第2話 最後の夜

 意次おきつぐが老中職を辞したのが八月末。そしてしばらく後の九月五日、水野みずの家上屋敷に呼び出された八重やえ金弥きんやは、目の下に隈を作った父に迎えられた。用件は、父のやつれた顔を見ればおのずと知れる。


「上様が薨去こうきょされた。公知はまだだが。御三家ごさんけ御三卿ごさんきょうの方々は、上様のご意思を騙って主殿頭とのものかみ殿を追い落とすおつもりだ」

「父も察しておりました。上様は決してそのようなことをなさらぬから、と」


 そもそも見え透いていたこと、予想していたことが事実と確かめられただけだから、父に応える金弥も淡々としたものだ。


 これからの水野みずの家は、足元を掬われることなく将軍の交代と意次の罷免という政変を乗り切らなければならない。長らく田沼たぬま派と見做されていた父のこと、旗幟を変えたのを世間に明らかに見せるには思い切った手段に訴えねばなるまい。二年がかりで父が打ってきた布石が、今こそ「活きる」ということだ。


「いよいよ、でございますね」

「うむ……」


 最初はあれほど高圧的に一方的に離縁を命じてきたというのに、いざとなると父のほうが気まずげなのがおかしかった。


「覚悟はしておりましたからお気になさらずに。──どのような段取りで?」


 ごく端的に問うと、父は軽く顔を顰めた。もっと言葉を選べということなら勝手なものだ。今の八重に些細な表現を取り繕う余裕などあるはずもないだろうに。


「両家熟談の上で離縁に同意した、と明日にも届け出る。駕籠を用意してあるから、金弥殿は深夜に神田橋に帰っていただく」

「熟談も何も、皆が承知しておりますのに」


 まあ、妻でも婿でも、離縁する時の決まりきった表現ではあるのだが。皮肉でもなく、体裁を整えなければならぬのは難儀なことだと考えて、八重は少し笑った。だが──


「何を言う。熟談するのはそなたたちだ。心行くまで、とはとうてい言えぬが、せめて別れを惜しむが良い」


 呆れ顔の父が告げた言葉に押し黙ってしまう。金弥と夫婦として過ごせる時間も最後なのだと、胸を突かれる思いだったのだ。




 母にも挨拶をした後、八重と金弥は酒肴を用意した部屋に通された。夕闇に紛れるようにして上屋敷に入ったから、深夜まで、というと二、三刻の猶予はあるだろうか。人目を気にするなということだろう、奉公人のしわぶきひとつ聞こえない静けさの中、秋の空を見上げての星見酒だ。上弦の月は既に沈んでいる。


「──とはいえ今さら語らうこともないのだがな」


 八重が注いだ盃に口を吐けながら、金弥が苦笑した。今日のこの日を予感して、彼女たちはもはや諍いを起こすことのないように穏やかに和やかに過ごして来た。言葉も、確かに既に多く交わしたはずではあるのだが。


「はい。でも、父上のお気遣いですから」

「うむ。無論、ありがたくいただくのだが」


 今度は、八重が金弥から盃を受ける番だった。下りものの諸白もろはくの清酒は、透き通って舌に甘く、喉を焼いた。


はなを撫でておいて良かったな。すぐに忘れられるのだろうが」

「まあ、あれほど懐いておりますのに。忘れないでしょう」

「猫には事情など分からぬだろう。寂しがるほうが哀れだから、忘れて良いのだ」

「では、私がちゃんと可愛がりますから。これ以上ないほど甘やかしましょう」


 自邸で寛いでいるかのような、何気ないやり取りがするすると続いた。華を可愛がるようになった金弥のこと、大事な話ではあるのかもしれないけれど。でも──


(違う……このようなことではなくて……)


 残り僅かな夫婦の時間を、浪費しているのではないか。そう思うと、八重はやがて言葉少なになっていった。かといって酔ってしまうのももったいないから、酒も進まない。置物のようになった八重に目を留めて、金弥は苦笑し──彼も、盃を置いた。


「これで、最後だな」

「はい」

出羽守でわのかみ様と吉太きちた殿のことだから心配はしていないのだが」


 続く言葉を、八重はずいぶんと長いこと待った。それは、夫が体面をかなぐり捨てるまでにかかった時間だ。綺麗ごとの取り繕った言葉だけで終わって良いはずがないと、金弥も考えてくれているはず。ただ、男らしさだの潔さだのが邪魔をして、弱気にも聞こえる言葉を吐くのはきっと簡単ではないのだ。


 それでも、金弥は八重から口火を切らせることはしなかった。女にその役を負わせるのも、男の恥になるのだろう。殿方と言うのは本当に厄介なものだ。


「惜しい、な」

「はい」

「できることなら渡したくない。絶対に誰にも言わないが」

「はい」


 夫が漏らす本音を聞き漏らすまい、見せた弱さを忘れまいと、八重は耳を澄ませ目を凝らした。相槌でさえも最小限に、気を散らせることがないように。


「何年も無駄にしたと思うのだ。もしも初めから歩み寄っていたら、と」

「それは私も同じです。同じことだったかもしれませんし──」


 雪乃ゆきのを思い浮かべて、八重の声は震えた。けれど、今は他所に向ける思いが惜しい。意識のすべてを夫に向けるべく、雪乃の涙も白刃の煌めきも、後ろめたさも。すべて振り払って、八重は懸命に笑んだ。夫の目に焼き付ける姿が、泣き顔などであってはならない。


「今になって思うのは、貴方様の妻であって良かったと、それだけでございます」


 意次にも告げたことを、もう一度繰り返す。誰を気遣った訳でもない、心からの言葉だと伝わっただろうか。


「そうか……」


 金弥の手がゆっくりと持ち上がり、八重に触れた。最初はおずおずと、けれどやがて、しっかりと。腕の中に閉じ込められる。八重も応えて夫の背に腕を回す。別れが迫っているからといって、妻に夫に触れるのに、どうして躊躇う必要があるだろう。二度と抱き合うことはないからこそ、夫の温もりも香りも身体の硬さも、全身で覚えておかなければ。


 熱い吐息が、耳元で囁く。


「達者でな」

「はい。殿は──ご武運を」


 これからの田沼家には苦難が多いはずだ。意次は年老いて、龍助はまだ幼く、なのに多くの敵に囲まれて。刀も弓も使わずとも、戦いのようなものだと容易に想像がつく。……だから、最後に贈るのに相応しい言葉だろうと思ったのに。


「やはりお前は勇ましいな」


 いかにもおかしげに笑われるのが、少しだけ不本意だった。夫の腕に力がこもって、ますます強く抱き締められたから、抗議をする気にはなれなかったけれど。


 父が駕籠の出発を告げるまで、ふたりは寄り添って過ごした。

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