第2話 好機?
「な──」
絶句した
(
だが、裏を返せば、あの事件は意次の敵にとってはあまりに都合の良い奇貨ではなかったのだろうか。
(殿も父上も……
やっと、今さらながらに気付いて震える八重の耳を、隣室のふたりのやり取りが通り過ぎていく。
「兄を殺めたのは
「無論、無論。大変お気の毒なことであった。兄君
まったく気の毒と思っていなさそうな声と表情の
「結局のところ、ご用件はいったい何なのでしょうか」
「まずはご忠告に。貴殿は
八重は今や、夫が刀を抜かないようにと切に祈っていた。血の気の多い彼女をして不安になるほど、金弥の声は低く怒りに満ちて、背中からも剣呑な気配が伝わって来る。越中守が気付いた素振りも見せないのが、不思議でならない。軽んじられ謗られているのは、眼前にいる者の父と兄だというのに。
(主殿頭様が殿を見捨てられた、と思われている……? そのようなことではないのに……!)
金弥が意次のことを憎むことはない。離縁の件を承知していながら黙っていたのだとしても、それは八重の父の思惑を承知していたからだ。水野家の没落を防ぐことで、田沼家に手を差し伸べる機会を狙う、という。あるいは、自身の失脚を既に予感して、諦めきっていたからだ。八重には自明のことが、英明と謳われる定信公に想像もできぬようなのは、父や意次の人柄をよく知らぬからか──あるいは、自身の正義を欠片も疑うことがないからか。
「……この私が田沼家の後を継ぐとかいう話ですか」
「その通り」
金弥が口を開くまでにたっぷりと空けた間は、煮えたぎる怒りを呑み込むためのものだ。だが、定信公には答えを閃くまでに考え込んだものと見えたらしい。よくぞ分かってくれた、とでも言いたげなしたり顔で大きく頷き、金弥の肩に手を置いた。
「
「まことにありがたい話ですな!」
「お気持ちは重々お察しする。しかし、たとえ耳が痛くとも真摯な忠告は聞き入れていただきたい」
やはり、だ。やはり、この御方は金弥の怒りが自身に向いているとは想像もしていない。言葉通りに心から案じ、名案を授けようとしているかのよう。明晰な言葉遣いと裏腹の噛み合わなさはいっそ不気味で、金弥はついに目上に対する礼儀を放り捨てることにしたようだった。
「好機、というのは?」
「貴殿を見捨てた者たちへの報復の、ということだ。田沼家を継がれよ、金弥殿。甥御殿の成長を待つまでもない、今すぐにでも。主殿頭殿は隠居すべきだ。これまでの専横の責というには手温いが、実の息子に追われるのはさすがに良い罰になるだろう……!」
端的すぎる不躾な問いにも、定信公は鷹揚に答えた。どこまでも「良い考え」を授ける物言いに、八重に目眩を覚えさせながら。この御方は、金弥が父たちへの報復を望むと信じて疑っていないのだ。その確信がどこから来ているのかは分からないが──ただ、腑に落ちることがある。
(この御方は主殿頭様からすべてを奪おうとお考えなのか……)
(義憤、公憤でこのような嫌い方になるものか? これでは、まるで──)
私怨ではないか。この御方がこうまで意次を憎む理由は──あるとしたら、将軍世子の選定に漏れたのを意次のせいだと考えたから、なのか。だが、高潔かつ英邁と謳われる御方が、こうも
「者たち、と仰ったか。
定信公の考えは、訳が分からなくていっそ怖い。それでも金弥は、努めて冷静を保ち、敵の思惑を引き出そうとしてくれている。下手に出てたと見えるのか、興味を惹くのに成功したとでも思ったのか。越中守の悦に入った含み笑いが八重の耳と神経を逆なでた。
「出羽守は貴殿を離縁すれば安泰と考えているのだろう。だが、容易く旗幟を翻す者など信用ならぬ。遠からず失脚の憂き目に遭うのを、田沼家当主の座から眺めれば良い」
(父上のお心も知らずに……!)
知らなくて当然だし、知られていないのは策通りではあるのだ。しかし、父までも悪しざまに言われて、訳の分からない御方への不審と怖気を上回って、怒りが八重の身体を支配する。自然と、拳が固められる。危うく、立ち上がって襖を押し開けそうになってしまう。ひと言もの申すべく、大きく息を吸って──声として出さずに済んだのは、金弥が彼女に先んじて吐き捨ててくれたからだ。
「……父を隠居させれば、便宜を図ってくださるというのですな」
金弥の怒りにやっと気付いたのだろう、定信公が軽く息を呑む気配が伝わって来た。だが、それが自身に向けられたものだとは、優れた御方はどういう訳かまだ気付かない。
「然様! 今はさぞお怒りだろうが、いずれかえって良かったとお考えになるだろ
う。周防守殿のことも悪く思われるな。いずれの家にとっても最良の結果──」
聞き分けのない子供に言い聞かせるかのように、定信公は金弥の両肩に手を置き──そして、振り払われた。
「成り上がり者だからと、あまり舐めないでいただきたい。無作法なりに、恥も外聞も弁えているのだから」
置き所を失くした手を、定信公は当惑したように眺めたようだった。襖越しのごく限られた視界のこと、息遣いから八重はそう感じた、というだけのことだが。まして、こちらからは背中しか見えない金弥の表情など窺い知ることはできない。だが、彼女の夫ならば、怒りと侮蔑をはっきりと浮かべているのだろうと思えた。
「他家の事情にずいぶんとお詳しいようだが、亡き兄の子を追い出すような真似はしないと言ったのは聞き及んでいらっしゃらないようだ」
「それは──何も知らなければ、そうであろうが! 貴殿は──」
「離縁のことはとうに承知している。同じことを何度も仰らなくても結構。周防守様の遣いに言ったことは、横暴を掣肘するための方便に過ぎぬ」
定信公が絶句する気配に、八重はほんの少しだけ微笑んだ。何もかもを見透かしたような物言いのこの御方のこと、得々と語ったのがまったくの的外れだと突き付けられるのは、きっと痛手だろうと思えたのだ。
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