第6話 初めての牧野造り

 北海道の牧野ぼくやのうち、ササやススキなど、いわゆる野草地は、戦前まで主に軍馬生産に使われてきた。しかし、戦後、軍馬の需要がなくなり、乳・肉の需要が高まるにつれ、乳牛や肉牛の放牧地へと変わっていき、さらに、より多くの牛を飼えるよう、野草より栄養価が高く、生産量が多い、牧草を導入する必要性が高まっていった。このため、牧野研究室では、研究課題として、従来からある野草地を牧草地にする研究と、牧草地で効率よく放牧する方法についての研究を進めていた。


 畜牧部の圃場ほじょうの多く、特に平坦な所は、すでに牧草地となっており、放牧や採草に使われていた。しかし中には、牧草地になってから年月が経ち、牧草の生産力が落ちてササやススキが侵入して、野草地に戻りかけてい所もあった。牧野研では、畜牧部の東端にある、そのような圃場の二つを使って、牧草地を造る試験を行うことになった。そのうちの一つは、民有地に接していて、境界部分に林があった。もう一つの圃場は、道を挟んで、そのすぐ北西側にあった。

 早速、下村を中心に計画が立てられ、両圃場内に、200メートル四方の草地を、それぞれ一ヶ所ずつ、春に造成することになった。これらの圃場は、比較的平坦であったが、ササやススキが侵入しているので、そのままでは、種まきの障害になるとともに、播いた牧草の生育を阻害してしまう。このため、春先、枯れている間に火をつけて、焼き払ってしまうことにした。計画では、二つの圃場とも民有地が近いため、火入れの火が外に出ないように、今回はまず、民有地と距離がある方の圃場で行うことにした。

 この圃場は、西側に林があったが、少し離れており、南東側は道路、北東側と北側は裸地となっているなど、火が燃え移り難いと考えていた。また、民有地側が風上になるよう、南から東にかけての風向きで、無風か、できるだけ風が弱い日とした。このため、雪解け直後の4月は、馬糞風が吹く日が多いので、火入れは5月になってから行うことになった。


 火入れを行う日は、ほぼ無風状態だったが、風向きは、どちらかというと南東から南よりで、夜半から雨が降る予報が出ているなど、絶好の火入れ日和だった。

 火入れの火が急激に広がらないよう、風下から火をつけることにした。また、風下になる圃場の西側にある林は、少し距離があったが、燃え移らないように、あらかじめ林との間に落ちていた枯れ葉や枯れ枝を取り除いておいた。また、試験区内の野草は大鎌で刈り払い、まき散らした。試験区の西側から北東側の裸地らちに向かって、寺山、下村、研究室担当の業務科員迫田、そして夏季間だけ畑作業の手伝いに来てくれる臨時職員の女性2人の、計5人が並び、下村の合図で、一斉に試験区内の枯れたススキに火をつけた。火は、白い煙を上げながら徐々に南東に向かって広がっていった。火が付いたのを確認すると、5人はすぐに、風上に当たる南東側の道に移動して、迎え火を打つタイミングを伺っていた。

 迎え火というのは、火が燃え広がらないように、火が進む方向の反対側からも火を付け、先に焼き払ってしまうために行うのである。今回、迎え火を打つのが風上側からだが、タイミング良く迎え火を打てば、先に付けた側はすでに燃え尽きているので、両側の火が重なった時点で、それ以上広がらないはずであった。

 黒い焼け跡が徐々に広がっていき、その先で、小さな紅い火が見えていたが、時より風が吹くと、大きな炎がはっきりと見えるくらいになり、風がやむと小さくなって、再び焼け跡が広がって行った。寺山は、白い煙をたなびかせて徐々に迫ってくる焼け跡の先端部分をジッと見ていた。

