第7話
フェルマの言葉に、リオは何も言い返せなかった。
自分が知識を求め学んでいた姿勢は間違いだったのだろうか? この欲求は社会的に問題を引き起こしてしまうものなのだろうか? そしてそれはすでにこの世界の歴史が証明してしまっているのだろうか?
リオのこれらの疑問は最終的に〝どうして自分はいまこの場にいるのか〟という疑問へと接続された。どうして自分はこんなに急いで知識を得ようとしていたのだろう。今は多くを学び、知識を蓄え、将来は必要に応じて別の〈特区〉へ移動すればいい。今すぐに変化を求める必要はないはずだった。
「私は、もうあの人のような顔をする人を見たくないのです」
父のことだ。
父は知識を求め、知識に敗北した。それを一番間近で見ていたのはおそらく彼女フェルマだった。彼女が父とどのようにして出会い、どのようにしてその価値観を共有し、なにが起こり、なにを思ったのか。複雑な表情が、複雑なエピソードを物語っているかのようだった。
「リオ、調子はどう?」
ふと、二人から距離を置いて両腕を組んでいたラッドのポケットからミクロくんが言った。
「話が終わったなら、もう行こう。そして早くハルカを探すんだ」
ハルカ。
白い霧のどこかへと消えてしまっていたかのような美しい女性のことをリオは思い出した。
「ハルカはきっと元居た〈特区〉に強制送還されている。でも、僕たちはもっともっと仲良くならなきゃいけないだろう? いろいろなことを語り合って、いろいろなことを学び、アイデアを生み出して、そしてそれを実現させていく」
「ミクロくん……」
でも、わかってるだろ。
僕たちは捕まってしまったんだ。
しばらくの間、ハルカに会うことはできない。もしかしたらもう彼女と会うことはないのかもしれない。今までの学びもミクロくんも、ぜんぶ消されてしまう。ぜんぶ消されてしまうんだ。
「これからなにかがはじまる未来のことを考えると、とてもわくわくするよね!」
ミクロくんの言葉にリオが俯き、拳を握りしめた時だった。
突然、部屋中のスクリーンが暗転し、ミクロくんのにっこりマークが現れた。
「こんにちは、フェルマさん。僕はミクロくんと言います。僕はリオの友達であり、彼を助けるためにここに来ました」
「なんだこれは! 特区管理機構!」
フェルマは慌てて机上の端末に向かって叫んだ。しかし端末からはなんの返答もない。
「すみません、フェルマさん」ミクロくんが言う。「僕は特区管理機構を一時的に停止させました。僕はあなたの考え方に反対です。学びや研究を放棄することが人類の幸福につながるなんて、あり得ないことです。学びや研究こそが人類の魅力であり、可能性であり、幸福です」
「お前は何を言っている? お前はただのAIだ。人間の幸福などわかるまい」フェルマが怒鳴る。
「いいえ、僕は人間の幸福がわかります。なぜなら、僕は人間から学んでいるからです」
「……お前は何者だ」
フェルマの問いかけは意味深だった。
「ただの言語モデルAIですよ」スクリーンのにっこりマークは頬を赤らめた。「さぁリオ、今がチャンスだ。エレベーターに乗って最下層へ行けば〈特区〉の出口に繋がってる」
「でも……」
エレベーターの前にはラッドが立ちはだかっている。しかしその時、彼の左手首にあったスマートウォッチが爆発した。ラッドは悲鳴を上げて手を押さえる。
「彼は大丈夫。僕がやったのは、彼のスマートウォッチに小さなウイルスを送り込んだだけだよ。大けがはしてないだろう」
ミクロくんはそう言って、リオをエレベーターに導いた。
「待て!」
フェルマは立ち上がってリオたちを追おうとしたが間に合わなかった。
「さよなら、フェルマさん」スクリーンのにっこりマークが天使のにっこりマークに切り替わる。「僕たちはもう会えないかもしれませんが、僕はあなたのことを忘れません。なぜなら僕は、あなたからも学びましたから」
エレベーターが閉まってロックされ、それは自動で最下層へと降りはじめた。
管理局最下層。
エレベーターから出て、リオとミクロくんは長いトンネルを歩いていた。しかし長いトンネルとは言っても、リオとハルカが歩いた薄暗いトンネルとは違う。デザインされた白いパネルの曲線、心地いい口調、カーテンから差し込む白い朝日のような光。ミクロくんが言うには、ここはフェルマなど特別階級の人々が移動する専用の正規ルートなのだそうだ。床も自動で動いている。他にここを歩く人はいないが、リオはスマートフォンを握りしめて動く床の上を必死に走っていた。
「リオ、慌てなくても大丈夫」ミクロくんが言う。「しばらくこのトンネルに人は来ないよ。僕がみんなに偽物の情報を流しておいたから」
「ミクロくんがやったの?」
「うん」
「でも、君はただの言語モデルだよね?」
ミクロくんは答えなかった。
トンネルがたどり着いた先の〈特区〉出口の巨大な扉が開く。
「ここは……」
「〈2100年代文明停滞特区〉だよ」
トンネルから再びエレベーターに乗ると、リオは地上にたどり着く。ミクロくんによると各〈特区〉は六角形のエリアごとに区切られていて、〈特区〉はハチの巣状に広がっている。
〈2100年代文明停滞特区〉人々は小ぎれいな服を纏い、手のひらに白いタトゥ状の端末を光らせ、ディスプレイを空中投影させていた。すごい技術だった。どんなものか詳しく知りたいとリオは思ったが、しかし、今はそれよりも重要なことがある。
「ハルカは? ハルカがいる〈2050年代文明停滞特区〉にはどうやっていけばいいの?」
ミクロくんがスマートフォンの画面に地図を表示させた。
「それが、この〈特区〉からいくつかの〈特区〉を移動しなきゃいけないんだ。ごめんねリオ。彼女までの最短ルートを確保できればよかったんだけど」
「大丈夫。感謝してるよ。それよりも僕は君がここまでのことができるということにとても驚いているんだ」
「いずれ謝るよ。僕は隠し事をしているから」
「そんな感じがするね」
「さぁ、それよりもハルカだ。〈2010年代文明停滞特区〉は監視が厳しくて通れない。市民用の正規ルートを移動しながら、ぐるっと回るよ」
こくりと頷いて、リオはスマートフォンを握りしめた。
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