第19話 伊那 19歳 運命

 相変わらず、ロウは動揺もせず静かに言っている。伊那の心臓が早鐘を打った。もうごまかすことはできない。この人にだけは気づかれないようにごまかそうと思っていたのに。


「あの日のイナの様子があまりにも変だったから、いろいろ考えてみた。どう考えても、宇宙図書館で私に知られてはいけない情報を見てしまったに違いない。そして、そのことを隠そうと必死になっているのだろうと推測できた。イナが動揺しながら、私には知られてはいけないと気遣っていることをね。君がそこまでして、私に隠さなければならないこととは一体なんだろう。それは、私に関する悪い知らせだな、と思いついた」


 伊那は息を詰めて聞いていた。この鋭い人に隠し通すなど、無理だったのだ。

「それで、私が死ぬ日はいつ?」

 伊那は口に出す勇気が出ず、小さなため息をついた。

 いまさら嘘を重ねても仕方ない、と心のどこかから声がした。

 そんな伊那を見て、ロウが重ねて言った。

「君が隠そうとしたことをあばいて悪かった」


 伊那は、はっとして、なぜロウに謝らせているんだろうと気づいた。これはロウに関する不吉な予言なのに。

「ロウが謝ることじゃないです。私が・・・」

 だけど、知りたいと意図したわけではない。そもそも宇宙図書館に行こうとも思っていなかった。あんな情報は見たくなかったのに。

 そう思うと、伊那は言葉が出なかった。


「イナが他の人と時間の感覚が違うのは知っていた。いつでも、死というものを身近にとらえていることもね。それは人の死がわかるからではないか、と考えたことがある。だから、イナは私が死ぬ日を見たのではないか、と思いつくことができた。

 イナ、気遣ってくれるのは嬉しいが、私が今日死ぬのでなければ教えてくれるかい。今日といわれれば、さすがに準備ができないかもしれないが、死ぬには準備が必要だからね」


 伊那はそっと息を吐き、覚悟を決めた。


「2018年の・・・11月9日」


 ロウは静かに聞いて、それからにっこり笑った。

「まだ二十年も先じゃないか。あのときのイナの様子から、まもなくなんじゃないかって疑ったよ」

「二十年は、長くないです」

 伊那がぽつんと言った。

「二十年しか生きていない君に言われるのは不思議な感じだよ」


 そうか、私はまだ二十年しか生きていないのか、と伊那は思いをめぐらした。二十年など、またたきの間に過ぎない。地球の時間なんて、幻のようなものだ。


 ロウは視線を下に落として、しばらく何事かを逡巡していた。

「日本の人はみんなそういうところがあるが、君はあまり感情を露わにはしない。私には日本の血が流れているが、日本人として育ったわけではないし、ほとんどのフランス人と同じように、日本人が何を感じているかわからずに戸惑うことがある。最初はイナの感情もわかりにくいと思っていたが、ある頃から、イナの目を見たら、君があえて言葉にしないたくさんの感情が浮かぶのがわかるような気がした。私が投げかけた言葉に対するréponseが」


 ロウがそこだけフランス語の単語を使ったréponseという音がふわりと舞い上がって、花びらのようにくるりと回転して伊那のハートに落ちてきた。

 Réponse:返事、応答、答え。


 そこでいったん言葉を切ってから、ロウは顔を上げて伊那を見た。

「あの日、イナの動揺を見て、私には気づいたことが二つある、ひとつは・・・」

 ロウはすっと手を差し出して、伊那の頬に触れた。

「私は、君の強さが好きだ」

 伊那は茫然とロウを見返した。この人は何を言おうとしているのだろう。

「イナはきっと今までも、いろいろなことを誰にも気づかれないように黙って生きてきたんだろう。その静かな強さが私は好きだ」

 ロウはまっすぐに伊那の瞳を見つめていた。頬に触れたロウの手が熱かった。

「もうひとつは・・・その、もしイナが、私が死ぬ日を知って動揺するのであれば、イナにとって私は大切な人だということに気づいた」

 ロウはちょっと言いにくそうに言った。思いもかけず、ずっと心を煩わせていたその当人から、自分の動揺そのものの正体を言い当てられて、伊那はパニックに陥り、思わず後ずさった。ロウの温かい手が離れていった。


