姉ちゃんからの頼み(強制)

 この一年を振り返っても、思い出と呼べるものは何一つなかった。


「十二時か……」


 そんなにお腹は空いてないし、二度寝したい気持ちの方が強いので、一度起こした上半身を再び寝かせる。


 俺の名前は橋島はしじま浩多こうた

 通信制の高校に通って一年が経ち、ようやく通信のシステムにも慣れてきた頃。

 気持ちは既にぐうたらモードへと移行していた。


 五月に入ってから急に日中の気温が上がり、クーラーを使う時期がやってきた。

 クーラーをガンガンに効かせながら寝ると『風邪引くよ!』と姉ちゃんに怒られるから気をつけないと。


 姉ちゃんはまだ帰って来ないし、今ならクーラーを効かせたまま二度寝できる。

 

 例え風邪引こうが俺は通信だから休みという概念がない。

 スマホで専用のアプリから授業を受けるだけ。あとは年に五回のスクーリングがある。

 それさえしていれば卒業できるのが通信だ。


 全日制とは違って中間テストや期末テスト、体育祭や文化祭などの青春イベントはなく、ここ一年はずっと寝て起きてを繰り返す日々だった。

 お陰で思い出なんてものはない。

 まぁ、いるかと言われるとそうでもないが。


「ふぅ、快適だ……」


 次第に涼しくなっていき、一応、薄い布団をお腹にかけて眠る。


 しばらくして、ガチャンと音がして目を覚ました。


「誰か帰って来た」


 直感的にそう感じた。

 母さんと父さんは仕事だから帰って来るのは夜になる。

 となれば、消去法で考えると姉ちゃんだ。


「やば、消さないと」


 慌ててクーラーを消す。

 そして枕元のスマホで時刻を確認。


「まだ十三時じゃん」


 今日はバイトないって言ってたから早めに帰って来るとは思っていたけど、いくら何でも早すぎじゃないのか。


「ただいま~」


 下の方から姉ちゃんの声が響いてきた。


「酔ってはないか」


 たまに酔っ払って帰ってくる時があるけど、さすがにこの時間帯では飲んでないか。

 姉ちゃんは酔うと非常に面倒臭い。執拗に密着してきたと思ったら、なぜか急に説教してきたりと情緒不安定になる。


 階段を上がってくる足音が近づいてくる。


 俺は息を殺して居留守を装うが、まず玄関に靴があるのとそもそも普段から外出しないことは家族内では周知の事実なので、まるで意味はない。


「浩多~」


 ドンドンドンドン!


 扉の耐久性を信用し過ぎた激しいノック。

 もしかして酔ってる?