 彼が火をつけようとした瞬間、急に風向きが変わり、馬糞風のような強い風が寺山たちの方に向かって吹いた。風が吹いた瞬間、くすぶっていた小さな火は、一瞬にして大きな炎となった。寺山は、自分に襲ってくる炎を一瞬見たが、風はすぐに弱まり、それとともに炎は煙にかわり、何も見えなくなった。他の者も同様であった。

「あちっ。あっちっち。」

「ゴホッ、ゴホッ、逃げてっ。」

「早く、こっちさ来い。」

煙の中から、声が聞こえてきた。寺山たちは、急いで道路を伝って、風向きと関係がない東側の裸地に出た。すると風は、再び向きを変え、すぐに弱まったので、圃場の様子が、はっきりと見えるようになってきた。火を付けた圃場は、自分がいた道路のところまで焼き尽くされ、さらに、道を挟んだ隣の圃場に火が移っているのがわかった。慌ててみんなが集まると、下村が、

「みんな大丈夫か。特に一番奥にいた寺山と迫田さん。ケガはないか。」

と聞いた。しかし、みんな慌てていて

「大丈夫です。それよりどうしますか。」

「隣の圃場にも火がついてる。どうする。」

と、口々に叫んでいた。下村は、彼らに向かって、

「あわてるな。燃え移った方の圃場も、このまま火入れを続けるから、寺山と迫田さんは、迎え火を打つ準備をしてくれ。おばさんたちは、危ないから、下がっていてください。」

そう言って、風上側になる民有地との境界にある林の前に寺山たちと一緒に行き、今度は早めに火をつけた。風上とはいっても、寺山たちの背後には林があるため、ほぼ無風状態だった。また、先の圃場より枯れ草が少なかったので、道路側と林側からの火はゆっくりと進んでいった。やがて一つになり、煙も出なくなったので、とりあえず火が収まった。皆が安どしていると、臨時職員の女性の一人が、突然大きな声で言った。

「林の向こうで煙が上がってるよ。さっきの風で、火が付いた葉っぱが、外まで飛んだんでないかい。」

皆が、女性の指さす方向を見た。確かに民有地との境にある林の向こう側に煙が見えた。


「寺山、庁舎に行って消防署に連絡してもらって来い。あとはスコップを持ってついて来い。」

下村は、寺山に指示すると、慌ててスコップを持って、林の方に駆け出して行った。スコップで土を被せて消そうというのである。寺山は、言われた通り、自転車を駆って庁舎に行き、消防署に連絡してもらった。事情を聞いて、庁舎内は上へ下への大騒ぎとなった。業務科にも連絡し、手の空いている職員は全員、消火に向かった。寺山も皆を案内して現場に戻ると、消火作業に加わった。やがて、豊平町の消防車もやってきた。風が吹かなかったのが、不幸中の幸いであった。火は大きくは燃え広がらず、結局、畜牧部と民有地の境界になっている土手の一部を焼いただけで済んだ。幸い、この辺りはまだ、ほとんどが原野だったので、人家への被害はなかった。しかし、あのまま火が広がれば、大きな山火事につながりかねない状況であった。


 下村をはじめ、火入れをしていた者は、消防隊員から事情聴取された。その後、責任者の下村は、厳しく注意され、室長と部長からもこってり絞られて、始末書を書く羽目になった。一方、寺山と迫田は、きちんと鎮火しているか心配した部長から、罰の意味も込めて、暗くなるまで。焼け跡を見張っているように命じられた。このため、2人は、終業の鐘が鳴っても、火入れをした圃場の近くで、黒焦げの圃場を見ていた。


 牧柵作りのために切り出した丸太に、2人が腰掛けて話をしていると、やがて、喜久知が酒瓶を下げてやってきた。喜久知はこの日、札幌に出かけていて、日中は不在だった。二人にコップを渡して酒をつぐと、自分のコップにもついで、腰を下ろした。

