第3話 撃退

「馬鹿な。なぜだ」


 辛うじて絞り出したような定信さだのぶ公の唸り声に、金弥きんやは余裕ある微笑で答えたようだった。なるほど確かに、相手が知らぬことを教えて差し上げるのは愉しいのだろう。


「婿入りした以上は婚家に従うのが道理でございましょう。それが水野みずの家のためになるならば、逆らうことはございませぬ」


 金弥があまりに堂々と述べたから、だろうか。定信公は先ほどまでの饒舌さが嘘のようにしばし絶句した。


「そうだとしても、望んで従うはずがないだろう……! この場には私しかおらぬのだ。本心を明かしても他所に漏れることはない」

「さて、どうでしょうか。神田橋かんだばしでの内々の話が、どういう訳か思いのほかに広まっているようですからな」


 どうせ引き出した本心とやらを企みに利用するのだろう、と。金弥はあて擦って相手の口を噤ませた。襖一枚隔てて八重やえに聞かせているのは見事に棚に上げているのが、盗み聞きしている身にはおかしく、けれど同時に痛快だった。


「何より、お伝えしているのは偽りのない本心でございます」


 定信公に反論する暇を与えず、金弥は続けて言い切った。


「甥を支える機会をくださった出羽守でわのかみ様に感謝こそすれ、恨むなどとは筋違いにもほどがある。何を企まれようと、龍助りゅうすけをお渡しするものか……!」


 本心と言いつつ、金弥の言葉には嘘が含まれているはずだ。離縁を言い渡されて、すぐに呑み込めたはずがない。取り乱したところを人目に晒すのを良しとしなかっただけで、恨み辛みはあって当然だ。だが、それをこの御方に晒すことこそ屈辱なのだろう。何より、甥を渡さぬという宣言は、確かに心からの決意だと聞こえた。


 金弥の気迫は、定信公に引き際を悟らせたのだろう。最初は明朗な笑顔を浮かべていた品の良い顔が、今は怒りと焦りのために見苦しく朱に染まっている。


「……いずれ同じことになるのに無駄なことを。大人しく従っておけば良かったと思うはずだ。田沼家のためとも思うて申したのに……!」


 思い通りに運ばなかったことへの捨て台詞、ではあるのだろう。それでも、将軍家に連なる御方の脅しめいた言葉には不吉な響きがあった。


(諦めてはくださらない……当たり前のことではある、が……)


 定信公に加えて一橋卿の圧力を笠に、周防守すおうのかみが娘と孫の身柄を要求したら、意次おきつぐに断ることができるのか──そもそも、そのつもりがあるのかどうか。金弥が強硬に突っぱねたことは、果たして吉と出るのか凶と出るのか。


「ご親切は痛み入りますが、お受けすることはできかねまする。ご用件がそれだけならば、お引き取りを。ここは先ほど悪しざまに仰った水野家の屋敷でございますから」


 金弥も、八重と同じ懸念に気付いていないはずはないのだろうが。良からぬ用件を持ち込んだ客を追い返す態度は、あくまでも毅然としたものだった。


      * * *


 定信公の荒い足音が十分遠ざかって消えたのを見計らって、八重は潜んでいた部屋の襖を開いた。怒りを宥めているのか、何か考え込んでいるのか──背を向けたままの夫に忍び寄り、後ろからそっと腕を回す。


「よく、お耐えになりました。それに、よく仰ってくださいました。胸がすく思いでございました……!」


 不意打ちのような抱擁に、金弥の身体が少し跳ねる。だが、夫に触れずにいられない八重の不安と高揚を感じてくれたのだろう、身体の向きを変えて、正面から受け止め直してくれた。八重の傷を避けて触れる術を、夫は覚えてくれている。


「俺が言わなければお前が飛び出してしまうかもしれぬと思ったからな」

「もう少しで怒鳴ってしまうところでした。本当に、危ないところだったのです」

「やはり、か?」


 冗談めかしたやり取りは、気を紛らわせるためでしかないのはお互いに分かっている。触れ合った身体は、早まった鼓動を隠しようもなく伝えているだろうから。定信公の狙いは、一度やり込めて追い返したから安心できるようなことでは決してないのだ。


