天明六年 秋 八重姫様御別離

第1話 暇乞い

 そしてまた一年あまりが過ぎた。八重やえ金弥きんやはどういう訳かいまだに夫婦として過ごしている。


 意次おきつぐの失脚がいよいよ明らかになった時までその手札を温存するのが父の考えだというのが理由のひとつ。そして今ひとつは、分家の雪乃ゆきのが目を離せる状態ではないということだった。八重たちとおなじく、吉太郎きちたろうたちも元の伴侶と別れる心構えをしている最中なのだ。雪乃については、聞き分けさせるというよりも、狂乱の岸に流れてしまった心を呼び戻すというほうが正しいのだろうが。とにかく、彼女は束の間でも夫を繋ぎ止めるのには成功したのかもしれない。


 だが、時は流れるもの、いつまでもひとつところには留まらぬのだ。


      * * *


「義父上様──」


 庭の木々が紅葉に染まる中、神田橋かんだばし田沼たぬま邸を訪ねた八重は、夫と並んで義父意次に深々と頭を下げた。


「この次はいつお会いできるか分かりませぬ。大変心苦しくは存じますが、せめて、こうしてお顔を拝見できる時に、お別れを申し上げたいと存じまする」


 意次が注力していた印旛沼いんばぬまの干拓事業は、先の豪雨により中断された。この数年の飢饉と同じく、人の力の及ばぬ天災ではある。だが、世の者はこれもまた意次の専横や増長への罰だとそしるのだ。意次は蝦夷えぞ開拓にも人手を送っているが、それもまた無駄な事業と噂されているとか。意次を責める世間と幕臣からの声は、いよいよ大きくなってきている。


 何よりも、八月に入ってから不調と伝えられる将軍家治いえはる公への見舞いを、意次は許されなかった。一橋ひとつばし治斉はるさだを始めとする御三家ごさんけ御三卿ごさんきょうの歴々が、立ち塞がって通さなかったのだという。これまで意次を信頼し重用してきた家治公にはあり得ないこと、それが意味するのは──


(上様は、もう……)


 家治公が身罷った後は、家斉公が将軍位に就く。あの御方自身は田沼家への配慮を約束してくださったとしても、父君一橋卿の意向にはまだ逆らえない。まして、一大名にすぎぬ父は政変を泳ぎ切るだけで精いっぱい。ほかの幕臣たちの手前、ほかならぬ父が意次に辞職を勧めることになったと、八重は既に告げられている。当面は老中職から退くだけだとしても、さらにその後、意次を憎む定信公がどれほどの処罰──一連の失政と壟断に対しての、とかの御方は主張するのだろう──を下すか分からない。


「上様のご快癒を、心から願っております。きっと、また──」


 義理の父の失脚を間近に予感しながら。家治公への目通りなど二度と叶わぬことを承知しながら。気休めにもならないと承知の上でも慰めを口にしてしまう愚かしさに、八重の舌は鈍る。だが、意次は穏やかに笑い、平伏した姿勢からでも見える指先の動きで、八重に頭を上げるように促した。


「八重殿のご気性では思ってもないことを言うのは辛かろう。無理をせずとも良いのだよ」


 屋敷にいながら主君への弔意を表そうというのだろう、意次は喪を表す白を纏っている。真っ直ぐに対峙すると、新雪のようなその色も、すべてを受け入れた潔さも眩しくてならない。今度こそ言葉を喪う八重に、意次は笑みを深めた。


「最期にお傍に侍ることが叶わなかったのは不忠ではあるが。だが、上様のご意思ではないのだと、信じられる。だから……良いのだ。それも貴女のお陰だが」

「……恐れ入ります」

「刀折れ矢尽きた、というところだろうな。だが、あの時降伏しなくて良かった」


 昨年の、家斉公を巻き込んでの一幕を指してのことだ。そもそもが出過ぎた真似でもあり、意図していなかったとはいえ将軍世子や、畏れ多くも将軍への直々のねだりごとになってしまった。思い返すだけでも顔が火が付いたように火照り、同時に冷や汗が背を濡らす。だが──意次の救いになったなら良かった、のだろうか。


