第15話 天ヶ崎舞羽とお化け


 それは、とある夏の夜の事。


 じめじめとした空気が肌を舐めるような夜だった。


 僕は勉強を終えてベッドに寝ころび、意識が眠りに落ちるのを待っていた。しかし眠れない。右肩上がりに上昇する不快指数が僕の安眠を妨げるのだ。


 呼吸をするたびに喉の奥に水滴がへばりつくような気持ち悪さを覚え、僕は自然と口を大きく開けて新鮮な空気を求めていた。


 ぬらぬらとした空気が喉元を通り過ぎる。


 僕は喘ぐように酸素を求めた。


 腕や脚がひどく熱い。体の外に熱が逃げないからだろうか。部屋にこもる空気は生暖かくて、僕の中に熱気を閉じ込めるようにドロドロしている。


 あまりの暑さに耐えかねてクーラーをつけたけど無駄だった。人工的な冷気は薄っぺらくて、逆に肌をざらざらと撫でるクーラーの風に苛立ちを感じた。


 そんな寝苦しい夜の事。


 息苦しい夜の、夏の事である。


 僕はクーラーを切って窓を開ける事にした。チロチロと僕の周りをうろちょろする安物の冷風よりも、自然の風の方がまだ涼しいように思えて、僕は怠い体を起こして窓に手をかける。すると、


 ガァ、ガァ、ガァ。


 突然カラスが鳴いた。ギクッとした。


 まるであの世の底から物悲しい唄を――いまは人に忘れられた怨念の嘆きを思い起こさせる物悲しい唄を歌っているかのように錆びて枯れはてた声。


 僕は早鐘を打つ心臓を抑えて、呟いた。


「なんでもない。ただ、カラスが鳴いただけだ。それだけだ。なんでもない」


 僕は自分に言い聞かせた。


 なんだか胸騒ぎがする夜だった。心がざわつくような、ぞわぞわするような夜だった。


 ただ、鴉が鳴いただけだ。それだけだ。なんでもない。


 窓を開けるといくばくかの熱気と共に新鮮な風が吹きこんで来た。


 部屋は僕の吐き出した二酸化炭素で埋め尽くされ、僕は自分の吐き出した空気をまた吸い込んでいたのである。そして、体内で温めてから吐き出すのである。


 そう思うと、まるで汚泥に浸かっているような気持ち悪さがこみ上げてきて、体の中で生暖かい泥濘でいねいうごめいているように思われた。


 新鮮な夜気が部屋に清潔さを思い出させた。


 僕はいくらかスッキリした気分で、またベッドに潜った。


 これでようやく眠る事ができるだろう。心がぞわぞわする夜の、いやに胸騒ぎのする夜であった。


 僕はようやく安らかに眠る事ができる。


 ところが、また何か………シーツを頭までかぶって目を閉じた時だった。


 キィ……と、何かの軋む音が聞こえた。


 誰かが階段を上っている。


 誰かが僕の家の階段を上がっている。きっと、お母さんだ。お母さんが僕の部屋を訪れるために階段を上っている。それだけだ。


 キィ………キィ………。それは等間隔の、今にも倒れてしまいそうな心細さを思わせる足音。


 誰かが僕の部屋を訪れようとしている。それだけだ。なんでもない。


 僕はシーツを巻き込むように横向きにうずくまって、ドアに背を向けた。


 足音は続く。


 僕は耳を塞いで、バクバク鳴る心臓を抑え付けた。


「何でもない。誰かが僕の部屋を訪れようとしている。それだけだ。なんでもない」


 僕は、そう呟いた。


 やがて、足音が僕の部屋の前で止まった。


 ピタッ と。静寂が訪れた。


 今にもお母さんが僕の名前を呼ぶぞ。部屋の戸を叩いて、優しい声で、僕を呼ぶ。それで終わり。僕は部屋の戸を開け放ってお母さんを迎え入れるのだ。たったそれだけだ。そう思って身構えていると、


 ドンドンドンドンドンドンドンドンドン


 激しくドアが音を立てた。


 ガチャガチャガチャガチャとドアノブを激しく動かす。


 ウウウウゥゥゥゥゥという何かの唸り声。


 僕は頭を抱え込んで早口に唱えた。


 あれは寝苦しい夜の淀んだ空気が見せる夏の夜の悪夢だ。胸騒ぎのする夜の息苦しさが見せる幻想だ。ただそれだけだ。なんでもない。


 僕は祈るように呟いた。


 今にも消えてなくなる。あれは僕の幻想だ。目を開ければ消えるのだ。


 僕はそう念じた。


 やがて、ガキンッ、という金属が弾き合うような音が鳴り、ドアが開いた。


 僕の恐怖は頂点に達した。


 ペタッ ペタッ と、仄暗い海の底から這いあがった亡者のような濡れた足音が、ゆっくりと、ゆっくりと、今にも倒れてしまいそうな心細さを伴って、僕に迫る。


 心臓が痛いほどに脈打ち全身に危険信号を発する。手足が痺れるような恐怖。僕は身じろぎさえ恐れて、ひたすら震えていた。


 ウウウウウゥゥゥゥゥゥと何かの唸り声が聞こえる。


 いま、僕の後ろにいる。


 僕の真後ろに立って、ジッと、僕を見下ろしている。


 僕は叫びたい気持ちを抑えて必死に念じた。


 これは幻想だ。夏の夜の淀んだ夜気が織り成す恐怖だ。


 シーツを巻き込んでうずくまる僕の首筋に、ぴたり、と冷たい手がかかる。


 血が通っていないような冷たさ。幽霊の手とはこういうものなのだろう。


 僕はとうとう、恐怖心に負けて振り返った。


「わああああああああああ!」


 僕は己を鼓舞するように叫んだ。


 その胸元に、ソイツが飛び込んでくる。


「ゆう………暑い………」


 天ヶ崎舞羽だった。


「あと、うるさい」


「……………は?」


 僕が呆気に取られていると、舞羽は暑い暑いと言いながら僕のベッドにコロンと転がった。


 どうやらさっきまで僕を怖がらせていたものは、この天ヶ崎舞羽に他ならないらしい。そういえば、彼女はピッキングを覚えたと言っていた。


 いつもこうやって僕の部屋に侵入しているのだろう。


「暑い……クーラーつけてよ」


 そうふてぶてしく言う舞羽に湧き上がる怒りを抑えきれずに、僕は身を乗り出して舞羽の部屋の窓を開け放つと、


「紛らわしいわ! このやろう!」


 と、舞羽をぺいっと放り投げた。



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