「浩多~返事しろ~」

「何だよっ」

「入るぞ~」


 姉ちゃんは入る前にいちいち合図をしてくる。

 前に俺が部屋の中で独り青春していたのを見られたのが原因だろう。

 その時の姉ちゃんの焦ったような顔は今でも忘れない。


 姉ちゃんが扉を開けて入って来る。


「昼食べてないでしょ。適当に買って置いたから食べなよ」

「ああ」


 早く戻ってくれないかな。二度寝したいんだけど。


「浩多」

「何?」


 まだ何かあるのか。


「突然なんだけどさ、女の子のライン知りたくない?」

「は?」


 本当に突然すぎだ。

 何の脈略もなさすぎて眠気がどこかにいってしまった。

 そんな俺を他所に、姉ちゃんはスマホを片手に「どうする?」と催促してくる。


「いや、何で?」

「いいから、イエスかノーで答えて」


 何か企んでるな。そんな顔をしている。

 俺はそんな手に易々と乗るような人間じゃない。


「ノーで」


 女の子のラインはまぁ欲しい。知ってどうするのかと思わなくもないが、友達のラインすらない俺にとっては欲しいのだ。

 だが、漠然と嫌な予感がするから断った。

 しかし、姉ちゃんがそれを許してくれるはずもなく、


「覚悟は出来てる?」


 と、拳を握り、はぁ、と息を吹きかけて気合を入れ始める。


素面しらふでそれすんなよ!」


 酔ってる時に気分が高揚したついでに腹パンされることはあるが、素面ではされたことがない。

 だが、それをしようとしている。目が本気だ。


 小さい時から全く変わっていない。

 何をするにしても力で解決しようとする脳筋っぷりは。

 小さい頃、食べてるお菓子を勝手に食い散らかしたり、遊んでるおもちゃを奪ってきたり。

 さすがに大学生になってまでそんな幼稚なことはしてこなくなったけど、根本は変わってないと思ってる。


 だから彼氏ができないんだ。

 口が裂けても言えないけど……。

 黙っていれば、弟の俺から見ても姉ちゃんは美人だ。ほんと黙ってさえいれば。


「浩多よ、これを見てもノーと言えるかね」


 俺の眼前にスマホを突きつきつけてくる。

 液晶の画面には、どこかぎこちない表情を浮かべた女の子の自撮り写真があった。

 加工してるかもしれないけど、見た感じ顔は小さくて、そんな小さな顔を艶やかな黒髪が優しく包み込んでいる。

 アイドルになれば一線級で活躍できるんじゃないかと思うくらいに整った容姿だ。

 ただし、加工してなければの話だ。


「どうよ、知りたいでしょ」

「どうよと言われても」


 意味がわからないまま軽々とイエスなんて言えない。


「仕方ない、事情を説明しよう」

「仕方ないことなのか……」


 姉ちゃんはいつになく真剣な顔で話し始める。


「この子、よく痴漢に遭うらしいの。今日も痴漢されてるところを私が助けたんだけど」

「もしかして殴ってないよね?」

「そんなことしないわよ」


 家での姉ちゃんしか知らないから、外でどんな風に振る舞ってるのか想像もつかない。けど、痴漢相手に殴りかかりそうなのは間違いない。


「それで、その子のために毎朝一緒に登校してほしいわけ。つまり、ボディーガードってこと」

「何で俺? 姉ちゃんがすればいいじゃん」


 わざわざ俺に頼まなくても姉ちゃんなら痴漢の一人や二人撃退できそうなものだが。

 酔った時の腹パンは男の俺でも悶絶するくらい威力があるし。


「私は大学があるでしょ。それにバイトもあるし、友達との付き合いもある。いずれは彼氏もできるんだから」

「できるわけないだろ……」


 反射的に思っていたことが口から滑ってしまった。

 幸いにもボソッと言ったから聞こえてないみたいだ。

 もし聞こえていたら……危なかった、殺されるところだった。


「で、でも今日は助けたんでしょ」

「たまたまよ。っていうか、どうせやることなくて暇でしょ。一日中寝てるんだから、ボディーガードくらいしなさい」

「俺だって忙しいよ……」

「どこが? 具体的に言ってみ」

「う……」


 しまった、返す言葉がない。

 今日も二度寝するくらい暇だったわけで。


「今日だってぐうたら寝てたんでしょ」

「面倒臭いなぁ。そもそも外に出たくないんだけど」


 俺が通信制にしたのも、こうして部屋に引き籠っているのも、ひとえに人があまり好きじゃないからだ。

 何考えてんのかわからないし、張り付けたような笑顔してて気持ち悪い。

 平気で傷つけて、呑気に生きてやがる。

 そんな人に会いたくないから、だから引き籠っている方が楽なんだ。何も考えなくていい、解放された気持ちになるからな。


「いつかは出ないといけないよ。私だって結婚して家を出るかもしれないし」

「それはない、あっ」

「殺すけどいいかな?」


 姉ちゃんの背後からどす黒いオーラが見える。

 再び拳を握って、妙に威圧的な笑みを浮かべて近寄って来る。


 仕方ないじゃないか。

 惑星直列並みにあり得ないことを言うもんだから、つい口が滑ってしまうのはどうしようもない。


「歯を食いしばってね~」

「じょ、冗談だって!」

「ボディーガードしてくれるよね?」


 と、胸ぐらを掴まれる。


「わ、わかった、ボディーガードする……だからその拳をしまって」


 必死にそう言うと、姉ちゃんはそっと拳をしまう。


「お姉ちゃん、浩多がやる気になってくれたみたいで嬉しいよ」

「はぁ……」


 なんか疲れた。


「じゃあ、約束通り女の子のライン教えるね」

「おう…………あいの、しほ?」


 ラインの名前はひらがなで『あいのしほ』とあった。

 アイコンはデフォルトで何も設定されていない。


「さっそく明日からよろしくね。私はバイトがあって行けないから」

「いや待って、初対面はきついって」


 ただでさえコミュ障なんだから、ましてや女の子と初めましてはベリーハードすぎる。

 こうして会話できてるのは家族だからで、外に出れば俺はただの屍なんだ。


「大丈夫、一緒に電車に乗って見送るだけ。簡単なお仕事だから。もちろん電車代は私がもつから」


 簡単とは簡単に言ってくれる。

 この世から簡単という言葉を捨ててやりたいくらいだ。


「というか、痴漢に遭ってる子に男の俺は怖がられるんじゃないか?」


 自分で言うのもなんだけど、俺は人相が悪い。

 前に姉ちゃんに言われたことがあるから間違いないと思う。あんまり認めたくはないけど……。


「確かにパッと見ガラ悪いけどさぁ。ヤンキーでもないのにねぇ、不思議ねぇ」


 からかってんのか。


「でも、そこが良いのよ。見た目怖い方が抑止力になるでしょ」

「やっぱ俺って怖く見える?」

「私はお姉ちゃんだから何とも思わないけど、友達がヤンキーかと思ったって言ってた」

「ちょっと待って、俺はその友達と会ったことないよ」


 姉ちゃんが家に友達を連れて来たことはない。

 もし連れて来たとしても俺は部屋に引き籠っているから会うことはないはず。ということはもしかして。


「写真見せた」

「勝手に見せないでくれる? ってかいつの間に撮ったんだ?」

「そりゃあ、スマホ弄る振りして動画撮って、それを写真にしただけよ。たまにリビングにいるでしょ、その時にね」

「やり口がプロだ……」


 姉ちゃんが盗撮で捕まらないことを祈ろう。


「ちなみに、しほちゃんにもあんたの写真送っておいたから」

「勝手なことを」

「でも安心して、しほちゃんから、大丈夫です、って来てるから少なくとも怖がられてないと思うよ」


 大丈夫ですって何?

 何が大丈夫なの?

 それのどこが怖がられてないってわかるのがわからないんだけど。


 まぁ、怖がられてないと仮定したとしても、俺は外に出たくない。

 元々、中学の時から引き籠り気味で、通信制の高校に入ってからは一度も外に出たことがないのだ。


「そういうわけだから、明日、七時に三咲みさき駅ね。絶対に遅刻しないように。着いたらそれで連絡取ってね」


 勝手に話を進めて、勝手に出て行った。

 扉が閉まる。


「やりたい放題だな」


 姉という存在はどこの家庭もこんなものなんだろうか。


「まぁ、俺は行かないけど」


 女の子には悪いと思う。

 でも俺はそういう奴だから恨まないでくれ。

 恨むなら俺に頼んだ姉ちゃんを恨んでくれ。


 そしてその夜、女の子からメッセージが送られてきた。

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