 八重と同じく、昨年の一連の出来事を思い出したのだろう。意次はどこか遠くを見る眼差しをして、笑みを深めた。


水野みずの吉太郎殿──あの折、会ったきりになってしまったな。ゆっくり語らってみたかったが、今からではご迷惑になるのだろうな」

「妙に恐れを知らぬ男です。世間の噂など気にするな、が口癖のようで。だから、案外喜んで参上するかもしれませぬ」


 口を挟んだ金弥を、意次は興味深そうにしげしげと眺めた。吉太郎は、いわば息子の妻を奪う男なのだ。にもかかわらず意外と親しいのだろうかと訝ったのだろう。


「お前がそこまで言うのならばよほどの人物なのだろうな」

「父上もご自身の目で確かめられた通りの手腕です。上手くやって栄達するのでしょうな。だから──俺が言えることでもないのですが──八重にはかえって似合いの男かと。安心して任せられると、思っております」


 八重が言葉ひとつ見つけられないでいるのを他所に、父と息子は和やかに語る。何も悲しいことではないのだと、互いに確かめようとしているかのようだ。


(何もできない……何も変わらない。それは、分かっているのだが)


 覚悟は、とうに決めたはずなのだ。しかも、思いのほかに長い猶予を味わうことができた。だから八重は未練がましい思いを振り切り、ただ親子の会話に聞き入った。彼女がこのような席にいられるのも、最後かもしれないのだから。


「強がりなのか本心なのか……まあ、聞き出す時間は十分あるか」

「然様でございますな。当分暇を持て余すことになりそうですので」


 水野家の跡取りでなくなれば、金弥は無役となって公儀の勤めもなくなる。その分、田沼家の家中のこと、特に龍助の補佐に専念できるから良い、と。彼はてらいなく笑う。その内心の真実については、離縁する八重に踏み込むことはできないのだが。


「兄に比べると、お前には手をかけてやれなかったかもしれぬ。今になって埋め合わせを……などとは虫の良い話だろうが」


 話の区切りがついたところで、意次はふと溜息を吐いた。亡き長子意正おきまさへの言及に、三人ともが仏間の方角へ目をやった。

 万喜まきの父周防守すおうのかみは、こうなれば躊躇うことなく田沼家との一切の縁を切るだろう。けれどきっと、万喜が意に介することはない。彼女は、これからもずっと此岸の出来事を亡夫の霊前に語り続けるのだろう。龍助が今少し年を重ねれば、髪を下ろしもするのだろう。死によって別たれても添い続ける──八重たちとは違う夫婦の形は、ほんの少しだけ羨ましい。


 しめやかな沈黙を破って、意次が小さく咳払いした。


「八重殿も。出羽守でわのかみ殿とは私も若いころから昵懇じっこんの仲ゆえ、自然と互いの息子と娘を、という話になったのだ。親同士は良くても、当人にとってはどうであったか──しかもこのような結末になって、詫びる言葉もない。今さら尋ねるのもおこがましいが……」


 意次が次の言葉を続けるまでに、またしばらくの間が空いた。長く幕政の中枢を担ったこの方をして、恐れ憚る何かしらがあるかのように。


「貴女は──貴女たちは、幸せだっただろうか」


 けれど、問われたのはごく簡単で当たり前のことだった。諍いや不満や苛立ちは数知れずとも、今、この時になって答えるとしたら。言葉を交わさすまでもなく、目線だけで夫の思いが伝わって来る。合図をするまでもなく、ふたりの声が重なる。


「はい」


 ただ、意次が目を瞠ったのを見ると、急に気恥ずかしくなって──顔が熱くなるのを感じながら、八重は必死に舌を動かした。


大納言だいなごん様がご成人なさるまでのご辛抱です。越中守えっちゅうのかみ様のことは、口うるさいと疎んでおいでのようですもの。吉太郎殿もお傍にお仕えします。ご自身のお考えのもと政を執り行われるようになれば、田沼様も龍助りゅうすけ殿も、いずれ必ず──」


 言い切ることができなかったのは、胸に渦巻く様々な思いが喉を塞いでしまったからだ。田沼家への同情、意次の政敵への憤り。金弥の後に縁づくはずの男に言及することへの後ろめたさ、羞恥心。未来への不安と希望、そういった思いのすべてが。


「……ありがとう。私は人の縁に恵まれたな」


 それでも、言葉にはできずとも、意次には伝わったと思いたかった。わずかに顔を背けて呟いた義父の目に、光るものが見えた気がしたから。

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