第30話 天ヶ崎舞羽の葛藤


 さて、旅行から帰ってきてからというもの、舞羽の様子がなにやらおかしかった。いつもキョドキョドびくびくしていて、僕の一挙手一投足を警戒しているような視線を絶え間なく送っている。僕がコップに手を伸ばせばビクリとし、トイレに立ち上がれば尻で跳ねた。そうして、目が合うと自分の部屋に逃げ帰ってしまうのだ。


「なあ、舞羽――――――-」


「いないよ! 舞羽なんていないよ!」


「そっちは窓……ああ、その先はお前の部屋だから合ってるか」


 といった具合である。


 みどり荘からの帰り道。僕達は行きと同じように山の字になって後部座席に座っていたが、その空気はなんだかピリピリしていた。舞羽は思い詰めたような表情でずっと僕の手を握っていたし、蝶は僕達のことを気にしているのか、チラチラと視線を寄越しては知らんぷりをした。何かが始まりそうで始まらない。何かきっかけを待っているような、そんな祈るような雰囲気さえあった。


 それが尾を引いているのか、舞羽は猫のように姿を隠すようになった。


 僕には理由がさっぱり分からないのだが、それでも、舞羽が何かを伝えようとしているのは明白であった。僕はそれを聞かねばならないと思ったし、それはとても大切な事であるはずなのだ。僕は舞羽のこんな様子を見たことは無いが、奇想天外で思った事を明け透けに言うような舞羽が話し出せずにいるのなら、それはきっと舞羽にとってとても大切な事であると見て間違いないだろう。


 僕は舞羽と話をしようとしたけれど、舞羽は僕を避けているようだった。前述のとおりのいたちごっこを繰り返してばかりで、僕が何かしようとしたらすぐに逃げ出してしまう。


 太陽と月が見果てぬ邂逅かいこうを求めて昇り、また沈むように、僕が舞羽を追いかければ舞羽は逃げてしまう。


 こんな不調和は初めての事だった。僕が追いかければ追いかけるほど舞羽が遠ざかっていくように思えた。


 そんな日が続き、気づけば旅行から7日が経っていた。夏休みも残り一週間。このままではまずいと思った僕は、


 8月22日の夜の事。ついに強硬手段に出ることにした。


 これが彼女と過ごす最後の夜だとはつゆも知らず、僕は行動を起こした。


「舞羽」と、僕は声をかけた。


 読みさしの小説を机に置いて彼女を振り返る。舞羽はビクッと飛び上がって逃げ出そうとしたが、すかさず僕は机の上にあった雑誌を彼女に見せて「これ、お前に似合いそうじゃないか?」と声をかけた。それはファッション雑誌である。舞羽がオシャレ好きなのを知っていたからあらかじめ買っておいたのだ。


 すると、予想通り興味を示した舞羽がおずおずと近づいてきた。それは餌を見せられた野良猫のごとき慎重さであり、彼女が僕を警戒して慎重になっているのは明らかだった。僕は少し悲しい気持ちになったがここで諦めてはいけない。「ほら、お前の好きそうなワンピースが載ってるぞ」


「どれ………?」


「これだよ、これ」


「………………?」


 僕は椅子から立ち上がって舞羽に近づいた。すると舞羽も雑誌をよく見ようと近づいてくる。


 舞羽との距離が、腕と腕が触れるくらいの距離になるのを僕は待って、すばやく彼女の背後に両腕を回す。


 おとり作戦は成功だった。


「捕まえた! 逃げるな!」


「きゃっ! なに!?」


 舞羽の体を背中から羽交い締めにして彼女を逃げられなくして、「もう離さないからな!」と言った。


「いや! 離して、離してー!」と舞羽は暴れるけれど、ここで引き下がるわけにはいかない。彼女の手が僕の顔を引っ掻くのを耐えながら、僕は核心と思しき一言を彼女に告げる。


「僕に隠してることがあるだろう。言うまで離さないからな」


 これが最後の夜だと知っていればもっと違う言葉をかけたことだろう。こんな責めるような口調ではなく、もっと優しい口調で、寄り添うような言葉をかけたことだろう。


 彼女が東京へ越してしまうことを知らない僕は、さらに高圧的に言った。


「君のここ数日の行動は不審だ。あの民宿で何かがあったのは間違いないと思っている。舞羽を苦しめるのはなんだ? 話を聞いてほしいという顔をしながら僕を避けるのはなぜだ? それを聞くまで僕は君を離さないからな」


