第18話 伊那 19歳 宿命

 アパルトマンにたどり着いてから、伊那は心ゆくまで泣いた。

 私は、恋する人のそばにいて、恋が叶うとか、失恋するとか、そういうこととはまったく関係ない世界で生きていかなくてはいけない。

 どうして宇宙図書館は、あの情報を自分に提示したのだろう。なんの意図を持って。私の恋の終わりを提示するためか。

 人はみんな、生まれては死んでいく。それは意識しようとしまいと関係ない。ロウも伊那も、百年後にこの世界にいないのは確実だ。そして、人間の生命とは無縁の存在もこの世界に重なっている。見えない世界の妖精、精霊、神仏たち。そういうものに触れることで、他の人と違う世界を持っているのはわかっている。ロウが言うように、時間の概念だって違うかもしれない。

 でも、いま、普通に恋をして、恋する人のそばにいただけなのに。どうしてこんな宿命がやってくるのだろう。

 こんなにも見えない世界に左右されるなら、この現実の世界に生まれてなど来なければよかったではないか。


 泣きつかれたが、いつまでも自分の運命を嘆いているわけにもいかない。自分を憐れんでもなにも解決しないことを伊那はわかっていた。受け止める強さを持つ以外にすることはない。

 伊那はアメリカの神学者、ニーバーの祈りの言葉を思い出してつぶやいた。


 変えることの出来ないことを受け入れる静けさを、

 変えることの出来ることを変える勇気を、

 そして、この二つの違いを見定める知恵を


 私は自分の能力を変えることはできない

 ロウの死の運命も変えることはできない

 できることは、ただ、受け入れる冷静さを持つことだけだ。


 冷静になるためには、時間と慰めがどうしても必要だ。伊那はロウにもらった、イチョウの葉っぱを取り出してながめた。この葉っぱは、ロウのように押し花に加工しよう。

 このイチョウの葉っぱをロウからもらったときは、ただ単に自分の恋心を持て余していただけなのに。ロウに恋心を気づかれているのでは、と小さなことを悩んでいた。それが悩み事だったあのときが懐かしい。だが、時間は戻らない。


 伊那は自分の本棚にある星の王子さまを取り出した。ロウと二人で、ページをめくったことを思い返しながら読み返す。


 Cest le temps que tu as perdu pour ta rose qui fait ta rose si importate

 君の薔薇の花が大切なのは、君がその薔薇に時間をかけたからだよ


 ロウが好きだと言っていた文章にさしかかると胸が詰まった。この部分は、王子さまが星に残してきた薔薇への愛情を理解するところだ。


 Je suis responsable da ma rose

 僕は僕の薔薇の花に責任がある


 そんな風にロウに思ってもらえる女性は誰なのだろう。


 物語は終わりに近づく。星へと帰る前に、王子さまが飛行機乗りに告げる。


 夜になったら、星を見上げてね。僕の星は小さいから見分けられない、そのかわり、星がみんな君の友達になる。君は星を見上げて笑うんだ。僕は君に五億の笑うことのできる鈴をあげたようなものだね。


 Tu auras cinq cents millions de grelots, j’aurai cinq cents millions de fontaines

 君が五億の鈴を持つことになり、ぼくが五億の泉を持つことになる


 サン=テグジュペリも、私のように愛する人を見送る宿命に苦しんだのだろうか。星に還ってしまった愛する人を、星を見上げてなつかしむ表現だとしか思えなかった。

 私はロウがいなくなった後、星を見上げて笑うことができるだろうか。


 イチョウの木に慰めてもらいたかったが、またロウと出会ってしまうかもしれないと思うと行くこともできなかった。

 ヤドヴィカに打ち明けることもできなかった。伊那のうちひしがれた様子を見て、ヤドヴィカもそれ以上何も聞いたりしなかった。伊那がフラれたと思ったのかもしれない。フラれたほうがよっぽどよかった、と伊那は思った。

 伊那はカフェーからも足が遠のいていた。ロウの顔を見る勇気がなかった。突然来なくなって、ロウはどう感じているだろう、とは思ったが、平気な顔をする自信もなかった。


 だが、しばらくするとロウから何事もなかったように電話がかかってきた。

「イナ、埴生の宿を歌えるようになったよ。聴いてほしいな」

 ロウにそう言われて、いつまでも避けていることはできないと伊那は覚悟を決めた。ヤドヴィカには、フラれたから行きたくない、とごまかすことはできるが、ロウには平気な顔で会わなくてはいけないのだ。

 伊那は、ロウの家に行く日を約束した。駅まで迎えに行こうか、とロウは言ったが、もう覚えたから大丈夫と返事をした。


 約束の日まで、伊那は毎日祈り続けた。ニーバーの祈りだ。

 翻訳すると、どうもそもそものエネルギーから変わってしまうようだ、と思ったので原文のまま唱えるようにした。


 O God,

 give us serenity to accept what cannot be changed,

 courage to change what should be changed,

 and wisdom to distinguish the one from the other.


