第29話 天ヶ崎舞羽と蝶の会話


 みどり荘は昔ながらの民宿だが、裕二氏によってところどころ現代的にリノベーションされている。風呂場のすぐわきには談話スペースがあり、蝶と舞羽がそばの冷蔵庫に冷えていたラムネの瓶を手に話していた。


 二人は風呂上りなのかパジャマを着ている。


 これは僕がアザラシのように部屋をのたうち回っている姿を裕二氏に発見された裏で交わされていた会話である。


 蝶がラムネをチリチリ鳴らしながら言った。


「それで、ゆう君にお別れは言えた?」


「えっと……まだ」


「ちゃんと言わなきゃダメじゃない。なんのためにゆう君を呼んだのよ」


「だって、だって~~~~」


「だってじゃない」と言って蝶は舞羽の顔を覗き込んだ。「このままはゆう君がかわいそうだよ」


「………………………」


「来月には、この町ともさようならするんだから」


 舞羽はラムネを両手で握って俯いた。


 談話スペースの窓は夜になると解放されていた。すぐ隣には渡り廊下があり、そこはドアも壁もない。木製の柱が等間隔に並んでおりすぐに外に出る事ができる。廊下を渡った先に裕二氏の本宅があり、風呂場から反対に伸びている廊下を進めば骨董品のような洗濯乾燥機と簡素な流し台があるフロアに繋がっている。蚊取り線香の匂いが風に乗って漂い、夏の夜長を感じさせる場所だった。


 民宿の裏手にある雑木林から澄んだ風が流れ込んでくる。風鈴がちりんちりんと音を立てる。二人はこの場所が大好きだった。


「もう、ここへも来れなくなるね」と、蝶は言った。


「………うん」


「ここ好きなんだけどなぁ。たま~にでいいから、来れないかなぁ」


「うん」


「……………………」


 舞羽は何も答えない。


 蝶はラムネを一口飲んだ。からん、と音がした。


 舞羽がいろんなことに雁字がんじがらめになって苦しんでいるのは蝶も知っていた。大好きな姉のためにできる事はしてあげたいと思っていた。姉と同じくらいゆうの事も好きだった。それは友達としての好きであり、舞羽と遊ぶゆうが好きなのだった。だから、キチンと伝えるべきだと思っているし、自分で伝えると言った姉の気持ちを尊重した。


 だいたい、舞羽がわがままを言うところを蝶はほとんど見たことが無かった。姉はいつも物静かで、冷静で、思慮深いのだと思っていた。両親も友達でさえも舞羽が奔放に振る舞うところを見たことが無いのだった。


 それが、ゆう、彼の前ではわがまま言い放題で振り回し放題ときた。思うがままあるがままに彼を振り回し、それを楽しんでいるような舞羽の様子は、飼い主の膝の上で寝る子猫のような安心感を醸し出していた。


「お姉ちゃんが言いづらいなら、私が変わりに伝えるよ」


 蝶は、つい、そう口にだした。


 この旅行が舞羽のためになるならと母と話して決めたのだが、結果的に舞羽を苦しめるだけなのなら自分が代わろうと思ったのだ。ゆう君の悲しみを姉が受け止めなければいけないわけでは無いし、姉が苦しむ姿を見たくもない。誰も悲しんでほしくないという蝶の思いやりである。


 とうぜん、それが優しさに満ちた最悪の選択肢であると知りながら。


 舞羽は怒ったような顔をした。


「ダメ!」


「お姉ちゃん………」


「それだけは……ダメ」


 舞羽の顔は必死であった。そこには真剣に悩んでいる陰が潜んでいた。自分が伝えないといけないと分かっていて、いつか苦しい思いをしなければならないと分かっていて、その一歩が踏み出せない。身を切るような葛藤と苦悶の跡があった。


 誰かに伝えてもらうのは逃げである。自分で伝えないのはゆうへの裏切りである。ちゃんと面と向かって伝えて、それですっぱり縁を切る。それがけじめである。……でも、それが苦しいのである。


 そう言っているようであった。


「でも、このまま先延ばしにはできないよ。だって私達は……」


「分かってる。伝えなきゃって、自分の口で言わなきゃって、知ってる。でも、苦しいんだもん。言おう言おうって思うと胸がぎゅうってなって、悲しくなって、泣きそうになって……余計な心配、してほしくないから」


「……………………」


「分かってる。分かってるから」


 舞羽は俯いてラムネ瓶の飲み口をジッと見つめた。その横顔は思わず抱きしめたくなるほどに切なかった。


 そして、舞羽がぽつりと呟いた。


「ねえ、蝶……」


「……どしたの?」


「あのね、ゆうに伝えたあと、私を一人にしてくれる?」


「どうして。一人で頑張る必要ないじゃん」


 蝶はそう言ったが、舞羽の頬に伝うものを見てハッとした。


「……だって、だってね。私、見せたくないよ」


 舞羽は泣いていた。


 姉の嗚咽交じりの、震えた声。それは蝶の心にも伝播でんぱするようだった。


「泣いてるところを、見せたくない。私、我慢できないと思うの。泣くの、我慢できないと思うの……。絶対に、顔ぐしゃぐしゃになるから……。そんなところ、蝶には見せられないよ」


「…………………」


「…………………」


 しばらく無言が続いたあと、舞羽は涙を拭いてラムネをグイッと飲み干すと「ごめん、先に寝るね」と言って駆け出した。


 姉の背中がひどく小さく見えた。


 走り去る姉の背中を蝶は黙って見ていた。


 やがて蝶は窓の外に目をやる。空の上には月が輝いていた。細切れになった雲が月にかかって流れて行く。月に影を生んでそして流れて行く。月が泣くこともあるのだな、と蝶は思った。


「最初から向こうに行ってたのと、二学期から向こうに行くの。どっちが幸せだったのかな」


 ふと、蝶は呟いた。


 東京の本社にいる父親に言われて、彼女たちは東京へ引っ越していく。本当なら父親の東京行きに合わせて向こうの高校を受験する予定だった。けど、舞羽が1学期だけ、こっちの高校に通わせてくれと言って聞かなかった。両親が断ると願書を勝手に書き換えてしまった。姉がわがままを言う事なんて本当になかったから父も母も驚いていたけど、受かってしまったし、1学期の間ならという事で許してもらったのだった。


 ぜんぶ、ゆう君と過ごしたかったから。彼の隣にいたかったからだ。いずれ別れが来ると知りながら、姉は、見て見ぬふりをしていた。


 ただ別れの悲しみを増長させるだけだって、姉は知っていたはずだ。


「幸せのツケを払うのはいつだって不幸で………ってことかなぁ」


 やりきれないなぁ、と呟いて蝶はラムネの残りを飲んだ。


 手の中で温まったラムネはすっかりぬるくなっていた。


 23日になると、2人は街を離れて東京へ行く。


 あと1週間だ。



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