初めてお姉さんと会った日

 今日はドア近くの手すりに掴まることができた。

 いつもは人混みに囲まれて、揺れる電車に体幹を鍛えさせられる。


 私は身長が145センチしかないから吊革に掴むことができない。

 だからこうして縦長の手すりを確保できた今日は、容赦ない電車の揺れに難なく耐えることができる。


 電車に揺られているとき、私はいつも死にたいという考えが頭をよぎる。

 それは、お母さんの期待に応え続けることに疲れてしまったため。自分を解放するために死ぬことを考えるようになった。


 けど、死ぬことは簡単じゃない。

 死ぬには恐怖心があって、実行には度胸と行動力が必要。

 今でもお母さんの言われるままに生きている私には、それは到底無理なことだった。


『裏切らないようにこれからいっぱい頑張りなさい。一度も休むことは許しません』


 その言葉がずっと頭の中で響き続けている。


 裏切ってしまったのは一度だけ。その一度がとても大きなものだった。


 お母さんは、私に医者か弁護士、もしくは同等の職業を目指せと言っていた。けれど、私は偏差値70以上の高校から不合格通知を受けてしまったのだ。

 寝る間も惜しんで勉強して、学校では内申点を上げるために生徒会長を務め、毎日バタバタと忙しい日々を過ごしていたのに、結局は実力不足。


 悔しかった。

 でも、それ以上にお母さんが悔しがっていた。

 当然、お仕置きは受けた。

 お尻を叩かれるだけでなく、お母さんの気持ちを熱湯という形で背中にかけられた。


 一方で、滑り止めで受けていた波崎高校から合格通知を貰った。

 お母さんがギリギリ許してくれた高校だ。


 それから2カ月経ち、今ではお母さんとの会話はほとんどない。

 もし会話があっても、勉強のことやもうすぐ中間考査があるから満点を取りなさいと言われるだけ。


 私はこの先どうなっちゃうのかな。

 将来の夢なんてないし、お母さんに言われるがままの人生を歩んで行くしかないのはわかってる。

 生き続けている限りはお母さんの言うことに従わなければならない。


 だから、死んでこんな生活から解放されたいと常日頃考えてしまってる。

 自殺する勇気はない。

 たまに線路に飛び出て自殺する人がいるけど、それは相当追い込まれていたに違いない。

 私はその点まだ平気なのかもしれない。こうして毎日電車に揺られているのだから。


『この先、電車が揺れますのでご注意ください。お立ちのお客様はお近くのつり革や手すりにお掴まりください』


 男性の声でアナウンスされた後すぐに電車が左右に激しく揺れた。

 その時、お尻に何かが当たってるような感触があった。

 揺れに合わせて、トン、トン、トン、とリズムよくお尻に触れる何かが感じられた。


 通学と通勤の時間帯で混雑してるし、誰かの鞄が当たってるのかもしれない。そうあまり深くは考えずにいた。

 けど、次第に違う可能性も考えるようになった。


 最初は当たって離れてを繰り返していたのに、次第に間隔が短くなっていき、しまいには押し当ててきた。

 スカート越しでも人の手でだとわかるほどの感触だった。


 それでも私は信じたくなかった。

 きっとわざとではない。混雑してて狭いから仕方なく当たってるだけだと。


 その証拠に押し当られていた感触が消えた。

 やっぱり違ったんだ。

 と、ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間。

 今度は太腿にザラザラとした感触が伝わってきた。


「っ……」


 驚きのあまり、思わず身体がビクッと跳ねてしまった。


 感覚的には手の甲で摩られている感じで、強い不快感を覚えた。

 