 神よ、

 変えることの出来ないことを受け入れる静けさを、

 変えることの出来ることを変える勇気を、

 そして、この二つの違いを見定める知恵を

 私にお与えください。


 serenity、伊那はその単語を繰り返した。変えられない運命は、ただ受け入れるしかない。凪いだ海のように。透明な泉のように。風のない水面のように、静けさを私自身が獲得するしかできない。


 ロウはいつもと同じように微笑んで伊那を迎えてくれた。同じようにピアノのあるリビングに伊那を案内し、お茶を入れてくるよと言って部屋を出ていく。伊那は、再び飾り棚のある本棚の前に立ち、葉っぱと花びらたちを見つめていた。

 前に見たときは、仲間なのかしら、ライバルなのかしらと考えたことを思い出した。この葉っぱと花びらたちも、ロウに恋しているのだ。

 きっと、この葉っぱと花びらは私の仲間だ。ロウとは時間の流れが違い、命の運命が違うことを理解しているんだ。一緒に生きていけるわけではない。


 ロウがコップの乗ったトレーを抱えて戻ってきた。

「そういえば、イナはあの葉っぱはどうしたの?」

「私も、ロウと同じように保存することにしました」

 伊那はそう答えた。押し花にした葉っぱはいつまで保てるのだろうか。ずっと自分のそばにいてくれるだろうか。イチョウからのラブレターだよ、とロウは言ったけれど、私にとってはロウの思い出のようなものだ。

「私もいくつかは、うまく保存できずに枯れさせてしまったものがあるんだ。上手に保存できそう?」

「今のところ、うまくいっていると思います」

「それはよかった」


 お茶を飲み終わると、ロウは「埴生の宿」を歌うからといってピアノの前に移動した。

 伊那も立ち上がって、ピアノの隣に立つ。

 ちゃんと覚えたからね、とロウが笑って言い、伊那は笑い返した。

 ロウのピアノの伴奏がはじまり、ロウの輝く声が広がっていく。練習したよ、と言っただけあって、この前に聞いた英語の歌詞より、はるかに深い想いをもって歌の情景が迫ってくる。

 そうだ、ロウは歌の情景を心に届けることの出来る能力を持っている。だが、そうした情景を描くためには、曲の理解を掘り下げるために長い時間研究し、たゆまぬ努力と訓練を重ねている。


 埴生の宿も 我が宿

 玉のよそい うらやまじ

 のどかなりや 春のそら

 花はあるじ 鳥は友

 おお わが宿よ たのしとも たのもしや



 伊那ははっとした。そうか、この歌が原語のHome sweet homeと違い、少しだけ悲しく聞こえるのは、原詩にはない、春と花と鳥のせいだ。春、という季節を特定したせいで、移り変わる時を、移り変わる人の世を暗示してしまうのだ。春も花も鳥も、流れゆく時の中の、一瞬の美しさを示しているからだ・・・。


 ロウの歌が終わり、後奏も静かに消えていく。歌い終わったロウに、伊那はひとりで拍手した。ロウが微笑む。

「古い日本語なのに完璧です!それに、この間より、はるかに感動的でした」

「まじめに練習したからね」

 そう言ってロウは笑っていた。

「でも、いろいろ調べたけれど、イナが言うように日本語の歌詞のほうが悲しい理由はわからなかったよ。なぜだろう」

「それは・・・いま感じたことですが、英語の歌詞にはなかった、春と花と鳥のせいじゃないでしょうか」

「どういう意味?」

「春、というと、明るい光、花が咲き、鳥が飛ぶ、という美しい季節だけど、同時に、時はかならず流れていくというイメージもあると思います。春、と言ってしまうことで、時は流れてしまう、とどまらない、というはかなさを表すんじゃないかしらと思ったんです」

「イナにはそう感じられる、という意味かもしれないね。イナは時間に対する感性が鋭いから」

「そうでしょうか」

 伊那はそう言って、この前ロウに言われたことを思い出した。

「感性が鋭いのじゃなくて、感覚が老人みたいなんでしょう?」

 あえて明るくそう言った。

「悪い意味ではないよ」

「もしかすると、魂が年老いているのかもしれないし」

「魂が年老いているってなんのこと?」

「人間には、肉体年齢以外に、魂年齢というものがあるんです。若い頃から、いろいろなことをすぐに理解して、落ち着きがある人もいれば、年齢があがっても子供っぽい人もいるでしょう。それは魂年齢の違い、転生の回数の違い、ともいえます」

「イナが感じている魂年齢というのは、私とイナとどちらが上なんだい?私はなんだか、自分のほうが年下のような気がしてきたよ」

「それは・・・宇宙図書館に行かないとわからないです。まだ見ていないので」

「じゃぁ、今度見てきてほしいな」


 ロウは気軽にそう言った。でも、ロウの本を閲覧すれば、またあのデータを見てしまうことになる。ロウがこの世界から旅立つ日だ。伊那の顔が曇った。


「なんだか見たくなさそうだね。私が死ぬ日を見てしまうから?」


 ロウが相変わらず、気軽な感じで言った。その言葉の意味を理解した伊那が小さく息をのんだ。目が大きく見開かれ、顔が硬直する。

「やっぱり、そうだったんだね」

 そう言って、ロウは静かな目で硬直したままの伊那を見た。

 やっぱり、ということは・・・ロウは確信を持っていたわけではなかった、ということに伊那は気づいた。


「悪かった。こういうのは『かまをかけた』と言うんだよね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る