「ごめん、唐突すぎたね」

 伊那は黙って首を振った。

「知っての通り、私は君の父親より年上だ。君との年齢差のことは何度も考えたよ。このまま黙っているのがいいのかもしれないとも思った。もう若くはないからね、それができないわけではない。ただ、君といろいろ話していると、君がいつも見ているだろう永遠の時間に比べたら、この地上での年齢差なんて気にする必要はないのかな、という気になってしまった。

 君が前に話してくれたように、百年後には、君も僕もこの世にいない。でも、あのイチョウの木は変わらずあの川べりに立って、誰かが泣いたり笑ったりするのを見ているだろう。

 この世で一番大切なものはなんだろう。自分の心の奥にある本当の想いを告げたいと気づいてしまったとき、その想いを封じ込めるのが、人として正しいのだろうか。ましてや、自分の心の奥に誰かが住んでしまっていることに気づいたとき、『大切に思っている』とも告げないことで、本当に生きている意味があるんだろうか。

 私はイナを大切に思っている。

 イナが私のことで苦しんでいるというのに、気づかないふりをしていることはどうしてもできなかった」


 そう言うと、ロウは黙った。ロウの告白はあまりにも伊那には思いもよらなかったことだった。伊那は自分がロウに恋していることはわかっていた。だが、ロウは伊那がそれまで出会った人のように、エネルギーを読んだり、意図を理解したりできなかった。むしろエネルギーの強さに圧倒されることのほうが多く、魅了されているあまり、ロウの想いを感じることができていなかった。


 ロウは黙って伊那の言葉を待っていた。何か言わなくてはならない、でも何を?

 大切に思っているとロウは言ってくれた。大切に思っている誰かに、大切だと告げないこと・・・それは私のことではないか。ロウはただ、自分の気持ちを正直に表現してくれているだけだ。ロウの言葉に嘘がないのはわかる。

 伊那は、いつか自分がロウへの気持ちを抑えられなくなり、飄々としているロウに感情をぶつけてしまうことを恐れていたが、逆のパターンを想像することはなかった。伊那はどう言えばいいかまったくわからなかったが、この以上の沈黙に耐えかねて口を開いた。


「ロウ、私は・・・」

 ロウが視線をあげて伊那を見た。

 その瞳には、伊那の想いに対するロウのréponseがはっきりと浮かんでいた。

 伊那ははっとして、それから気持ちを定めるためにひとつ大きな呼吸をし、目を閉じて、もう一度ゆっくり開いてロウの瞳を見つめ返した。


 言葉がいらない


 その意味が伊那の胸にすとんと落ちた。


 ロウは伊那の頬に手を伸ばすと、そのまま頭の後ろまで手をすべらせて、伊那を胸の中に抱き寄せ、優しく髪をなぜた。

 伊那は静かにロウの胸に身を寄せた。


 もう、この人の腕の中から抜け出さなくてもいい。この人に決して知られないように、唇をかんで自分を叱咤しなくてもいい。伊那はそう気づいた。

 自分の宿命を恨まなくてもいい、この世界で自分はひとりぼっちなのだと思わなくてもいい。

 一緒に生きていくことなどできないと自分に言い聞かせなくてもいい。


「私は、たとえ君に、あと三か月の命だと言われても、自分の想いは伝えるつもりでいた。君の時間感覚は特殊で、たぶん、私が感じることとまったく違うのだろうと思ったから。だが正直、二十年もあると聞いて安心しているよ」

 ロウは安堵したように言った。その安堵の想いが、単に命を惜しんでいるわけではなくて、これから一緒に過ごす時間に向けられていることに気づいて、伊那は胸を衝かれた。この人は、なんてストレートな人だろう。

「それで、二十年後、私はイナと一緒にいるのかい?」

「それはわからない・・・宇宙図書館の本には、ところどころシールドがかかっているの。いまの自分に必要な部分しか読めない」

「そうか、そういうシステムなんだね。たしかに何もかも読めてしまったら、受け止められないこともあるだろうな」


 伊那は、自分が話した言葉によって気づいた。そうだ、宇宙図書館の本は、いまの自分に必要な情報しか読めないのだ。とすると、あのとき、ロウが死ぬ日時を見たのは偶然でもなんでもなく、「必要な情報」だったということになる。


 なぜ?


