第三話 退屈な日常

何事もなかったかのように、その後は家に帰された。

家に着いた時はもう既に夜中の1時。

勿論というべきか母親には大いに叱られてしまったが、とりあえず家に帰れた安堵感でその説教も左から右に流れて行ってしまった。

「あんた聞いてるの!?」

「はいはい聞いてまーす」

「まったく…いくら日本は安全だからってね、それでも全く危険がないってわけじゃないのよ。わかったらとっとと着替えなさい、あと外出る時はちゃんとお母さんにメールでも電話でもいいから連絡入れる事、いいわね!?」

「…わかったってば」


「…あと雪穂、そのペンダント、何?」

「ああ…これね、友達に譲ってもらった…んだよ……」

「あら、そう…?えらく高そうだけど…」

あからさまな嘘に、母は少し要領を得ないといった様子だったが、これ以上追求するつもりもなかったのか、これ以上は何も聞かなかった。

「でも貰ったなら大切にしなさいね。あんたすぐ物なくすんだから」

「最近はなくしてないでしょ!?」

「だからこそ気をつけなさいって言ってるの、そういう油断した時の方が危ないんだから!」

「あーはいはいわかったわかった!!」

そのまま雪穂は踵を返して、自室へと戻ろうとする。


「ちょっと待ちなさい!」

「何!?」

「カバン、忘れてるわよ」

「……ありがと」

渡されたカバンを受け取って、今度こそ雪穂は部屋へと戻っていった。


姿見で自分の姿を確認してみると、

「……消えてる」

いつの間にか、頬の傷は痕跡すらなくなくなっていた。触ってみても、とてもじゃないが先ほどまで傷が出来ていたとは思えない。

痛みもない。まるで、頬の傷も、尊や伊織たちとの出会いも、一夜の夢の出来事であるかのように、雪穂には感じられた。

だが、黒崎と名乗る謎の男から受け取ったペンダントだけが、さっきまでの出来事が現実であったと物語っているように、首元で光っていた。


「何はともあれ、無事に帰れて良かったな……」

改めて、雪穂は自分がこの家に帰ってこれたことに安堵する。それと同時に、あの死にそうな程の痛みが、再び響くように思い出される。

全身を鋭い針で、それも外側からじゃなく内側からずっと刺され続けるような、あるいは熱した鉄板の上で、全身を焼かれ続けるような痛み。

雪穂の中であの苦しみが、まるでつい数分前のことように思い出される。

そして、何故だかそれが彼女は、とてつもなく腹立たしいことのように思えてきた。

「なんで、ただ学校から帰ってきた後なのにこんなことになんのよ…」


雪穂は今まで、自分の日常をただただ退屈なものだと捉えていた。

ただ、その退屈はそれが崩れ去りそうになった今、むしろありがたく感じてしまっている。

けれど、またそれも単なる『退屈』へと戻るだろう。

しかし彼女は、それも悪くないと思った。

多少穏やかで退屈なくらいの方が、死にそうになるよりずっといいだろう、と。

そのまま、普段よりもだいぶ短い時間ではあるものの、穏やかに眠りについた。


雪穂は夢を見る。

それは、自分が何かを貪り食っているような夢。

普段なら、そんな光景、単なる作り物のホラー映画か何かでしか見ないような、むしろくだらないものだと捉えるだろう。

ただ、今は違った。そして、その夢を見ている自分が、何故か凄まじく高揚した気分でいたのだ。

愉しい。もだえ苦しむ何かの姿を見ているのが、とてつもなく愉しい。

そして、自分が貪っていたそれの正体を見る。

それは、千切られた人間の腕だった。


「………」

目に映っていたのは、見慣れた自分の家の天井。

いつも通りの景色が目に映ったことに安堵しつつも、不愉快すぎる夢の内容に雪穂はいら立ちを覚えていた。

「…気持ち悪すぎ」

朝ごはんでも食べて振り切ろうかと考えたが、こんなものを見た後では食べる気にもならない。


何はともあれ顔でも洗うかと部屋を出ようとした時、不意に夢の中で起きていた出来事がフラッシュバックする。

また、何かを…人の身体を貪り食うおぞましい光景が、雪穂の脳内へと何度も現れる。

振り切ろうとしても、より強く頭の中に残ってしまう気がして、雪穂はドアノブに手をかけて部屋を出るというような簡単な動作すら、出来ないでいた。


「ああああああああああああああ……!!!」

そして、彼女を激しい頭痛が襲い始める。

頭を凄まじい力で絞めつけるような痛みに、雪穂は悶え苦しみ、膝をつき、そのまま立ち止まる。

「はぁっ、はぁっ……マジ、で……何、なのよ……!」

息も絶え絶えになりながら一人呟いても、何が起こるというわけでもなく、むしろ頭痛はより激しさを増していく。

少しでも意識を保とうと踏ん張っていないと、意識を失いそうな程の痛みの中、雪穂はあるものを発見する。


それは、枕元に置いていたペンダントだ。

あの謎の男から受け取った、悪魔の影響を遠ざけると言われている代物。

「……っ、あれ、外したから、こうなってんの……!?」

自分でも忘れていたから、おそらく無意識に外して眠っていたのだろう。

雪穂には、まるでそれが砂漠の中の一杯の水のように見えた。

一心不乱にペンダントへと近寄り、それを首にかける。

痛みがあまりにも激しく身体を動かすだけでも精一杯だったので、たったそれだけの動作であったのに、5分以上。雪穂の体感では10分以上もの時間がかかってしまった。


「…………これ、つけたら、収まる……?」

半信半疑だったが、やがて頭痛もフラッシュバックも収まっていく。ペンダントの効果は、かなり絶大なものだったらしい。

「…今度からつけて寝よう」


そう決意して、雪穂はようやく部屋を出てリビングへと向かった。

「おはよう、あら雪穂。ちょっと顔色悪くない?大丈夫?」

「あー、あんまり寝てなかったからかも。昨日帰り遅かったし」

「何だったら学校休んでもいいのよ。1日くらい休んだってどうってことないわよ」

「いや、実は今日数学の小テストあんの。だから今日休むのはちょっとね」

実際のところ、雪穂にとって数学の小テストなんてものはどうでも良かった。

ただ、母親の前で言うのは少し気まずかったのだが、風子に会いたいというのが、どちらかといえば彼女の本音だったのだ。


あの調子の外れたハイトーンな声が、今の雪穂にとってはおそらく一番安心するものなのだろうなと、彼女自身がそう、無意識に思っているのだった。

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