第五話 異変

ちょっとしたトラブルこそあったものの、何事もなく1日は終わった。

「あのぶつかってきたやつ…なんて名前だったっけ。まあいっか」

確かクラスメイトだったはずだが、雪穂は名前が思い出せなかった。

よく風子にも「雪穂ってほんとクラスの子に興味ないよね~」なんて言われたが、実際に興味関心がないのだからどちらでも良かった。

正直、どうでもいいのだ。たまたま集められただけの数十人の顔と名前を全て覚えることに、雪穂は全くと言っていいほど必要性を感じなかった。


「にしても、マジであれほんと何だったんだろうね……」

安心していると、急に眠気が襲ってくる。つい何度も寝てしまいそうになるので、何とか目を覚まそうと何度か自分で頬を叩いた。

結局、あの夜のことに起きたことはただの悪夢か何かだったのだろうか。

いや、朝に襲われた苦痛が、それが現実であることを強く物語っている。

この後も何もなければいいと、雪穂は願いながら家に帰ることになった。


翌日、驚くほどに雪穂は深々と寝てしまい、久々にすっきりと目が覚める。

このペンダント、安眠効果でもあるのか?と、雪穂は胸元に掲げたペンダントに目をやった。

「それにしても不思議なペンダントだな……」

雪穂は元々寝つきがそこまで良い方ではない。特に最近は色々とストレスもあったことで、元々良くない寝つきが更に悪化していた。

しかしそれが、このペンダントをかけているだけで驚くほどによく眠れたのだ。

正直少し怖いほどに眠れてしまったことに不安を覚えながらも、雪穂は学校へ行く準備をする。


「おはよー雪穂さんや、今日はなんか元気そうだねー?」

教室に入って開口一番、風子が雪穂に向けてそんなことを言ってきた。

「元気そう?っていうか、昨日はよく眠れたんだよ。だからそれでそういう風に見えたかも」

彼女自身は、元気というよりむしろあまりの寝つきの良さに不気味さすら覚えたくらいだったのだが……風子がそう言うということは、むしろ普段がよほど元気のない顔をしていたのだろう。

「いつもと違って顔色も良いし。なんかそういう薬でも飲んだ?」

「いや別に。っていうかいつもそんな顔色悪い?」

「いつも寝不足っぽい感じだったし。わたしにはわかるんですよ~?」

風子が軽く小突きながら、軽い調子で言う。相変わらず元気だな……と、雪穂は内心でため息をついた。


雪穂はそこで、教室がなんだか騒がしいことに気づく。

「ところで、なんかトラブルでもあった感じ?風子は何か知らない?」

「あー、うちのクラスのやつが先輩とケンカしたんだって。血の気多い若者はやーね」

「あんたも若者でしょうが。そんなことあるなんて珍しいね?うちの学校ってそんな治安悪かったっけ?」

「全然?少なくともそんなケンカの話なんて聞いたことすらないね」

「だよね」

どこか違和感を覚えながらも、しょせんは対岸の火事。雪穂にとってはどちらでもいいことだ。


自分の席について、1時限目の準備をする。

1限目は現国だ。確か小テストがあるなんてことを言われていた気がするが、雪穂は勉強をするのを忘れていたらしく、いきなり1限目から頭を抱えることになる。

ここ最近のゴタゴタで、ただでさえ勉強する暇なんてなくなっているのだ。

「(もし悪魔退治?とかいうのが頻繁になったら、ますます勉強どころじゃないだろうなぁ……)」

これからどうやって勉強の時間を確保しようか。そもそも悪魔退治というのがどれだけ大変なのか。なんてことをぼんやりと考えていると。


対角にあたる位置にいる眼鏡をかけた男子生徒が、自分の方を睨みつけてきたのが見えた。

どちらかといえば地味な印象で、雪穂自身が名前すら覚えてないような人物が。

最初は、自分以外を睨んできたのがたまたま見えただけなのだと思った。何せ、関わりすらない相手だ。普段なら、そう感じたとしてもただの自意識過剰で済むだろう。

しかし、眼鏡の奥の顔に、どこか見覚えがあったのだ。雪穂は昨日までの自分の記憶を手繰り寄せ、その男子の正体に気づく。

昨日、自販機前でぶつかってきた人物だ。あの時は、ぶつかった衝撃で眼鏡が外れていたのだ。

「(嘘、マジで?まだ恨み持ってんの?あたしなんかそこまで恨まれることした?)」


怖い、というよりは、そこまで執着されることにドン引きした、というのが雪穂自身の最初の感想だ。

しかし、昨日ぶつかられた時も、彼はそんな顔をしていたように思える。

「マジでなんなのあいつ……」

よほどこういう細かいことに執着してしまうタイプの人物なのだろう。やがて教室に現国の先生が入ってくると、睨みつけてくる視線も収まった。雪穂も男子も、教卓の方へと向き直ったのだ。

その後、何事もなく授業は続いた。

結局、気にしすぎていただけなんだろうかと、ほっと胸を撫でおろす。


自分は決して素行が特別悪いわけではないが、他人に恨みを買うようなことはしないように生きていたはずだ。

たとえ退屈だとしても、余計なトラブルにさえ巻き込まれなければそれでいいと、彼女はそう考えていた。

だが、何も自分からぶつかってきたというのに、そこまで強い視線を向けるあいつは何なんだろう。

気付けば、雪穂自身も彼に対し「憎悪」のような感情を滾らせていたが、彼女はそんなことに気づくこともなかった。

やがて、1時限目のチャイムが鳴り、教師が教室を去っていく。


「2限目何だっけ?」

「雪穂覚えてないの~~?2限目は移動教室で化学だったじゃん」

「いや、覚えてないのって、2学期始まってまだ1ヶ月だってのに、そんな簡単に覚えられるわけ……」

「…どったの?やっぱストレス溜まってる?」

少しだけ自分の様子が変だったことに気づき、雪穂は顔を伏せる。

「……ごめん、あたしなぜかわかんないけどちょっとイライラしてた。何かあったとかじゃないんだけどね」

「それならいいけどさ……なんか嫌な事あったら言ってね?私らの仲でしょ?」

「うん…そうだね、うん……」


実のところ、雪穂の心は全く落ち着いてなどいなかった。

先ほども、差し出そうとした風子の手を、叩き落としそうになってしまった。

「(…"アレ"にはもうちょっと早いしな。ほんと、どうしたんだよあたし……)」

頭を抱える。ひとまずしばらくは風子から離れないと、どうにかなってしまいそうだ。

「ごめん風子。今日はちょっと一人にしてくれないかな」

「……?珍しいね。別にいいよ。好きにしな」

そのままそっと、風子の顔から目線を逸らす。カバンから教科書を出して、授業へと気持ちを切り替えようと、机の上にそっと置いた。


その瞬間、突如。

「…皆皆皆僕を馬鹿にしやがってええええええええ!!!!!」

黒板を爪で引っかいたような不愉快な叫び声が、教室上に響き渡った。

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