第17話 伊那 19歳 パガニーニの音楽

 伊那はショパンのピアノ曲は美しいと感じる。同じように、数字同志が奏でる響きも美しいと感じている。伊那はふと、パガニーニの音楽は友愛数のように、互いに響きあう思いのようなものを持っているのだろうか、と思った。


「パガニーニの音楽はどんな音楽ですか?」

「パガニーニには声楽曲はないからね。ピアノ曲を弾いてあげようか。一番美しいのはラプソディのⅩⅧ番だと思うよ」

 ロウは立ち上がり、楽譜ばかりが並んでいる本棚のほうに移動した。本棚から一冊の楽譜を取り出し、パラパラと開いて中を見ながら、再びピアノの前に戻ってきた。楽譜を開いてピアノの楽譜置きに立てかけて笑って言った。

「私のピアノは普通だよ」

 それは昔、ロウの音楽教師がロウに言った言葉だ。伊那はおかしくなった。この人、本当に負けず嫌いなのだわ。


 パガニーニ・ラプソディⅩⅧの旋律が始まる。


 音階を上がっていく左手のメロディと、音階を下りていく右手のメロディ。右手と左手が互いに手を差し伸べる。音のひとつひとつは、約数のように分解されながら、同時に重なって響きあう。やっぱり友愛数と似ているのだわ、と伊那は感じた。二人のニコロ・パガニーニが同じ名前なのは、偶然じゃない。右手と左手は互いに近づいては離れ、思いのエナジーを相手に投げかけて、受け取って、音が広がりながら流れていく。数字の組み合わせと同じだ。互いに違う思いを持った数字がエナジーを投げかけて、ひとつの調和を作る。

 ロウのピアノは、ロウの歌とは違って、空間を圧する力はない。なんのためらいも迷いもなく歌の世界にいざなっていくロウの歌声と違って、揺るぎがあって、迷いがあり、ときにはふっと息をつくような瞬間がある。いつもとまったく違う音楽の空間。

 私、この人の弾くピアノが好きかもしれない、そんな風に伊那は感じていた。


 ふと、伊那の足元が透き通って青くなった。はっとして伊那は目をこらすが、視界が揺らぐ。ロウの音楽室、ピアノを弾いているロウが霞のように揺らめいて薄らぐ。

 いや、揺らいでいるのではない、重なっている。

 いま見ていた空間に重なって、もうひとつの世界が二重に写される。

 青く透き通る床。ロウの楽譜の本棚にかぶさって見える、もうひとつの本棚。

 ここは・・・知っている、記録の館、宇宙図書館だ!

 伊那は目を見張った。ピアノを弾いているロウの姿は陽炎のごとく揺らめいている。かわりにハッキリと姿を見せているのは記憶の館。二つの違う世界が、伊那の足元で捻じれて重なっていた。

 記憶の館の本棚に並んでいる一冊の本が光輝きながら提示される。その本には伊那ではなく、潘彪の名前が記されている。潘彪の本はひとりでに空中に浮かび、ページがパラパラとめくられ、ある1ページを開いてピタリと止まった。


 そこに記してある文章が伊那の瞳に流れ込んでくる。伊那は思わず息を呑んだ。

 胸が激しく動悸を打つ。


 どうしてこんなものを見てしまったのか。どうして読んでしまったのだろう。忘れたい。いま見たものを忘れたい。


 伊那は目をつぶり、両手で顔を覆った。


「イナ?どうしたの?」

 曲が終わり、ロウの声がしたが、伊那は答えられなかった。


 どうしよう。もう私の脳裏に刻み込まれてしまった。

 2018年11月9日。

 この人が、地球を永遠に去る日だ。宇宙図書館にミスはない。


 伊那は両手で顔を覆って自分が受けた衝撃に耐えていた。体がかすかに震えていた。

「イナ?」

 伊那は顔をあげることができなかった。


 しばらくの沈黙の後、ロウが近づいてくる気配がした。ロウは顔を覆ったままのイナを優しく抱きしめた。背の高いロウに抱きしめられると、イナはロウの胸の中に入ってしまう。ちょうどイナの顔がロウの心臓のあたりにくる。ロウの胸の鼓動が聞こえてくる。ロウの声と同じように、ロウの鼓動も不思議に心地よい。心地よい胸の鼓動を感じているとイナが受けた衝撃は和らいでいった。ロウの胸の鼓動は、まるでアヴェ・マリアのように柔らかく、優しく、静かに体にしみわたっていく。

