第14話 天ヶ崎舞羽と入浴事件


 僕は人生最大の窮地に立たされていた。すやすやと寝息を立てて舞羽が寝ている。とても安らかな寝顔で、湯舟の中で………。


「おい起きろ馬鹿! 死ぬぞ!」


 舞羽が風呂に入ってからすでに2時間が経とうとしていた。


                  ☆☆☆


 事の発端は数日前の蝶との会話であった。


「お姉ちゃんを夏休みの間預かってくれない?」


「うん……? その1文だけで2つくらいツッコミどころがあるんだが?」


「いーから、それは気にしないで。預かってほしいの」


「はあ………」


 たまたま公園に続く道が工事中だったために蝶とランニングをしてから、休日は彼女と走る事が多くなった。


 驚くべきことに彼女の方から誘ってくるのである。


 蝶の表情は日増しに柔らかくなり、どうやら部活内で孤立する事も無くなったようだ。


「友達が増えて部活が楽しくなったんだって。ゆうにお礼言っといてって言われたんだけど、何したの?」


 舞羽は不思議そうに首をかしげていたけど、僕は「さあね」とだけ答えておいた。蝶は自身の悩みを舞羽に打ち明けていなかったようだから、僕が話すのは違うように思ったのだ。


 一緒に走ると言ってもその頻度は一週間に一度くらいのもので、蝶からしたらほぼクールダウンのようなペースだけど、僕達は適当に雑談をしながら走る事が習慣になりつつあった。


「お姉ちゃんってさ、ほら、知っての通りの人間じゃない。ゆう君の前だとちゃんとしてるみたいだけど、家だと本当にズボラで、ご飯もロクに食べないのよ」


 いまは夏休み。蝶は部活の合宿があるとかで舞羽の面倒が見れないのだと言っていた。


「僕の前だとちゃんとしてる……? 僕の知る限りでも相当終わってるぞ?」


「まだ可愛い方よ。だって、お姉ちゃんったら………どれだけひどいかはとても口に出せないけど、とにかく終わってるの。せめてお風呂くらいはちゃんと入ってもらわないと……」


「え、なに? 僕に、舞羽の風呂の面倒を見ろって言ってるのか? 妹として一番止めるべき事じゃないのか?」


「まあ、一緒に湯舟に浸かろうものならゆう君の最後のお風呂は東京湾の底だけど、お願いしたいのはお風呂上りのドライヤーと、あとは、お姉ちゃんが寝てないか監視しといてほしいの」


 さすがに体を洗わせたりはしないと思うけど………。と小声で呟いたのが聞こえて僕はぞっとした。


 放っておくとそのまま衰弱して死ぬ怖れがあると蝶に脅されて舞羽を預かる事になったのだが…………、


 事件は初日に起きた。


「起きてるかーーー」


「起きてるよ! そんなに何回も確認しなくても大丈夫だから!」


 蝶の頼みもあって、僕はときたま風呂場に顔だしては舞羽に声をかけた。さすがに脱衣所に入る勇気は無く、ドアの前から声をかけるだけだったが、最初のうちは舞羽も元気な声を返していた。いくら舞羽でも恥ずかしいのか、どこか噛みつくような調子のある声だった。


 それが30分経ち1時間経ち、どれほど待っても舞羽が上がってくる様子がない。女子は長風呂だとよく言うがそれにしては長すぎる。さすがに心配になった僕は何度も声をかけ続けたが、返事すらも無くなった。


「おい、舞羽。入るぞ。起きてるなら今すぐ返事しろ! 返事が無いなら入るぞ。本当に入るぞ! 僕が風呂場に入ってもいいのか!」


 舞羽が風呂に入ってから2時間。


 とうとう僕は脱衣所に突入することにした。


 脱衣所の床には脱ぎ捨てられた衣服が散乱していた。Lサイズの白Tシャツにホットパンツ。大人っぽい刺繍のされた水色のレースの下着も脱ぎ散らかされ、僕は一瞬ドキッとしたが、すぐに気持ちを切り替えて風呂場のドアに手を伸ばす。


