきてくれて、ありがとう」

「何。そういう契約だったからな」


 ユウティアを見下ろして、岩場に杖をついた状態で立ったアシュタロトは淡々と答える。彼の言う通り、ユウティアは自分の耳たぶまでの髪の毛を代償に、アシュタロトと海まで一瞬で移動するという契約を結んだ。

 ただ、事実を告げる彼の顔は、少し照れているのが、ユウティアには分かっていた。


「でも、文字の読めないあたしにも、全部正直に話してくれたじゃない」

「それは、契約の際は、悪魔も対象も、嘘をついてはいけないだけだ」

「そうだったとしても、嬉しいの。あなただけは、あたしのことを最初から最後まで、人間として扱ってくれたから」

「うむ……」


 流石に耐えきれなくなったのか、アシュタロトは真横を向いて咳払いをした。頬が僅かに赤くなっているのを見て、ユウティアの顔が緩んだ。

 「ねえ」と呼びかけて、振り返ったアシュタロトへ、ユウティアは右手を差し出した。今度は、屈んだアシュタロトがその手を握った。


「あなたと友達になれて、本当に良かった」

「私もだ」


 その時、アシュタロトが初めて微笑んだ。見間違いかと思えるほど、穏やかな顔で。

 それを見て、ユウティアは、一瞬この別れが惜しくなったが、自ら手を放し、岩場を蹴る。上半身は海面に出したまま、ゆっくりと海岸を離れていく。


「さよなら! お元気で!」

「君も。鮫やしゃちには気を付けたまえ!」


 二人は互いの距離は遠くなっていっても、目を離さずに、ずっと手を振り合っていた。小さくなるアシュタロトを見ていても、ずっと笑顔だったユウティアは、不意に泣き出しそうになり、そのまま海の中へ潜った。

 アシュタロトは、ユウティアの青い鱗と鰭が海の中へと引っ込むのを見ていたが、まだしばらく動かなかった。しかし、そのままユウティアが浮上してこないのを認め、その場から立ち去った。


 ……誰もいなくなった海面に、深紅のドレスだけが浮かび上がり、波間を漂い続けていた。




























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嗚呼、水中の君よ 夢月七海 @yumetuki-773

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