第17話

「ねぇ、響君」

 どれほどの時間が経ったことだろう──そう言いたいところだったが、それもあくまで体感の話でしかない。実際は全くと言っていいほど、時間なんて過ぎてはいないはずだった。

「キミは僕を充分に救ってくれたよ。だから、気にしないで」

 過去形だった。今生の別れみたいな言い草だったけれど、この流れでまた会えると思う方が不自然だった。もう限界なのだろうと、それしか考えることができず、これから先のことになんて頭が回らない。例えば、取り残された契約関係とか、俺の魂の行き先とか。

「キミがもっと普通の、取るに足らない人間の一人だったら話は早かったんだけど」

 もしもそうだったら、僕はキミのことを出会ったその日に殺していた、と。

 彼は間違いなく、俺の隣で、適切な距離感のもとで──そう言った。

「キミの言葉が──なんでだろうね、もっと聞きたくなってしまって。キミはよく僕に気づいてくれたし、手を差し伸べてくれた。誰にでもかけているような何気ない言葉も、そうじゃない言葉も──僕にとっては心地よくて、救いで……僕の欲しいものだったから、離れられなくなってしまって。……そうだな、まるで鎖みたいな。誠実という名の毒が込められた、純銀製の鎖。僕はその小さな輪っかのひとつが欲しくて、ずっと繋がれていたかったんだと思う。……本当は、もっと早く離れなきゃいけなかったのに」

 俺は思わず傍らの悪魔を見た。もう、いつもの品のある人型だった。

「キミは僕にとって特別だったんだ。……ごめんね、僕はキミを殺すために近づいたけど、僕にはキミを殺せないみたいだ。……だから、もう離れるしかない。僕はキミを──キミだけは、傷つけたくないから」

 俺はもう抵抗しなかった。皮肉なことに、少しすっきりしている自分がいた。だから、これ以上何かを言おうとして、もう一度あの異常な情念を呼び起こさないようにだけ努めていた。……そういうことにしておいてほしい。本当はただ、疲れてしまっただけなのかもしれないけれど。

「響君、」

「……なんだ?」

「もしも……永遠の命なんてものがあったら、キミは安心して生きていけるのかな」

 カルドはうずくまるようにして髪を垂らし、言葉を地面に落とす。これからまた一人で生きていく、俺の身を案じてのことだろう。

「……お前、永遠が嫌で死にたがってたんじゃなかったのかよ」

 身近に永遠で悩んでる奴がいて、永遠なんか欲しがらねぇよ。

 そう言うと、彼は静かに笑った。

「そう、だよね……、うん」

 俯いたまま頷いて、彼はおもむろに立ち上がる。言い訳のように「時間だよね」と言った。シフトの時間ということだろう。時間なんて個人的にはどうでもいいのに、こんなことがあっても当然のように仕事に行かなければならないというのだから、大人というものは恐ろしい。

 でも、俺も早いところ「いつもの生活」というものを取り戻さなければいけないような気はした。

 さもないと、俺まで底なしの瞳を手に入れてしまいそうだった。

「……じゃあ、もう行くよ」

「ああ……」

 行ってらっしゃい、ではないのだろうと思った。こいつはきっと、もう俺に縛られたくはないはずだから。その言葉を口にしてしまったら最後、こいつはまた俺の「誠実」に呪われる。いつか「ただいま」を言わなければいけなくなってしまう。だから、俺は何も言わない。もうこれ以上、鎖のひとつも与えるわけにはいかない。

「────、」

 胸の内から湧き上がってくる言葉を飲み込んだ。ありがとうなのか、さよならなのか、それは俺にもわからない。

 その時、ピン、と何かが鳴った。高くて澄んだ音と共に、上から何かが降ってくる。手を差し出したところに、ぴったりと落ちてきた。

「あげる。持っててくれたら嬉しい」

 手の中に収まっていたのは、シルバーのリングだった。小さな輪っかだ。

「僕の血肉であり矛であり盾でもあるからね、お守りぐらいにはなるかもしれない。……まあ、逆に不幸ばっかり呼び込む可能性もあるにはあるけど」

「じゃあ何か? お前は生まれてこのかたずっと不幸だったって言うのかよ」

 ある種の自信が、たぶん俺にそう言わせた。赦すように──そして諦めるように、余裕のある穏やかな笑みすら俺に浮かべさせていた。

 瞳の輪郭をはっきりと見せて振り返った彼は、それから徐に、たっぷりと時間をかけて、笑んだ。

「いや。──僕は充分に幸福だったよ」

「それならいいんだ。……俺も、楽しかったから」

 目の前の男の形見をきつく握りしめ、心を殺す。

「──生きてね。響君。願わくは、幸せに」

 そう言い残して、彼は夜の闇へと消えた。


 再び一人になったいつもの場所で、俺は漠然と思考する。

 ──幸せって、一体どんな状態だろう。

 少なくとも、今ではない。

 今ではないけれど、限りなく近いものを知っているような気がして、思わず黙り込む。

 手の中で転がる小さな輪を、真上にかざした。

 ぐるりと一周するように彫られた溝と、一箇所にだけある縦のライン。二本の線が垂直に交わる部分には、不透明ながら血のように赤い石が埋め込まれていた。

 誰かの瞳を思い出して、そっと目を逸らす。

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