 痴漢されていることは明白だった。

 私は肩にかけた鞄の紐を強く握りしめた。

 下手に抵抗したら目をつけられるかもしれないし、強引な手段に出られたら成す術がない。

 だから、嫌でも我慢するという選択が最善だと思った。


 一駅一駅がとても長く感じる。

 その間にもずっと触られていて、早く花楓駅に着いてほしい。


 電車がトンネル内に入り、外が暗くなったことで窓に私の顔が反射して映った。

 涙ぐみそうになって唇を噛みしめる酷い顔がそこにあった。


 私は後ろに立っている人が誰なのか反射を利用して確認しようとした。

 目が合ってしまう可能性があったので、少し怖かったけど、駅員さんに報告するためには特徴だけでも知る必要があった。

 振り向いて確認した方が一番確実だが、それは怖くてできない。


 電車がトンネルに入ってるこの間だけ。


 だけど、人が多すぎてそれらしい人は見当たらなかった。


 そんな時、人混みの中で、一人の女性がこちらを見ていた。


 私は女性に対して必死に目で訴えかける。

 痴漢に遭っています、助けてください、と。


 しかし、私の思いは届いたかどうかもわからず、トンネルの時間はすぐに終わりを迎えた。

 反射しなくなってしまった窓には外の景色が見えるばかり。


 せっかく目が合ったのに、何もできなかった。

 何で私だけこんな目に遭わないといけないの。おかしいよ、何で、何で……。


 そう思うと目頭が熱くなってきた。

 押し寄せる胸の苦しみに、今にも泣きだしそうだった。


「おはよ~」


 突然、声をかけられた。

 私は声のした方を見上げた。


 さっき窓に映っていた女性がいつの間にか私の隣に立って居て、優しく微笑みかけてきていた。

 胸の位置まで伸びた茶髪は穏やかに波打っていて、大人の魅力を感じさせる女性。私は思わず見惚れてしまった。


 言わないと、助けてくださいって。


「髪綺麗だね、羨ましい」

「あ、あの……」


 まだ後ろに触ってきた人がいると思ったら声が出ない。

 口は動くのに、声が喉につっかえて……。

 そうこうしていると、お姉さんが口を開く。


「わかってるよ。お姉さんの傍にいな」


 たったそれだけの言葉で、胸の苦しみが引き潮のように引いていった。

 私は一人じゃないと思えることが、何よりも安心だった。


「……はい」


 嬉しくて、ホッとして、私は気がつけばお姉さんの腕に身体をくっつけていた。

 このままずっとこうしていたい。

 こんなにも安らいだのは初めて。

 家ではお母さんが、学校では成績のことばかり考えて。

 でも今は私にはお姉さんが居てくれる。


 こんなお姉さんが欲しかったな。

 私は一人っ子だから、こうして寄り添える人はいない。


 電車が駅に到着して、後ろのドアが開く。

 隣に居たお姉さんがドアの方を見たのを私は見逃さなかった。

 たぶん、降りる駅だったんだと思う。

 私は何となく察していたけど、ずっとこうしていたくて、お姉さんの服の袖をちょこっとだけ掴んでみた。


 私のわがままだったのに、お姉さんは嫌な顔一つせず、柔らかく笑って傍に居続けてくれた。

 それでもやがて終わりはやって来る。


 次は花楓駅だ。


「あの、私、次で降ります……」


 もうお別れなんだ。

 辛いことは長く感じるのに、こういう時だけあっという間に終わるのは理不尽だと思う。


「じゃあ一緒に降りよっか」

「いいんですか……?」

「おっけいよ」


 おそらくだけど、お姉さんが降りるはずだった駅は通り過ぎてる。

 私のわがままで引き留めてしまったのに、お姉さんは笑顔を浮かべている。そんな顔を見ているだけで罪悪感がいっぱいだった。


 花楓駅に到着し、お姉さんと一緒に降りた。

 ここまで付き合わせてしまって、私は申し訳なさから必死に頭を下げた。

 助けてくれただけじゃなくて、ずっと近くに居てくれたことに対しての感謝も含めて。


 橋島真星。

 それがお姉さんの名前だった。


「遅刻しちゃいけないからもう行きな」


 もうお別れしちゃうのか……。

 こんな綺麗な人、見かけたら覚えてるはずだけど、そうじゃないってことは今日はたまたま会えたってこと。


「じゃあね、しほちゃん。また会えばいいね」


 終始笑顔で、まほさんは私に背を向ける。

 またいつ会えるのかわからないし、もしかしたら一生会えないかもしれないともうと、ここで別れたくなかった。


「あのっ」


 気がつけば私はまほさんの服の裾を掴んでいた。


「どうしたの?」


 私がまた引き留めてしまったから、まほさんは首を傾げてしまった。


「何かあるならお姉さんに言ってみ」


 まほさんが頭を撫でてきた。

 その間も私はこの人と離れたくなくて、どうしたら一緒に居てくれるだろうかと考えていた。


「ここで会ったのも何かの縁。話してほしいな、お姉さんに」


 優しく微笑みかけるまほさんと接点をつくるための口実を私は思いついてしまった。


「私、よく痴漢されてて、同じ人なのかは怖くて見れなかったからわからないんですけど……最近、電車に乗るのが怖くて」


 嘘。

 痴漢されたのは今日が初めて。

 何でこんなにも嘘を吐けてしまうんだろう。

 

 でもそうしないと、またまほさんに寄り添うことができない。


 けれど、まほさんの口から予想していないことを言われる。ボディーガードをつけてもらうことを提案されてしまったのだ。

 私はまほさんと離れたくなかっただけだったのに、こんなにも親身になってくれて、今さら本当のことも言えなかった。



 お昼休憩中に、まほさんからラインが来た。それも写真付きで。


『ボディーガード候補、ちなみに弟だよ〜。名前は浩多』


 写真には目が細くて機嫌が悪そうな顔をした男の子が写っていた。

 アングル的にたぶん隠し撮りしたんじゃないかなっていうくらいに、本人は撮られたことに気づいてない様子だった。


 寝起きなのか髪の毛はボサボサしてる。

 正直、まほさんとは似てるところが一つも見当たらなかった。むしろ相反してるように思えた。


 続けてまほさんからメッセージが来る。


『ライン教えるよ?』


 本当にボディーガードをつけるつもりなんだ。

 ここまでしてもらって、いまさら、まほさんと離れたくなかっただけなんて言えない。

 嘘を吐くのはできたのに、本当のことを言う勇希はない。


『はい、お願いします。ありがとうございます』

『おっけい! 弟に適当にスタンプ送らせるから、なんか適当に返事してやって。あいつ人見知りするタイプだからさ』


 人見知りするんだ。

 私もそうだから大丈夫かな。

 

『わかりました。ありがとうございます』


 不安を抱えつつも返信する。


『顔はちょっと怖いかもだけど、悪い奴じゃない。しほちゃんのことは絶対に守ってくれる』


 確かに顔は少し怖くて、睨まれたら萎縮してしまいそうだけど、人を見た目で判断するのは良くない。


『大丈夫です。ありがとうございます』

『もしかして緊張してる?』


 もちろん緊張してる。

 だって、初めて会う人だし、顔を見る限りは怖そう。

 それによく痴漢されてるなんて真っ赤な嘘だから、どこかでバレるんじゃないかと不安。


『はい、緊張してます』

『大丈夫大丈夫、弟も緊張してるから』


 それは大丈夫と言っていいのかな。


『あ、そうそう。しほちゃんの自撮り写真欲しいな』

『はい。後で送ります』


 と、返信した後で、写真の中に自撮りがないことに気がついた。

 でも、普通に撮ればいいだけだから大したことではない。


『ありがとう! 今から授業あるから、またね!』

『はい』


 既読はつかなかった。

 恐らく授業が始まったんだと思う。


 私もそろそろ五時限目の準備しないと。

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