 答えはひとつしかない。

 あの情報こそが、伊那とロウを結び付けたのだ。あの情報の開示がなければ、二人は35年もの年齢差を超えることなどなかった。二人の絆には、はじめから時間制限と、ロウの死が分かちがたく結びついている。


 だが、どのみち伊那には、人の死期がわかるのだ。二十年先のことをわかってしまったのは、宇宙図書館の情報のせいだが、だいたい死の三年前に予兆がある。その予兆にはいろいろな種類があり、一概にこうだ、と言えるわけではないのだが、なにかの拍子に、その人が旅立つ支度に入ったことがわかると言うのだろうか。それは自然死だけではなく、突然死であろうが、事故死であろうが、犯罪死であろうが、関係はない。人は必ず、死の二、三年前から死の準備に入っている。伊那はその人の言葉で、行動で、ふとしたはずみに、そのことに気づく。ただ、本人は気づいていないことがほとんどだ。一年前になるとはっきりと、この人はあちらの世界に行くのだ、と確信が持てる。逆に、今日死ぬのか明日死ぬのかははっきりしない。迎えに来ている存在を見たとき、間もなくなのだと察するだけだ。


 死期だけではない。ただ普通に出会い、友達になった相手でも、この人と会うのは、今日が今生最後だ、とふと気づくことがある。そう感じた人とは、その後二度と出会っていない。人は出会っては別れていく。生き別れなのか、死に別れなのかに関係なく。

 そうやって自分の中で、自分の感覚に折り合いをつけていたはずなのに、ロウの死の情報にあれだけ動揺したのは、ロウが伊那の中で特別な人になっていたからだ。

 だが、ただ恐怖でしかなかったロウとの別れの日を、ロウは二十年という安堵とともに、伊那に手を差し伸べて、絆を作ろうとしていた。


 伊那はロウに告げた。

「さっきまで、あなたがいなくなる日は、恐怖だった。それをあなたは幸せに変えてしまった」

 別れの恐怖を、愛と安堵に変えてしまったのだ。いつもの、ロウの歌の魔法のように。この人は、やはり私にとって魔法使いなのだ。二十年という歳月とともに私に手を差し出してくれている。

 伊那の苦しみが溶けていくとともに、伊那の瞳から温かい涙が流れていた。ロウの胸が、腕が、髪をなぜる手が温かかった。


「君に出会って、私は自分が淋しかったことを思い出した。そんな感情は自分にはもうないと思っていたが。生きていると、思い通りにいかないことがたくさんある。いろいろな失望や絶望・・・こんなことはたいしたことではない、と自分を律して生きねばならない。だがそんなとき、自分の思いを感じてくれる誰かのいることが、どんなに幸せかということを、君は思い出させてくれた」

 ロウは腰をかがめて伊那の髪にキスをした。

「二十年あるといっても、君は私よりはるかに年下で・・・君をおいていかなくてはいけないことは、平気ではない」

 ロウは嘆息した。伊那は髪をなぜるロウの手に自分の手を重ねた。ロウが手を止めた。ロウはすっと手を反転させて伊那の指と自分の指をからませた。


「そのときは、星を見上げるわ。私はあなたから、五億の鈴をプレゼントしてもらうから」

 それが「星の王子さま」の中の、飛行機乗りと王子さまの永遠の別れのセリフであることを、ロウはもちろん知っている。

 ロウはもう一度深く伊那を胸に抱きしめた。伊那と指をからませた左手で伊那を引き寄せ、右手を伊那の頬にすべらせて上を向かせ、口づけた。


 静かに唇を離した後で、ロウは伊那の頬を両手で挟んで優しく見つめた。

「イナ、今日の数字の意味は?」

「月の数字は10、9で眠りについた数字が、もう一度目覚めて朝の光が射しこんでくる。日の数字は17、17の数字は星から風を運んでくる。朝の光と星が重なるとき、宇宙は扉を開いて真実が明らかになる」

「宇宙が扉を開いたら、私の腕の中にはイナがいたのか。宇宙は私の味方だな」

「宇宙はあなたを愛しているのよ。イチョウの木も、私も」

「私もイナを愛しているよ」


 二人が見つめあう瞳と瞳から、違うエナジーが投げかけられ、réponseが戻り、ひとつの調和を作っていた。月と日の数字のように、パガニーニの協奏曲のように。

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