第35話

 AM4:27。

 俺は右手首に巻いたスポーツウォッチに目をやった。この日課の為に買った安物の時計だ。以前テンションが上がり過ぎて危うく遅刻しそうになってしまったので、走りながら定期的に時間を確認する様にしている。まだまだ余裕がある為、ちょっと違う方向へ進んでみても良いだろう。

 だが、変な冒険はしない。あくまでも知っている道を選ぶ。今日は自分の通う学校に向かう事にした。この時間に学校を見る事はないので、良い気分転換になるかもしれない。起きてから感じたこのイライラもきっと、晴れかやかな気分に変わるはずだ。

 六月の終わり頃だろうか、それくらいから俺は奇妙な事に、夢を観ていない。それ以前はかなりの頻度で夢を観ていた気がするが、それがパタっとなくなった。いや、二度寝したり居眠りしたりする時には何度か観た。しかし、。それを「熟睡の証」として受け取っていた俺ではあるが、それなら何故、起きた時に悪い気分に襲われるのだろう。いつも、ではないが今日みたいな事が、度々ある。熟睡していたならば晴れ晴れするのが普通ではないのか。


 いつも自転車で通るこの道だが、走る今も同じ感覚だったりする。初日よりもペースが速くなっているのだ。自転車を普通に漕ぐ時と今の俺、スピードはそんなに変わらない。

 ——いてっ。

 足に痛みを感じた。見るとランニングシューズの内側のメッシュが破れている。そこにプラスチック部分が刺さって足に、不快感を与えていた。ただ走るのではなく、開けた道で全力ダッシュみたいな事をしている為、靴の消耗が早い。サッカーシューズと同じ頻度で買い換えている——いや、もしかしたらこちらの方が多いかも。

 靴を気にしながらも俺は、自分の学校の前を通り過ぎた。そろそろ折り返そう。学校最寄りの駅辺りがちょうど良いかもしれない。

 駅に近づくと、向こうから俺と同じ様に走ってくる奴がいる。そいつを意識して俺は少しだけペースを上げた。向かい来るランナーは、たぶん女だ。黄色いTシャツにピンクのラインが入ったショートパンツを穿いている。その下に黒いランニングタイツも穿いている為、生脚を見る事ができないのが少しだけ残念だ——くそ暑いんだからもっとさらけ出せば良いのに。

 俺はカッコよくドリンクを飲もうとウエストポーチに手を伸ばす。相手との距離が縮まって行く。やがてその人物が、俺のよく知る女である事に気づいた。

 嶋田である。

「あれ? 嶋田じゃん!」

 嶋田と話すのは久しぶりだ。俺は陽菜に久しぶりに声を掛けたあの状況を思い出した。今の状況もそれなりに似ている。努めて「気まずくないですよー」みたいに話し掛けてる所とか。

 嶋田が停まった。

 俺もペースを落として歩き出す。

「——どこまで走んの? 俺今引き返すトコだから、途中まで一緒に走んねえ?」

「……なんで?」

 また出た。また「なんで?」だ。

「え? いや、意外だなーとか思って。だってお前帰宅部だろ? ああわかった。イケてるツラした彼氏の影響だろ?」

 少し胸がズキっとしたが、それでも強がるのは大切だ。俺はまた嶋田とフツーに話したい。

「彼氏なんて居ないよ。ってか、そういう事訊くんだ? もう私になんて興味ないって感じ?」

 ——こいつ、わざわざ気まずくなるセリフ言いやがって。

 嶋田の元へ辿り着いた俺は、嶋田の隣に並ぶ。

「うーん、正直未練タラタラ。でも気まずくなりたくないから、こうして話し掛けてみた。嫌なら消えるって。じゃ——」

「また居なくなろうとする。変わんないね」

 ——変わらない? たしかに変わってないかも。

「……スタートに戻ったって事で。それじゃあ駄目か?」

「戻れないよ」

「そうだよな。お前、なんか良い感じの奴がいるんだろ? 彼氏じゃないっつっても、そーゆー奴がいるんなら——」

「だからいないって」

「そうなのか? 陽菜が言ってたんだけどな。ホラ、お前が俺をフった次の日、他校のヤツらと遊んだんだろ? てっきりそいつらの中にそうなった奴がいたんだなーって」

「陽菜が? 私、遊びに行ってないんだけど」

「え?」

 意外な言葉が出てきた——行ってない?

「取り敢えず走ろうぜ? 話しながらゆっくりと」

 こいつの家はここから近いらしいが、俺はそうじゃない。このまま立ち話なんてしたら、帰ってからバタバタするハメになる。

「うん」

 俺達はゆっくりと走り出した。

「それで? 行ってないってどういう事?」

「あんたのせい」

「俺のせい?」

「前の日にあんなこと言われて行けるワケないでしょ?」

 ——どういう事だ?

「行くって言ってたじゃん?」

「はぁ……だから、そういう気分になれなかったの!」

 よくわからない。

「じゃあなんで陽菜、俺にあんな事言ったんだろ?」

「さあ? でも、ちょっとわかるかも」

「わかる?」

 ——何がだ?

「奥田、あんた私に『好き』って言ったのよ? 少しは意識するに決まってるじゃない。なのにあれから少しも話しかけて来ないし、今話しかけてきたと思ったら、そんなとした態度だし」

「あっけらかん?」

 純粋に言葉の意味がわからない。普通の言葉で喋って欲しい。


「はあぁぁぁ……だから、陽菜が意地悪したくなる気持ちがわかるってこと! 私、ここ左に行ったところだから、もう行くね!」


「あ、ああ。また後で、学校でな?」

 嶋田は左へ曲がって行き、俺は真っ直ぐ自宅を目指した。

 女の考える事はわからない——やっぱり俺が悪いのか? まあ元に戻れたみたいだし、良しとしよう。


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る