「ご苦労さん。大変だったな。」

「なんも。でも、迷惑さ掛けてしまって。」

「外に燃え広がちまったが、てえしたことなくて、いかったです。たんだ、おばさんたちには、恐い思いをさせちまいました。」

寺山と迫田が交互に答えると、喜久知が寺山の前髪が縮れているのに気がついた。

「おい、その髪、なした。」

「えっ。あれ、チリチリになってる。」

寺山が前髪を触ると、焦げて縮れていた。風向きが変わって火が大きくなったときに、前髪が少し燃えたのである。

「いやぁ、無我夢中で、気いつかんかったです。迫田さんは。」

「俺は、元々短けえから大丈夫だよ。それより、男前が台無しだな。」

迫田が、自分の坊主頭をなで回すようにしながら言った。

「とりあえず2人とも無事でよかった。それに、あんまり燃え広がらなかったのもな。消防の人からも言われたかもしれないが、ここの山は、焼山と言われるくらい昔から山火事が多かった所だ。数年前にも、もらい火だけど山火事があったばかりだ。火入れには、気をつけんとな。」

喜久知は、二人に諭すように言うと、酒をあおった。

「火入れって、難しいですね。風がないと思っていても、急に吹くし。」

「風向きも変わったしな。」

「この程度の広さでも大変なんだから、もっと広い所で火入れするのは、かなりの人手が必要ですね。」

「今日は、ちょっと人手が少なすぎたな。それか広すぎたかもな。下村にしては、計画が甘かった。ただ、一気に全部終わっちまったのは、良かったけどな。」

「そういえば下村さん。大分しぼられているようだけど、大丈夫かな。」

「なあに、これくらいのことで音を上げるような奴じゃないよ。」

そんな話をしていると、ポツリ、ポツリと、予報より早く雨が降り出してきた。この時期は、日が暮れるのが遅いので、暗くなる8時頃まで残り、鎮火しているかを確認する予定だったが、雨が降ってきたので、早々に引き上げ、続きは庁舎で行うことにした。


 結局、火を付けた方の圃場で約5ヘクタール、燃え移った方の圃場で約4ヘクタールの火入れができた。民有地への飛び火は余計だったが、予定していた面積全てを、一日で火入れできたのは、喜久知が言うように、不幸中の幸いであった。


 翌日は、一日中雨が降ったため、作業はできなかったが、燃えかすから火がでる心配は無かった。その次の日、雨が上がったので、牧草地造りを再開した。その後順調に作業が進み、火入れを行った2つの圃場それぞれに、200メートル四方の大きな牧草地を一つずつ設けることができた。この作業に当たっては、耕起、整地や播種後の鎮圧など、導入されたばかりのトラクターが活躍した。寺山は、自分もトラクターに乗って作業したかったが、運転免許がなかったので、見ているだけであった。


 牧草地ができると、その周りを囲う牧柵張りが待っていた。圃場近くのカラマツ等の木々を切り倒して作った杭を、牧草地の周りに、穴を掘ったり掛矢かけやで打ち込んだりして一本ずつ立て、有刺鉄線、いわゆるバラ線を張って行く作業である。杭の元となった木々は、冬の間に切り倒し、馬そりで雪の上を火入れする圃場の近くまで引き出してから放置しておいた。杭を一から作って牧柵を張るとなると時間もかかったが、十分な研究費も無かったので、自前で作るしかなかったのである。さらに、寺山たちは後日、切り出した木々の代わりとして、最初に火を付けて造った草地の隣にカラマツとヨーロッパトウヒの苗を植えることにした。

寺山たちは毎日、仕事上がりの冷たいビールを楽しみに、辛くて根気のいるこの作業に取り組んだ。その結果、6月上旬にはなんとか放牧できるようになった。この間、播種した牧草は、無事発芽し、順調に生育してすぐに放牧試験に使えるくらいの大きさになっていた。寺山にとっては、初めての大きな牧野の造成であった。造成の成功はうれしかったが、手作りの杭とバラ線の牧柵は、設置に時間が掛かり大変なので、もっと楽になる方法が必要だと感じるのだった。

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