Opus,9

 

 ははーん。

 最初こそ戸惑ったが危ない、危ない。

 多分――市瀬は俺を揶揄うつもりだ。


 最近、ほぼ毎日、一緒に過ごしていたから、コイツの性格は大体把握している。


 はい、ここで市瀬の誘いをうっかり信じておっぱいでも揉んでみろ、一生、強請られる。


 毎日、ハーゲンダッ◯だ。


 それこそ、市瀬の狙いだろう――俺は騙されない。


 コイツからすげーいい匂いがするけど……くっ、騙されない。


 何か、背中に腕を回されて、ぎゅっーてされているけど……ぬぉぉぉ、騙されない。


 俺は市瀬の肩を掴んで、必要以上に密着していた体を引き離した。


 驚いたように目を見開く市瀬。

 長い睫毛が震える――。


「田中先輩、アタシじゃ、嫌ですか?」


 神演技ぃぃぃぃ。

 コイツ、無駄に顔がいい分……怖いわ。

 

 あーはいはい。

 そーゆーのは好きな人としましょうねー。


 俺がそう言うと、市瀬は背中を向けてしまった。

 

 一瞬――怒っているのかと思ったが、しばらくして市瀬は起き上がると、ぼんやりと乱れた髪を直していた。


「アタシ、帰りますね……」

「お、おう」


 そう言いながらも、なかなか立ち上がらない市瀬。

 少しだけ息を吐いた後、静かに話し始めた。


「最初は……あの山本先輩が恋人に選んだ人がどんな人なのか興味がありました。だけど、あまりにも普通の人だったので、驚くのと同時に、どうしてこの人なんだろうと思うようになりました」

「市瀬?何を言い出して……」

「先輩は……ちょっと黙って聞いててください」

「…………」

「それから、アタシなりに観察してたんです。そしたら、先輩には山本先輩以外に春山先輩もいて――それでアタシ……偶然、見ちゃったんです。二人が仲良くしている姿を見ていた山本先輩が真っ赤な顔をして口元を押さえて、今にも泣きそうな顔をしている所を。あの山本先輩が嫉妬の炎に身を焼かれているなんて……やっぱり田中先輩は凄い人なのかなと思うようになりました」


 あー。

 どこからツっこむべきが悩む。


 まず俺の推し、変態さんなんよねー。

 俺と春山さんが仲良くしているだけで、自分が寝取ったという事実により興奮している――と思われる。


 あれから山本さんから呼び出しはないけど、たまに隣の席から「ぐふっ、ぐふふ」という変な笑い声が聞こえて来るから、あながち間違ってはいないはずだ。


 だから、俺は凄い人ではない。

 市瀬の勘違いだ。


 だけど、山本さんとの一件は春山さんにバレる訳にはいかない――墓場まで持っていく案件なので黙秘に限る。


「あと……」


 えっ……まだ、あるん?


「三月先輩を助けようと、必死になって行動していた先輩……ちょっと、カッコよかったです……」

「えっ……」

「ち、ちょっとですけど……」


 んん?

 あれ?

 市瀬の様子が……おかしくないか?

 まさか、泣いてないよな?


「なあ、市瀬……」


 俺は思わず腕を伸ばした。

 僅かに震える肩を掴んで、市瀬の顔を覗き込む。


 その瞬間、部屋に差し込んでいたオレンジ色の光に――夜が混じる。


「お前……何で泣いて……」

「見ないで……くださいよ。こんなブスな顔……」

「…………」

「あーもうバカみたいですよね……。こんな感情初めてで、訳わかんないですよ。何で涙出てくるのかもわかんないです。本当っ、先輩って迷惑な人です。山本先輩と付き合っているのに、春山先輩を大切にしてて、ついでにアタシにも……凄く優しくて……。もう、ただの女誑しじゃんって思ったんですけど……気づいたら、アタシ、ずっと先輩のことを目で追ってて……」




 混じった夜が――俺と市瀬の間に溶ける。




「いつの間にか、好きになっちゃってました、先輩のこと……」




 俺は思わず指先で――市瀬の両頬に伝う涙を拭った。

 どうして、そうしたのかは解らない。

 ただ……。

 



「先輩……これ以上は優しくしないで……じゃないと……」




 そのまま――市瀬の顔が俺に近づいて来て、薄く開かれた唇が俺の唇に触れた瞬間――








 ――■■君、小梅ちゃんが戻ってくる。その子から離れて。






 

 

 聞き覚えのある田中の声が聞こえて――。






 ◇◇◇



 エピローグまで、あと少しです。

 皆様の評価や応援、コメントに励まされてここまで辿り着きました。

 ありがとうございます。


 

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