「…………………うぅ」


 舞羽は大人しくなった。年貢の収め時とみて抵抗を諦めたのだろう。僕が拘束を緩めると、今度は彼女の方からすがりついてきた。


「怒らないで、聞いてくれる?」


 そう言う彼女の声はかつてない寂寞せきばくを感じさせる。まるで今生こんじょうの別れを告げる恋人のような心細さに耐える声。赤らんだ目元が彼女の真剣さを物語っているようだった。


 この東京行きが舞羽にとってどれほど苦しい事だったのか、僕は今になって良く分かる。高校生の僕達にとっては往復の電車代だけでも大金で、簡単に払える額ではない。そう思うと軽々に会いに来てなんて言えないし、でも、さようならなんて言いたくない。下手したら一生会えなくなるかもしれないのだ。舞羽は共に同じ感情に端を発する二つの葛藤に雁字搦めにされていたというのに、どうして僕は気づいてやれなかったのだろう。


 僕は彼女の目を見据えて頷く。そうして彼女の言葉を待った。


「……あのね、……あの、ね」


「……………………」


「……………………」


「………あの………ね、舞羽、ね………」


 しかし、声が次第に震えていく。表情は変わらなかったけれど、感情がオーバーフローするかのように涙がぽろぽろとこぼれだす。あたかも2人の舞羽が―――舞羽の心と肉体が衝突を起こすように、自制心の強い人が肉体の慟哭どうこくに耐えられないように、静かに泣き出した。


 そこで僕は彼女がどれほど苦しんでいたのかをようやく理解したのだ。その小さな体でどれだけ大きな悲しみを抱えていたのか。なにが彼女を泣かせるのかは分からないけれど、背中にのしかかる重石おもしは目に見えるように分かる。


 その重石はとても大きくて、丁寧に下ろさないと潰されてしまいそうなほどに、もしバランスを崩そうものなら二度と立ち上がる事ができないように、とても大きい物だった。


 舞羽は潰されることを恐れたのかもしれない。


「…………ごめんなさい、……言えない」


 僕の胸に顔をうずめて、それだけ言った。


「大丈夫。大丈夫だよ。無理に言わなくていい」


「……………本当に、ごめんなさい」


 僕は、安心した。


 こんな事を言うと身勝手なようだけど、舞羽が苦しみに潰されなくて安心したのだ。辛いなら言わなくて良いと思ったし、無理をしなくていいと思った。


 聞きたい気持ちはある。いつか話してほしいと思っている。できれば僕がその片側を支えられる日がくれば……などと思ってすらいた。


 強硬手段を取ったのは僕の大きな過ちである。


 彼女はすでに1人で重石を下ろそうと戦っていたのだ。それを僕が無理やり下ろさせようとしたのだから、いまは心を保つのに必死になって当然。ともすれば嫌われていた可能性すらあったのだ。僕が安心したというのは、つまり彼女に嫌われなくて良かったという意味である。


「大丈夫だよ。僕はどこにもいかない」


 そう言って僕は抱きしめた。


 いま言えないなら言えるまで待てばいい。僕はどこにも行かないし、仮にどこかへ行ったとしても舞羽はしれっと付いてきているのではないかと思われる。そんな連帯感というか、断ち切れない鎖のような繋がりを彼女から感じていた。


 僕は本気でそう思っていた。


 天ヶ崎舞羽とはいつまでも一緒なのだと、そういう運命の元に生まれたのだと思っていた。


 とうぜんそんな僕には、舞羽が首を振って「……ちがうの」と呟いた言葉の意味が分からなかったのだ。


「………どこにも行かないから」


 僕はもう一度言った。その一言が彼女にとって一番の毒であるとはつゆも知らず……。


 舞羽がどこかへ行ってしまうのだとはつゆも知らず。


 それがきっかけだったのだろう。


 舞羽の我慢はついに限界に達した。堪えていた涙がついに溢れ出して、僕の胸に顔を押し付けて泣きだした。これが彼女の本心であった事に、僕は後になって気づいた。


 どうして受け止めてやれなかったのだろう?


 舞羽は抱えていた苦しみを、子供のように全部さらけ出した。


「……ぐすん………ひっく……うぅ、うええぇぇぇん。うえええぇぇぇぇぇん……。いやだよぉ……いきたくないよぉぉ………ずっといたいよ……離れたくないよ……いっしょがいいよぉ…………ゆう、ゆうぅぅぅぅ」


 舞羽は口を大きく開けて泣いた。ピンと張っていた緊張の糸が切れたのだろう。ダムが決壊するように大声を出した。


「………………いまは、いたいだけいればいいよ」


「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ…………」


 泣き出した舞羽を慰めることしか僕にはできなかった。


 僕は彼女の言葉を『今は一緒にいてほしい』という意味に捉えた。

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