 定信公は、金弥を味方につけた上で意次を包囲しようとしていたのだろう。孫だけでなく息子も失うのだと突き付けて、意次の悲嘆や絶望を眺める肚積もりだったのだろう。包囲の一角が崩れたとしても、あの悪意に満ちた口ぶりからして、簡単に諦めてくださるとは思えなかった。


主殿頭とのものかみ様は、あの御方を恐れていらっしゃったのでしょうか。父上も殿も、ご承知で……?」


 八重の腕に力が籠るのは、意知おきともの死が狂人の乱心によるものではない可能性に気付いてしまったからだ。


 定信公が良い気味だと嘯いたのを邪推しただけなのかもしれないし、そもそも公に沙汰は済んだことを蒸し返すことはできない。証拠も残っていないだろうから、疑うことしかできないのだが。龍助の安全を願う意次の姿勢は、ただの弱気ではなかったのかもしれない。先ほどのやり取りで、金弥もあの御方の悪意の標的になってしまったかもしれないのだ。


「俺は、あそこまでとは思っていなかった。父上は察しておられたのかもしれないが」


 間近に見上げる金弥は、眉を顰めていた。定信公とは以前から面識があったとはいえ、意次への悪意は承知していたとはいえ、それをこうもあからさまに浴びせられることなどなかったのだろう。夫の顔に滲む疲れは、良からぬ用件を持ち込んだ客を退けたからだけではない。意次の不安の源を直に確かめて、父の説得に不安を感じ始めているからでもあるのだろう。八重も同じ思いだから、分かる。


(それでも……!)


「ですが、龍助殿をお渡しするのは道理にもとります。たとえ従ったとしても、それで越中守えっちゅうのかみ様のお気が済むとも思えませぬし……!」


 夫を励ましたいのが半分、自身に言い聞かせるのが半分で、八重は強い口調を取り繕った。越中守の熱のこもった悪意は、政争の中で対抗手を蹴落としたいというだけには見えなかった。もしももっと根深い恨みが根底にあるなら、譲歩を見せてはならない。……徹底して抗わなければ。


大納言だいなごん様は、今にも書を読んでくださっているかも。将軍ご世子からの苦言となれば、越中守様も聞かない訳には参りますまい?」


 八重からの文を読んだ上でも、家斉公が動いてくださるかは分からない。将来幕府の頂点に立つ方に対しての内々の強請りごとなど、図々しいにもほどがある。けれど、意次を説得できる手札はそれしかない。だから家斉公と──ひいては吉太郎きちたろう豊太郎とよたろうを信じて時間を稼がなくては。


「そう、だな」


 多くを語るまでもなく、夫は八重の思いを汲んでくれた。抱擁の腕が解かれて、それでもごく近い距離で向かい合うと、金弥の目はもう気力を取り戻していた。


「明日こそ神田橋に出向かねばな。今日のことをご説明して……また勝手を叱られるのかもしれないが」

「その時は私もご一緒に。大納言様に請願することを思いついたのは私なのですから。主殿頭様は快くは思われないかもしれませんが──それで、お心を強く持っていただけたなら」

「出羽守様にもご報告せねば。ご承知ではあるだろうが、離縁しただけで目溢ししてくださる相手ではないと、心していただかねば」


      * * *


 父の住む水野家上屋敷と、神田橋の田沼たぬま邸と。手分けして送った説明の手紙のうち、後者からはすぐに返事があった。万喜まきの父、松平まつだいら周防守自身と定信公が明後日にも神田橋邸を訪ねることになっている、ついてはことの仔細を報せるべく事前に顔を見せるように、と。困惑を滲ませた意次直筆の申し付けだった。無論、八重たちに否やはないが──


「これは──越中守様はここを出た足で周防守様を訪ねられたのでは?」

「あるいは、あらかじめ手配していたか、だな」


 いずれにしても、攻める手を休めずに敵を追い詰める、定信公の辣腕は間違いないのだろう。意次を説得する言葉を練って、八重と金弥は遅くまで語り合うことになった。

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