第3話 約束

 思わぬ御方の名を囁かれて、八重やえは目を見開いた。孝恭院きょうきょういんは、家治いえはる公の実の子家基いえもと公のこと。先日、意次おきつぐ定信さだのぶ公と引き比べて挙げた名でもある。二十歳にもならぬ若さで亡くなった先の将軍世子は、確かに家斉いえなり公とは縁浅からぬ御方ではあるのだろうが。


「それは──ご不幸とは、存じましたが……」


 家斉公は、父一橋ひとつばし卿が我が子を将軍位にけんがために家基公を謀殺した可能性を示唆している。そうと気付いて、八重は舌を凍らせた。同時に、将軍世子である方の、先の発言の真意をやっと悟る。


(父君のお心を推し量ろうとなさったのはそのためか……)


 家斉公を将軍世子に推したのは、あくまでも我が子の栄達のため。決して野心からではないと、実の父君の言質を得たかったのだ。


 家基公の死に不審な点があったのかどうか──八重は知らないし、滅多なことは口にできない。ただ、一橋卿は陰謀をよくする方とだけは、承知してしまっている。将軍の実父の地位を得るためには、何をしてもおかしくない……のかも、しれない。


 八重の目に宿る不信の色を読み取ってしまったのだろう、家斉公は年に似合わぬ苦い微笑を浮かべて首をぐるりと見渡した。


「上様は何も仰らぬ。声高に言う者も、無論おらぬ。だが、わしの耳にも聞こえてしまう。何しろこの西の丸の、先の主は孝恭院様ゆえな……」


 家斉公が眺めたのは、八重たちがいる一室ではなく江戸城西の丸全体だった。仕える者たちは、庭や調度の類は、家基公のころと今とでどれほど変わっていないのだろう。この御方は、父君が殺したかもしれない御方の存在を間近に感じながら寝起きすることになってしまったのだ。


「そなたは寂しいなどと申したが、そのようなことはない。父上の屋敷は御城の門内で、会おうと思えばいつでも会える。ただ──」


 八重の哀れみを跳ね除けるかのように、家斉公は唇を尖らせ──けれど、すぐに悄然と肩を落とした。


「恐ろしいと思うことは、あった。孝恭院様は儂をお恨みではないかと。悪い夢を見ることもあれば、頭がひどく痛むこともあって……それがやはり、父上の所業の証なのではないかと」

「想像するだに畏れ多く、恐ろしいことでございます。そのようなことは、きっと──」


 いかに取り繕ったつもりでも、八重の声は彼女自身にさえ気休めとしか聞こえなかった。幼い少年すら騙せなくて、家斉公に苦笑を浮かべさせてしまうほど。


「あり得ない、などと言われても信じられるものではなかったのだ。吉太郎きちたろう以外の者が言うことならば」

「あの御方は、何をどのように申し上げたのでしょうか」


(ああ、だから──)


 問いながら、八重が答えに思い至ったのが分かったのだろう。家斉公はにっこりと微笑んだ。嬉しそうに、少し照れ臭そうに。


「儂が預かり知らぬことまで気に病む必要はない、世間の噂など『気にするな』、と。儂の無実は儂が何より知っていて、ならばあえて儂を恨むほど孝恭院様は狭量な御方ではないはずだと──笑い飛ばして、くれたのだ」


 つまり、日本橋でのこともそうだったのだ。八重に説くのと同時に、吉太郎は改めて主君にも言って聞かせていたのだ。それに──あの場の話の流れを思い起こすと、あの言葉は今一度噛み締めなければならぬものだとも、分かる。


(私も、知らぬことについてはとやかく言うことはできぬのだな……)


 噂や印象だけで一橋卿を疑うのは、意知の死を面白おかしく語った者たちと同列に堕ちるということ。自身の不心得を心に戒めながら、八重は今度こそ演技ではなく微笑んだ。


「初めて聞いた時には、正直に申し上げてうそぶくものだと思ったのですが──思いのほかに、的を射ているかもしれませぬな」

「うん。あの者が来てから、心ばかりでなく身体も楽になったのだ。夢も見ないし、頭も軽い……」


 やっと、年相応の笑顔を見せてから──家斉公は、それを恥じるかのようにかしこまった表情を纏った。


「知らぬことについてならば、気にしなくて良いのだと、考えることができるようになった。だが、父上が実際に良からぬことを企んでおられるとなれば、そうも行かぬ。だから、主殿頭の件は儂のためでもあって──そなたに礼を言われる筋合いは本来ないのだ」


 幼君の言葉を受け止めて、それでも八重は畳に手をつき、深々と頭を下げた。家斉公の言い分はよくよく理解したうえで、それでもこうすべきだと考えたのだ。


「それでも御礼を申し上げずにはいられませぬ。もしも、どうしても此度のことではならぬとの仰せならば、せめて吉太郎殿へのご信任への御礼でございます。あの方は──私の、夫になる御方でございますから」


 十分に間をおいてから頭を上げると、家斉公は少しだけ眉を寄せていた。八重の言葉に敬意はあっても情愛はないと、幼い方にも分かってしまったのだろうか。


「まことに相済まぬ。儂は、やはりあの者を傍に置いておきたい。そのためには水野家を継いでもらわねばならぬ」

「元より覚悟のことでございます。ですが、御言葉を聞いて、水野家のみならず大納言だいなごん様の──次の上様の御為と得心いたしました。本日この機会をいただけたこと、まことに嬉しくありがたく存じまする」


 別れが近いことを知りながら今の夫との日々を過ごす心持ちも、それを受け入れるに至った八重の思いも、幼い方には量りかねることなのだろう。家斉公の眉が解けることはなかったが──八重の覚悟は、どうやら分かってくださったようだった。瑞々しい唇が、固い決意を紡ぐため、開かれる。


「儂が将軍になるのがいつかは知れぬが、ともあれ儂は当分父上と越中守えっちゅうのかみに頭が上がらぬ。未熟者ゆえ手綱を取ってやらねばと、越中守は手ぐすね引いているらしい……!」

 越中守こと定信公の人柄は身をもって知っているし、相手が将軍世子だろうと手心を加えないであろうことも想像がつく。だから八重はただ黙って幼君の御言葉を拝聴した。


水野みずのにも田沼たぬまにも、その間苦労をかけるかもしれぬ。だが、決して捨て置くということではない。いずれ必ず取り立てて──いや、儂を助けて欲しい。吉太郎には常々言っているのだが、この際そなたにも伝えたかった。……待っていてくれるか?」


 堂々とした口上が、最後の最後に弱気に揺れるのを聞いて、八重は笑みを堪えるのに苦労した。家斉公の不安は、まったくもって無用のものとしか思えないのに。


「──はい。大納言様の御代に夫ともどもお仕えすることを、楽しみにお待ちしておりまする」


 真摯な約束に真摯な期待で答えるべく、八重は深く頷くと未来の将軍の前に頭を垂れた。

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