 トクン、トクン、トクン・・・。

 そう、この人はいま生きている。遠い未来のことを思い煩うな。立ち直れ。そして、何を見たのかを知られてはいけない。


 伊那は大きく息を吸った。


「ごめんなさい。ちょっとびっくりして、めまいがした」

 そう言って、伊那はロウの腕の中から抜け出した。

「どうしたの?」

 ロウが気遣わしげに顔を覗き込んだ。伊那はとっさに、一部だけを話そうと決意した。

「どういうわけか、宇宙図書館が見えたんです」

「薔薇の図書館だね。なぜだろう」

「もしかしたら、パガニーニのせいかもしれない」

「パガニーニは悪魔に魂を売ったとか言われているからね。そもそも、見えない世界につながりやすい音楽かもしれない。もっとも音楽だけを聴いていれば、どう考えても地獄ではなくて天国だが・・・」

「とても美しい音楽だと感じました。それで、美しいと感じていると、突然、世界が二重写しになって・・・ここにいて、同時に宇宙図書館にいたんです。まるで足元が捻じれたみたいで。立っていられなくて、めまいがして」

 伊那はそれだけを言った。

「宇宙図書館のどこにいたの?」

「記憶の館です」

「そうか・・・」

 ロウはそれ以上尋ねなかった。伊那はほっとした。


「温かいお茶でも飲むかい?」

 ロウはそう尋ね、伊那はうなずいた。伊那をソファーに座らせると、ロウは部屋を出て言った。伊那は改めて大きな深呼吸をした。ともかく、ここを出るまでは動揺を知られてはいけない。落ち着いて、何もなかったような顔をしなくてはいけない。それから、なにか理由をつけて早く帰らなければ、いつまで自分が平静を保てるかわからない。提出が迫っているレポートがある、とでも言おう。


 ロウが温かい中国茶を持って現れた。ロウが気遣うように、いろいろなことを語り掛けてくるのに対して、平静を保って返事をする。それから、レポートがあるのでもう帰る、と切り出した。伊那は学生だからね、勉強が本分だよね、とロウは答えた。ロウは駅まで送ると言ったが、簡単な道だから大丈夫と伊那は繰り返し言い、木のラブレターを見せてくれてありがとうと言った。

 一刻も早くロウから離れたかった。


 なんとかロウを振り切ってから、駅にたどり着くまでに伊那の瞳から涙があふれだしていた。

 ロウが死ぬ日を見てしまったことは悲しい。だが、2018年はまだ20年も先だと思い直すこともできる。彼の年齢を考えれば、早死にだと嘆くほどのこともないと考えることはできる。

 でも違う。そうだ、あの人は私よりはるかに年上で、私よりはるかに早く死んでしまうのだ。どんなに恋したとしても、どんなに愛したとしても、人生をともに生きていくことなどできないのだ。生まれた年月の差を縮めることなどできない。

 それに、人が死ぬ日を知るなど、不吉でしかないではないか。そういうものを見てしまう自分の宿命がやるせなさを持って伊那の胸に迫ってきた。


 誰に打ち明けることもできない。私はひとりで耐えるしかない。


 エジプト数学を知ったとき、人生が自分を呼んでいるような気がしたのに。誰にもわかってもらえないと思っていたことも、数学科の仲間ができて癒された。そのためにはるばるフランスまで来たのに。もっと数学を勉強して、不思議を解明したいと思っていたのに、こんな出来事が待っているなんて。

 恋をした瞬間に、こんな落とし穴が待っている。もちろんロウにも、ヤドヴィカにも言えるわけがない。どうしてこんな生き方をしなくてはいけないのだろう。


 わたしはこの世界でひとりぼっちだ。


 伊那は静かに泣いていた。誰にも気づかれないように、うつむきながら歩き、ときどきそっと涙をぬぐった。

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