「いいか、舞羽。本当に開けるからな!」


 再三の呼びかけにも返事は無かった。


 この中で何が起こっているにせよ、舞羽の裸体を目撃する未来に収束する事は避けられないであろう。


 やましい目的ではないのに、なぜだかドキドキしていた。この向こうに一糸まとわぬ舞羽がいると思うと官能的な妄想が頼みもしないのに脳裏に再生される。それがなおさら鼓動を高めさせ、僕の手は知らず知らずのうちに震えていた。


「……はあ、舞羽ごめん。本当にごめん。殴るなら後でいくらでも殴ってくれ。怒るなら気のすむまで怒ってくれ。君の怒りはもっともだし、僕はそれほどの事をしようとしている。だが、蹴るなら金的以外にしてくれ。……本当にすまないが、開けるぞ! …………わーーーーーーーー! 何やってんだ!」


 生唾を呑み込み、僕は風呂場のドアを開け放った。


 すると、目の前に広がっていたのは大惨事であった。


「ぶくぶくぶくぶく………」と水面に浮かんでは消える泡沫うたかたの元を辿れば、浴槽に沈んでいる舞羽の姿がある。意識はないのか、目をつむって頭の先まで湯舟に沈みゆくさまはあたかもオフィーリアのごとし。


「おい起きろ馬鹿! 死ぬぞ!」


 僕が慌てて抱き起すと舞羽はすぐに気がついた。できるだけ舞羽の事を見ないように目をつむって、髪の毛と思しきさらさらの根元を辿って肩を抱き起す。すると、


「あぅ、蝶……おはよ」と、寝ぼけているらしい舞羽が僕の首に腕を伸ばして抱き着いてきた。


 呼吸もしっかりしていて、どうやら水を呑み込んでいる様子も無い。


「蝶もお風呂?」


 僕を妹と勘違いしているらしいが、とにかく間に合ったのだ。思ったよりも平気そうな声に僕は安堵した。


「まったく、心配させやがって……」と、舞羽のしっとりと暖かく濡れた腕を首の後ろで感じながら、僕はとにかく彼女を湯船から出そうと体を起こした。もちろん、目をつむったままで。


 ところが、僕は嫌悪感を甘んじてでも目を開けているべきだったのだ。


 人間目をつむっていると平衡感覚が鈍くなるもので、ちょっとした刺激にもよろめいてしまう。舞羽が「一緒に入ろう?」と、僕の体をグイッと引っ張ったために、僕は湯舟に頭から突っ込んでしまった。


 とつぜん、何かがぶら下がるような重量を感じて目を開けても時すでに遅し。僕は風呂場の床で足を滑らせてしまった。


「えっ? わあああああ!」


 ぼっちゃーん。僕は舞羽に抱きしめられる形で湯舟に頭から突っ込んだ。


 裸の女子に抱きしめられるなんてシチュエーションは、普通ならご褒美、あるいはそれ以上の至福を連想させる桃色的事態であるが、僕は顔面を蒼白にして叫んだ。


「は、放せ! 頼むから放せ! 蝶に殺される! ていうか今死ぬ! 水が! 水が入ってくるって!」


 口を開くたびに水が侵入し喉の奥で暖かいカルキ抜きの味がする。溺れると思ったが最後、僕はパニックを起こして、舞羽を引き剥がそうとするがうまく力が入らない。


「んーー、あったかいねぇ」


 舞羽は着やせするタイプらしい。脱いだらすごいのだろうとクラスの男子がしきりに噂していたが、僕はその真相を身を持って理解した。


 彼女の胸は人をダメにするソファーがごとき底なしの柔らかさ。顔全体で感じる優しい弾力。絹のような肌の奥深くまで包み込むような感覚。紛う事なき巨乳であった。


 やわらかいし、大きかった。


「舞羽! まっ……ガボガボガボ…………」


「ん、あれ、ゆう………? え、なんで」


 わあ~~~~~~~~~~! という舞羽の悲鳴が夜空をつんざき、僕はようやく解放された。


 とりあえず、風呂は舞羽の母親監視の元で入るという事で落ち着いた。



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