第4話 悪意の矛先

 八重やえ金弥きんやは、定信さだのぶ公らの予定よりも早い時間に意次おきつぐのもとに参上することになった。意次は早々に事情を聴き出して追い返すつもりで、八重たちのほうは何としても居座って意次に加勢するつもりだ。双方の思惑に齟齬があるのは百も承知だが、とにかくも神田橋かんだばしの邸内に上がり込まなければ話が始まらない。


 それぞれに用意された駕籠に乗り込みながら、金弥がぼそりと呟いた。


「実家に帰るというのに奇襲のような気分だな」

越中守えっちゅうのかみ様がたは奇襲のおつもりかもしれませぬ。父が口出しできぬのを見計らったかのような動きでございますから」


 同じ老中とはいえ、全員が全員毎日のように顔を揃えるものではない。約束がある以上は自明だが、意次と周防守すおうのかみは登城日でない一方で、八重の父は今日は御城に詰めている。いち早く離縁に動いたからといって、水野みずの家は田沼たぬま家を見捨てた訳ではないのかもしれぬと、警戒されているのではないだろうか。今日については来られぬ父も案じていて、定信公らに屈することがないようにと、重々申し付けられている

吉太郎きちたろう殿から西の丸の様子を窺うことができれば良かったが)


 雪乃ゆきのの一件以来、八重は吉太郎と直接会うことができていない。父がまだ許す気になれないようだ。無論、必要な情報があれば父を通して伝えられるのだろうが。だから、報せがないということは家斉いえなり公からのお言葉もまだないということ。今日のところは、どうにか意次に否を通してもらえるように言葉を尽くすしかない。


(まったく、奇襲とはよく言ったもの……戦いのつもりで臨まねば)


 八重も、意次や万喜まきだけと会う内輪の席のつもりはない。今日は定信公と直に対面しても恥ずかしくないように相応に装いを凝らしている。乱世の武将が戦に臨んで装束を整えるのにも似ているだろう。言葉と策略を巡らせる──これは、太平の世の戦なのだ。




 意次の座敷には、今日は水仙が活けられていた。寒中に雪を割って咲く花は、時に忍耐と結び付けられることがある。苦難の時を耐えて春を待つ思いの表れか、あるいは単に季節の彩りだからというだけだろうか。


「そうか……越中守殿にはそのように仰ったか……」


 少なくとも、定信公が金弥に持ちかけた話を聞いて、深く息を吐いた意次は、悩みや苦しみが圧し掛かるままに圧し潰されそうな風情だった。


「人の心中を好き勝手に邪推なさるのは大変な無礼と存じました。俺の答えは間違っておりましたか、父上」


 そんな父に対する金弥の声は、荒い。田沼家を乗っ取るように勧められたことは、思い出すだけでも怒りを再燃させるのだろう。息子を宥める言葉を探すように、意次が眉を顰めた隙に、八重も付け加える。


「ご政道について義父ちち上に異議があるならば、相応の訴え方があるかと存じます。仮に、お人柄がとにかく合わぬということであっても、金弥様や龍助りゅうすけ殿を巻き込んでの企みは、理が通りませぬ。不合理を見過ごされれば、世の悪い手本になってしまうかと──」


 義弟と義妹が揃って訴えるのを横に、万喜は白い顔のまま口を開かない。同じ屋敷で寝起きしているぶん、毎日のように手を変え品を変え意次に乞うているのだろう。彼女自身と息子を、婚家から追い出すことがないように、と。だから、無言とはいえ表情も眼差しも八重たちを励ましてくれている。


 味方がいないことを悟ってか、意次はもう一度、溜息を吐いた。


「越中守殿は私怨で動いているように見えたということだが──」

「お立場に相応しからぬ振る舞いでいらっしゃいました。希代の名君と称えられる御方とは、とても」


 定信公の、やけに熱の籠った口振りを思い出して、八重の声は自然と尖る。陰口めいたことを口にする後ろめたさよりも、異様なほどの執拗な悪意を見てしまったことへの嫌悪が先に立っていた。意次は、あくまでも穏やかな笑みで息子の妻を窘めるのだが。


「私怨ではあるかもしれぬ。そして、理由のないことでもないのだ」

「まさか。義父上に限ってそのような」

「そう言ってもらえるのは嬉しいが」


 定信公の怨みの理由とは、と。三人分の目が問うのに答える前に、意次は茶で口を湿した。


「越中守殿が将軍ご世子の選定から漏れたのは、徳川家を出た身であるため。白河しらかわ藩松平まつだいら家へ──いわば、追い出されたためだ。私を怨むのも無理からぬこと」


 定信公が金弥に肩入れする風だったのは、もしかしたら境遇に似たところがあると思ったからなのかもしれない。実家を追われて他所の家に出された者同士、と。今になって離縁を考えている水野みずの家は、確かに良縁ではなかったのかもしれない。だが、それでも。同じく意次への敵意を抱いてくれる、などと期待するのは筋違いとしか思えない。


「それを逆恨みと言うのではございませぬか。そもそも、御三卿ごさんきょうから将軍ご世子をお迎えすることになったのも、ご不幸があったからこそであって──」


 意次の弱気を叱ろうとして──けれど、八重は言葉を宙に浮かせた。定信公が徳川家から養子に出された当時の背景を、不意に理解してしまったのだ。


 八重が何を思い浮かべたのかを察したのだろう、意次は重々しく頷いた。彼女の想像を肯定するかのように。


「そう。あのころは孝恭院こうきょういん様がご存命であったからな」


 孝恭院──若くして亡くなった、将軍家治いえはる公の嫡子、家基いえもと公のことだ。その御方が夭折することさえなければ、将軍世子の選定など持ち上がることはなかった──とは、限らない。同じ年ごろの、かたや将軍の嫡子。かたや御三卿の若君。何ごともなければ前者が将軍位を継ぐのが道理だけれど、後者が幼いながらに英明の誉をほしいままにしていたらどうだろう。幕臣の意見が割れることも、あり得るかもしれない。


(上様が……?)


 将軍家治公が、他家に養子に出させることで英明と名高い定信公が我が子の地位を脅かすことを妨げさせたのか。はっきりした命令があったのか、意次が忖度そんたくしたのか──口に出して問うことは、とてもできなかった。臣下の身で、将軍の非を責めてはならない。幕府より禄を預かる武家の身には、主従の序列が芯から刻みこまれている。


 金弥も万喜も、八重と同じ考えに思い至ったのだろう。反論しようにも口にすることができない焦りと悔しさを、それぞれ表情に浮かべている。


「徳川家のご家中に、諍いの種を撒いてはならぬ。越中守殿は後々大納言だいなごん様を補佐する御方でもある。私を憎んでいただくのでちょうど良いのだ」


 だから、定信公の養子縁組について弁解はしない。家治公に変わってあの御方の憎しみを被る──気が済むように、させる。意次は言外にそう言っていた。


「金弥には貧乏くじを引かせることになるかもしれないが。まあ……丸く収まるといえるのではないか。周防守殿には万喜殿と龍助をお渡しすると伝えよう。金弥は越中守殿に詫びを入れよ。せいぜい私を悪しざまに罵れば、田沼家は安泰となるであろう」


 定信公の悪意を伝えても、意次の心は変わらなかった。むしろ、いっそうの覚悟を定めたように見えてしまう。父や義父に大人しく従わなければならないのか──八重たち三人は、無言のうちに視線を交した。

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